間話 次の段階
黒耀城。
訓練場。
夕刻。
天蓋越しの赤い光が、石床を鈍く染めていた。
セレンは剣を持ったまま、ヴァイレンを見上げる。
汗が首筋を伝っていた。
ヴァイレンは腕を組んで立っている。
「半年後には、でかい戦だ」
セレンの肩が小さく揺れた。
「……それは」
「地上とやる」
沈黙。
セレンの顔が強張る。
だが、ヴァイレンはそこで止まらなかった。
「最前線に立てとは言わねぇ」
金の瞳が、まっすぐ向く。
「だが、魔力流しっぱなしで立ってられるくらいにはしろ」
「体力と魔力を強化する」
セレンはすぐに背筋を伸ばした。
「はい!」
ヴァイレンは顎で外周を示す。
「じゃあ、魔力流したまま走れ」
セレンはきょとんとする。
「それは足が早くなるのですか?」
ヴァイレンは鼻を鳴らした。
「ならねぇ」
「体力を追い込むだけだ」
そして、指で地面を叩く。
「ほれ、走れ!」
「はい!」
セレンは慌てて駆け出した。
訓練場の外周。
石床を踏む音が続く。
最初は軽い。
だが、すぐに呼吸が荒くなる。
「流すの止めるな!」
後ろからヴァイレンの声が飛ぶ。
「やってます!」
「光らせるな!」
「が、がんばります!」
足元が、ぽわ、と光った。
「光ってるだろうが!」
「すみません!」
セレンは必死に走る。
肩で息をしながら、それでも止まらない。
ヴァイレンは腕を組んだまま見ていた。
「前線じゃ、立ってるだけで体力が削られる」
「斬る前に息が切れたら終わりだ」
セレンは唇を引き結ぶ。
「……はい!」
「受け流しも回避も、足が残ってなきゃ話にならねぇ」
訓練場の端で折り返す。
セレンの足取りは、もう重い。
魔力を流し続けるせいで、全身が熱い。
呼吸が乱れる。
脚が鈍る。
それでも走る。
「止まるな」
短い声。
「あと三周」
「さ、三周!?」
「前線なめるな」
泣きそうな顔で、また走り出す。
石床を蹴る。
息が焼ける。
足が重い。
それでも、魔力は切らない。
ヴァイレンはその背を見ながら、小さく鼻を鳴らした。
「……少しは、マシになれよ」
その声は、セレンには届かなかった。
⸻
夕刻。
「止まるな!」
「……はい!」
セレンの足がもつれる。
それでも走る。
「あと一周!」
「は、はい……っ!」
呼吸が崩れる。
魔力が乱れる。
視界が揺れる。
それでも――止まらない。
「……っ」
足が、止まった。
そのまま前に倒れる。
──限界だった。
⸻
やはりセレンは倒れた。
魔力切れである。
寝所。
淡い灯りの下。
寝台には、セレンが横たわっている。
規則正しい寝息。
顔色は悪くない。
その横で、ヴァイレンが腕を組んで立っていた。
「……なんでこんな魔力ねぇんだよ」
苛立ち混じりの声。
傍らの治療士は、記録板を見ながら淡々と答える。
「人族は魔素呼吸をしていませんからね」
一拍。
ヴァイレンの眉が動く。
「はぁ?」
「どうやって生きてんだよ」
治療士は顔も上げずに言った。
「酸素です」
「植物や水蒸気から発生していると考えられています」
沈黙。
ヴァイレンはしばらく黙り込んだ。
納得はしていない。
「……意味わかんねぇな」
ぼそりと吐き捨てる。
治療士は記録板に何かを書き込みながら続けた。
「ですが、初期に比べれば魔力量はかなり増えています」
「使い切っては回復を繰り返していますからね」
「結果的に、効率のいい増加になっています」
ヴァイレンは舌打ちした。
「……まぁそうだけどよ」
魔力を使い切り、回復させる。
魔族にとっての魔力増強法としては一般的だったが、人族には負担が大きい。
かなり強引ではある。
それでも、魔力量は確実に底上げされていた。
ヴァイレンは寝台のセレンを見る。
ぐっすりと眠っている。
何も知らない顔で。
「……で」
低く吐き出す。
「また俺の部屋かよ……」
治療士は即答した。
「はい」
「魔素呼吸できない人族にとって、魔力循環の効率が最も高いので」
ヴァイレンのこめかみに血管が浮く。
「他にねぇのかよ!」
「現状では最適解です」
淡々。
逃げ場はなかった。
ヴァイレンはしばらく黙り込み、深くため息をつく。
「……クソが」
⸻
廊下の片隅で、リュミエラは静かに息を吐いた。
「……困りましたね」
誰に聞かせるでもない、小さな独白だった。
視線の先には、閉ざされた寝所の扉がある。
その向こうで起きている状況は、すでに観測済みだった。
「明らかに、確実に──」
指先で頬を軽く押さえ、思考を整理する。
「ヴァイレン様は、勇者セレン様に想いを寄せていらっしゃる」
断定だった。
「絆も結ばれるほどの強度。感情の質も安定しています」
「……にもかかわらず、全く動こうとしません」
沈黙。
原因を切り分ける。
「人族への告白を躊躇っているのでしょうか」
「……種族差」
候補としては妥当だ。
短命種と長命種。共にいられる時間は短い。
「あるいは、単純に言語化能力の問題か」
思い出す。
ヴァイレンの不器用な物言い。
荒い言葉遣い。
「愛情表現の語彙が不足していますね……詩の教育でも施すべきでしょうか」
だが、すぐに首を振る。
「いえ」
もう一方にも問題がある。
「セレン様も、まったく異性として認識していません」
同性扱い。
上司と部下。
女であるという自認の欠如。
異種族を恋愛対象として見られないのか。
それとも、まだ心に余裕がないのか。
「……これで何も起きないのは、むしろ当然ですね」
肩が、わずかに落ちた。
「がっかりです」
率直だった。
しかし、すぐに思考を切り替える。
「研究自体は順調です」
勇者研究。
彼女が人生を捧げてきた領域だ。
地方都市の図書室。
勇者研究に没頭し、変人扱いされていた頃。
そこから引き上げたのは、レイゼンだった。
──私はこれより魔王を名乗る。
──そして勇者が、私の命を狙いに訪れる。
──貴様の知恵を貸せ。
認められた。
魔王を幾度も排出する名家に。
だが、失敗は許されなかった。
失敗すれば雇用主は命を落とす。
そうなれば、自分も責任を追及され、処刑される。
勇者から命を守るには、勇者の絆の力を引き込むしかない。
絆を持たない勇者を味方にする。
それが最善であり、同時に最も危うい賭けでもあった。
もし初手で、絆を持つ勇者が来ていたなら。
黒はかなり危なかったはずだ。
絆を持つ勇者は、追い詰められるほど力を増す。
下手に刺激すれば、魔王に届く前に城ごと吹き飛ぶ可能性すらあった。
その意味で、セレンとバニングに強い絆がなかったのは、偶然の当たりだった。
そして同時に、それは教会にとって、二人が守る優先度の低い勇者だったということでもある。
「教会は勇者というものを何もわかっていませんね」
「戦や魔族への兵器という扱いなのでしょう」
セレンは身分が低い。
数年前まで、孤児院を兼ねた縫製工場で働いていた。
戦闘能力も、勇者としては明らかに低かった。
伸びないと判断されたのか。
あるいは、最初から切り捨てられたのか。
「死んでもいいと送り込んでおいて、こちらで絆を結べば裏切り者……」
「そもそも成立しないと思っていたのでしょうか」
そこまでは分からない。
だが、黒にとっては幸運だった。
女に変えられたことで、気性も穏やかだった。
見目も整っている。
だから黒も受け入れた。
勇者としてではない。
地上から来た客として。
そこに敵意が薄く、居場所が生まれた。
だから絆が育った。
もし最初から牙を剥く勇者だったなら、この形にはならなかっただろう。
干渉せず、見守り、黒で受け入れ、愛着を持ってもらう。
絆が誰と形成されるかは、もはや賭けだった。
レイゼンか。
ヴァイレンか。
それとも別の魔族か。
選んだのは、ヴァイレンの意志だった。
勇者ジャスティスに追い詰められ、セレンが連れ去られそうになった、その時。
──勝手に奪うな。
魔力の爆発を観測した。
四人の女連れの勇者を押し返した。
感動すら覚えた。
魔族と人族でも絆は成立する。
勇者に勝てる。
もしあの時、ヴァイレンが目覚めなければ、勇者は連行され、地上で処刑されていたかもしれない。
そして勇者ジャスティス、あるいはブレイドに、魔王は屠られていた可能性が高い。
綱渡りだった。
セレンを含め、四人の勇者を観測する機会を得た。
どれも貴重な資料となった。
研究は確かに進んでいる。
勇者の正体も、ほぼ掴みかけている。
必要なのは次の段階。
二人の関係の進展。
そして──
セレン自身による、勇者の力の覚醒だ。
「拘束は、もう不要でしょう」
自然状態での接触でも、十分な上昇率が確認できている。
リュミエラは小さく息を吐いた。
「……とはいえ、もう少し進展していただきたいのですが」
一拍。
「信頼関係を損なう行為は不可」
「まずは告白ですね」
配置。動線。任務割り。
いくつかの案が浮かび、消える。
「……急がないと」
「私がレイゼン様に締め上げられてしまいます」
リュミエラは無表情のまま踵を返した。
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