夕日と猫①
「あれ。この子……」
桜の花が風にさらわれ、葉桜の緑が目に鮮やかになり始めた頃。
桃華宮の門を出たところで、一匹の猫に出くわした。
後宮には何十匹もの猫が住みついているのだが、その猫も見慣れた子だった。
背は茶色と黒で、お腹と足だけが白い。
角度によってはまるで白い長靴を履いているように見えるのが特徴だ。
けれど、今日その「長靴」が、どういうわけか赤黒く汚れている。
「もしかして、どこかケガしてる?」
猫の近くに寄ってしゃがみこんだところで、背後から名を呼ばれた。
「トウコ」
「……陛下。どうしたんですか?」
ふり向くと、憂炎陛下がひとりでぽつんと立っていた。
「こやつを捕まえようと追っていたら、ここまで来てしまった」
陛下はそう言って、私の足元の猫を指差す。
「この子、やっぱりケガしてるんでしょうか?血がついてて……」
「いや。血ではなく朱肉だ」
「朱肉…?」
陛下が取り出した奏状には、白いページに赤や黒の肉球が点々と。
真っ白な紙の上を、猫が気ままに歩くさまがすぐに目に浮かんだ。
「執務机にのぼって、墨やら印やら筆記具を全てひっくり返された。足を洗ってやろうと思ったのだが、逃げ足が早くて」
どうやら後宮の猫は、国王の執務室にまで入り込むようだ。
それにしても、仕事を邪魔された相手に腹を立てるそぶりもなく、ただその身を案じるお人好しな所は何とも陛下らしい。
「じゃあうちで洗いますよ」
私は猫を抱えて、そのまま屋敷の中へと引き返す。
桃華宮の女官たちは、はじめ私の背後にいるのが陛下だとは気づかなかった。
従者の一人もつけず、あまりにも自然に、ただ私の友達のような足取りで入ってきたから。
自室に戻ると、さっそく水を張ったタライを用意して、猫を入れてみる。
「うわっ……! ちょっと、暴れないで!」
やはり水が嫌なのか、猫は必死に抵抗し、なかなか洗わせてはくれない。
ところが、陛下が抱き上げると驚くほど大人しくなった。
そのまま陛下は膝をつき、タライの中で猫の足を優しく揉んでいる。
「猫に好かれるタイプなんですね。他の子も陛下によくすり寄ってきますし」
「好かれているかは分からぬが、幼い頃はよく追いかけ回されたものだ」
過去の苦い思い出を噛みしめているような横顔の陛下。
小さな男の子が、自分の腰ほどもある大きな猫から必死に逃げ回る姿を想像し、少し口元が緩んだ。
「こいつの番で、黒斑の猫がいたのだが……近ごろ見かけない。無事であると良いが」
「ああ、その子ならうちにいますよ。お腹に赤ちゃんがいるんです」
その雌猫が、子を宿していると気づいたのは先々週のことだ。
明るいミルクティーベージュの毛に黒い水玉模様のその猫に、私は「タピオカ」という名をつけ、出産まで桃華宮で世話することにした。
子の父親がどの猫かは知らなかったが、番ということは、まさに今足を洗われているいたずら猫がそうなのだろう。
「驚いた。ついこの間まで子猫だったのに、もう父になったのか」
陛下は真面目な顔で濡れた猫を抱き上げ、感心したように呟いた。
「そなた、わたしよりもよほど繁殖力がある」
「……ちょ、笑えない冗談やめてくださいよ!」
笑ってはいけない時ほど、可笑しさが込み上げてくるのはなぜだろう。
私が堪えきれずに吹き出すと、それを見て陛下もくすくすと笑い始めた。
猫を洗いながら自虐ネタをかます国王なんて、他にいるだろうか。
「よし。きれいになった」
陛下は水浸しの猫を女官に預けると、袖で額の汗をぬぐう。
いっぽうの猫は女官の腕の中でぶるぶると体を震わせ、周囲に水を飛ばしまくっていた。
「お疲れ様です。これどうぞ」
椅子にかけて一息つく陛下に、私は用意していた飲み物を出した。
庭の赤紫蘇を煮出し、砂糖を加えたシソジュースだ。
「よく見ててくださいね」
コップに入れた赤紫色のジュースの上で、レモンの欠片を絞って汁を垂らす。
するとコップの中は、みるみるうちに鮮やかなピンク色に変わった。
「なんと……不思議だ」
陛下は目をきらきらと輝かせ、なぜ色が変わるのかと聞いた。
「レモンの酸性……いや、とにかく酸っぱい成分が色を変えるそうです」
蘭王の陵墓で海を眺めた時も思ったが、陛下の反応はいつも静かで、だけど純粋な驚きに満ちている。
その澄んだ瞳を見ていると、こちらまで嬉しくなって、つい次は何で驚かせてやろうかと考えてしまう。
「よかった。いつか陛下に見せたいと思っ……たので……」
口に出してから急に恥ずかしくなり、声が尻すぼみになってしまった。
これじゃあまるで、私がいつも陛下のことを考えているみたいではないか。
しかし陛下は特に気にする様子もなく、赤いジュースをごくごくと飲んでいる。
「そういえば、トウコはここにいて良いのか?どこかへ行くつもりだったのだろう」
「いいんです。散歩がてらちょっと東櫻宮へ、藤棚の様子を見に行こうかと」
「藤の花が好きなのか」
「そうですね。紫は好きな色ですし」
改めて聞かれると、春の定番の桜よりも藤の方が好きかもしれない。
「では、この宮にも植えてやろうか」
「……」
先ほどまでの庶民的な顔から一転、さらりとこういう言葉が出てくるところに、やはり普通の男の子との差を感じてしまう。
私は小さく首を横にふった。
「ここにも藤があったら、口実がなくなっちゃうので」
「口実?」
「東櫻宮へ行って道子さんや尚子さまたちとお喋りしたり、お菓子を食べたり。本当の目的はそれで、藤の花はそのきっかけに過ぎないってことです」
「ほう。そういうものなのか」
「代わりに、うちの芍薬が咲いたら今度は道子さんがうちに来てくれます。だから、好きなものを手に入れることが、必ずしも幸せとは限らないんですよね」
「……」
陛下は目を丸くし、またひとつ世界の理を知った、とでも言うようにうなずいた。
そのうち、白い長靴を取り戻した猫が、お腹の大きなタピオカとともに部屋へ戻ってきた。
タピオカの夫であるこのいたずら猫は「大福」という名が与えられた。
陛下いわく「大きな福があるように」という願いを込めたらしい。
猫を撫で、ジュースや菓子を楽しんでいるうちに、陽は傾き始めた。
窓から差し込む西日が部屋全体をオレンジ色に染め、椅子にもたれた陛下は、いつの間にか目を閉じ寝息を立てている。
その膝の上では体を丸めた大福が、構ってほしそうにしっぽをふりふりと動かしている。
私は陛下を起こさぬようそっと大福を抱き上げた。
至近距離で見るその寝顔は、まだ幼さが残り、頬には金色の産毛が夕日にきらきらと光っている。
見慣れた自室の一角が、そこだけ神聖で柔らかな空気に満ちていた。
この一年の間に陛下は目をみはるほど成長した。
うつむき加減な少年が、今ではしっかりと目を見て話し、時々ウィットに富んだ冗談さえ口にする。
それなのに、どうしてこれほどまでに無垢な透明さを失わずにいられるのだろう。
ただの少女だった蘭令華が「悪女」と呼ばれるまでの凄惨な道のりを知った今、余計に今目の前にいる陛下の姿が、壊れやすい宝物のように思えてしまう。
そんな感傷に浸っていると、腕の中の大福に、ふいと尻尾で頬を叩かれた。
お久しぶりの更新です。
最低でも月一回は更新していきますので、引き続きよろしくお願いいたします。
そして新連載も始まりました。
こちらもよければ覗いていってください。
【タイトル】
問無抄 ~のら猫と忠犬の虚実録~
【あらすじ】
*中華ブロマンス×謎解きミステリー*
都を守る皇城司の玄晏は、ある日皇帝から密命を受けた。
「死者の声が聞ける」という怪しげな宗教団体・白音堂の調査である。
相棒となったのは、小路に住む謎めいた男・無咎。
見目麗しいが、ひょうひょうとしてやる気のない、野良猫のような男だった。
生真面目な《忠犬》と不真面目な《のら猫》、凸凹なふたりの潜入調査が始まる。




