願君悲化柔雨④
「あ……」
冬の雨はまたたく間に数を増し、琥珀色に輝く街並みへ暗幕を垂らす。
露店の売り子たちは困り顔で空を見上げた。
あわてて商品に布を被せる者、あきらめて店をたたむ者、笠を被りなおして商売仲間とのんきに話しこむ者などさまざまだ。
「すごい!青冥の願いがもう叶ったんだ!」
レイカは興奮し、空を見上げながら思わず彼の本名を口にした。
しかし当人は、願いが通じたことを喜ぶ様子もなく、それどころか、まるで天から報いを受けたような表情で、静かに雨空を仰ぎ見ていた。
「……そのせいで、他の者たちの願いは届かないのですね」
軒先に吊るされた色とりどりの燈籠は、濡れた薄紙が光を透かさなくなり、一つ、また一つと掻き消えていく。
人々の切なる願いをのせた無数の天灯たちも、天へたどり着く前に濡れて地へ落ちるだろう。
「あ、確かに」
それでもレイカはこの現状を、あっけらかんと笑い飛ばした。
「アンタの願いがいちばん強かった、ってことじゃない?」
一人一人の個人的な願望よりも、国の安寧を願う国師の想いに天は応えたのだろう。レイカはそう思っていた。
人々の熱気は、雨に温度を奪われるようにして急速に引いていく。
誰もが濡れるのを避けるように、足早に家路へと急ぎ始める。
あんなに人であふれていた往来も、気づけば閑散としていた。
「あたしたちも早く帰ろう」
おそらく、このまま燈籠祭りは中止だ。
夜通し解放されるはずだった城門も、日付が変わる前に閉ざされてしまうかもしれない。
急ぎ駆け出すレイカだったが、数歩進んだところで、背後の黒翠がまだ往来の真ん中で立ち止まっていることに気づいた。
「青冥……?」
名を呼ぶと、天を仰いでいた顔がようやくこちらを向く。
「どうしたの」
「もしも……」
切なげに瞳をゆらし、言葉をつむぎ出す黒翠。
濡れた黒髪が白い頬に貼り付いて、その儚げな容貌は一段と女のように見えた。
「……もしもこのまま、城門が閉じてしまったら……どうしますか」
何の脈略もない問いに、レイカは首をかしげた。
「どうするって……どういう……」
質問の意図が分からなかった。
国にとって最後の砦ともいえる城門は、一度閉じてしまえば、緊急時以外はけして開くことがない。
おそらく王妃であるレイカでさえ、融通をきかせてはもらえないだろう。
しかし今、城門はレイカたちの視線の先にあり、このまま帰ればじゅうぶんに間に合う。
それに、レイカを最も困惑させたのは、彼の切実な、まるで祈るような表情だった。
願いが叶ったはずの彼が、今さら何を祈っているのか知る由もない。
ザアザアと石畳を濡らす単調な雨音だけが響く中、レイカは答える。
「帰れなかったら困るよ。それに……言葉も通じなくなっちゃうでしょう?」
不安げな声が、白い息とともに吐き出された。
城門にいる正憲が清龍殿へ戻ってしまえば、レイカの言語能力は失われ、黒翠とすら意志疎通ができなくなる。
つまりここで閉め出されてしまえば、言葉の通じない相手とふたり、ひと晩路頭に迷うことになるのだ。
「ああ……でもアンタと一緒なら、何とかなりそうだね」
しかし、ふと思いなおす。
かつて奈落の底へ落とされた自分たちは、共に手をとり合い、幾多の困難を乗り越えてきた。
今さらこの程度の事態に、動じることはない。
言葉が通じないことなど、二人にとっては些細な問題ではないか。
「このまま、どこか───……」
何かを探すように、周囲を見渡したレイカの視界に、小鳥を売る店が留まった。
軒先には、色とりどりの美しい鳥籠がいくつも吊るされていたが、無情な雨に容赦なく濡らされている。
慌てふためいた店主が、せっせと籠を店内に運び込んでいる最中だった。
その喧騒の中で、とりわけ煌びやかで目を引く、金色の鳥籠。
その扉が、慌ただしさのあまりか、半分開いたままになっている。
籠の中に閉じ込められていた雲雀が、金色の格子を小さな体で押し退けた。
そして、外の世界へ───籠の鳥は大きく羽を広げる。
冷たい雨が降りしきる夜空へと、一筋の光のように、迷いなく力強く飛び立っていったのだ。
「……っ」
その行方を見送るレイカの脳裏に、ほんの刹那、これまで思い描いたこともなかった甘美な幻想がかすめた。
それは「王妃」でも「母」でもなく────すべての重荷を捨て、ただの「女」として、この雨の中に消えてしまう夢。
濡れた黒曜石の瞳が、なにかを訴えるように、レイカをじっと見つめながら答えを待っていた。
けれど────
「……そのへんの宿で一泊して、朝に帰ればいいよ」
レイカの心を現実へ引き戻したのは、自分の帰りを待つ幼い息子・青冥の顔だった。
「……」
黒翠は表情を変えず、重い雨粒を一身に浴びながら、ゆっくりとレイカの方へ歩き出す。
周囲に広がっていた琥珀色の光の海は消え去り、ただ冷たい雫が、二人の境界線を引くように降り続いている。
レイカの前で立ち止まると、黒翠は彼女の頭の後ろへと腕を伸ばした。
上着のフードを目深に被せられ、レイカの視界は閉ざされる。
顔を上げても、黒翠が今どんな顔をしているのか分からなかった。
「……帰りましょう」
手首を掴まれ、引かれるまま帰路につく。
互いに言葉は発さず、レイカはまるで迷子のような気持ちで、ただ濡れる石畳と、揺れる黒衣の裾を見つめながら歩いた。
無事に城門へとたどり着いた時、レイカは一度だけ背後をふり返る。
不夜城は一瞬の幻と消え、王都はまるで夢から覚めたように、すっかりいつもの静寂を取り戻していた。
「王妃さま!」
輿に乗って鳳凰宮へ到着すると、大勢の女官たちがレイカを待ち構えていた。
「至急湯浴みの支度を。それまでは桂枝湯……なければ生姜湯に蜂蜜を入れて飲んでいただくように」
黒翠は自身の髪を拭きつつ、女官たちに指示を飛ばす。
その背中は、かつて扶桑宮でレイカに仕えていた頃と重なった。
若い女官がレイカの顔をのぞきこんで言った。
「王妃さま。お体は大丈夫ですか?」
「ええ。大事ないわ」
甲斐甲斐しく世話されるうちに、レイカは徐々に王妃の顔を取り戻していく。
「レイカさま」
一通り指示を終えた黒翠は、最後にそう言ってふり返ると、袂から桃の簪を取り出した。
「よくお似合いでした」
「え……?」
呆気にとられたレイカの手のひらへ簪がのると、小さな鈴がチリンと鳴る。
そして濡れた黒衣をひるがえして、黒翠は鳳凰宮を去っていった。
「せいめ……」
呼び止めようと、思わずこぼしそうになったふたりの秘密は、都合よく雨音にかき消された。
彼は国師である。
もう着替えを手伝ってはくれないし、濡れた髪を拭いてもくれない。
その事実を噛み締めるほどに、レイカの身体は急速に温度を失っていく。
ただ、掴まれていた左手首だけが、じんじんと熱を持っていた。
* * *
夜空を泳いでいた二つの天灯は、雨水を吸った重みに耐えきれず、ふらふらと降下する。
やがて火が消えて川へと落ち、時おりぶつかり合いながらも、寄り添うように水面を流れていった。
『青冥がいつまでも幸せでありますように』
『願君悲落、化作柔雨 』
────あなたに降りそそぐ悲しみが、いつか優しい雨へ変わりますように。
【番外編 完】
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次回からはトウコ編に戻りますが、更新ペースはこれまで以上にゆっくり不定期になります。
以前活動報告でもお知らせした通り、今年は新作にも注力するためです。
何とぞよろしくお願いいたします。




