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 シオンは隠れ家となっている古い教会にいた。古くなって捨てられて、あとは朽ちるままに放置されている場所だ。誰も来ないゆえに、シオンは好んでこの場所に足を運んでいる。

 彼の頭の中にあるのは別れ際のアレだ。

 本当はあの瞬間、隠していた牙を晒すはずだった。いやもっと前から狙うことはできた。無垢な姫君は優しさを疑わない。従者もつれず、一人でシオンの前に現れる。

 だからあの瞬間、いや、もっと前に仕事は終わるはずだったのだ。

 しかしシオンは手を下せないでいる。

 そして招待客に紛れ、こうして隠れ家へと逃げ帰り続けた。


「……らしくない」


 帰り道に買ってきた、冷えて硬くなったパンと干し肉をかじる。

 知れば知るほど、迷いが生まれた。これまでそれ相応の謝礼さえ出れば、誰かを傷つけるぐらいは迷いなくこなしてきた身だ。いまさら人殺しができない、などという身分でもない。

 けれど、リャーナという名の姫の前に立つと、何もできなくなる。

 母親を亡くし、父を知らずに育った少女。

 華やかな舞台に立たされながら、その瞳に宿る沈んだ光。

 ――似ている。

 ほかの誰でもない、シオン自身に、彼女は似ていた。

 性別はもちろん、生まれも育ちもまるで違うはずなのに。


 シオンの父はこの国でも有力な貴族の当主だった。しかし本妻との間にはどうしても男児が生まれず、戯れに手を出した使用人が男児を産み落とした。それが、シオンだ。

 妾腹の生まれながら唯一の男児であるがゆえ、シオンは次期当主として育てられた。それに伴い母の立場も上がり、その発言力たるや、一時期は本妻さえも凌駕するほどだったという。


 しかしそれもシオンが十歳の頃に、ついに本妻が男児を生んだことで砕け散った。屋敷からたたき出された二人は貧民街に流れ着き、正気をなくした目と声で、母はシオンに言った。


 お前が女児であれば、よかったのに。

 それなら、こんなところに追い出されはしなかった。

 すべてお前が悪いのです、お前が。


 息子への呪詛を吐き散らしながら母は死に、シオンは一人になった。それからの生活は今とさほど代わりが無い。金次第であらゆる仕事をこなし、ひっそりと一人で生きてきた。

 知り合いには実家に戻ればといわれたが、シオンにとって実家はもう他人だ。

 父はシオン個人を見たこともなかっただろうし、それ以前に父親に名前を呼ばれたという覚えがない。食事も別だったし、仕事でほとんど自宅にはいなかった。

 本妻のほうは言うに及ばずという感じ。ほとんど逢うことはなかったと思う。ただ未だに耳に残っているのはその笑い声。息子を産んだ直後の狂気の笑いは、未だ夢に見ることもある。


「あー、嫌なこと考えちゃったな……」

 水面にステンドグラス越しの月を浮かべるコップを見つめ、シオンは苦笑する。こういうときに限って、責任を擦り付けたい酒ではなく水だ。彼はそれを一気にあおる。

 口の端からこぼれた水を乱暴にぬぐい、深くため息をついた。

 あんな夫婦でも、実家でも、それなりの貴族。

 本当は死んでも願い下げだが、もしあの夫婦の実子として生まれていたなら……もう少し違う形で出会えていただろうか。殺す側と殺される側ではない、違う関係があっただろうか。


 後継者として育てられながら廃棄されたシオン。

 廃棄されながら後継者に指名されたリャーナ。


 立場は違うけれど、実によく似ている。

 二人ともが、本人そのものを周囲に求められていたわけじゃない。

 母にとってシオンは愛する男の寵愛を得るための道具だろうし、父にとっては家名を継がせるための存在。だからこそより身分の高い妻が産んだ息子を選んで、愛人とその子を捨てた。

 リャーナを担ぎ上げた亡き王の側近からすれば、彼女は可憐なお人形だ。

 だから、迷っているのか。

 似ているから、どうしても自分を重ねてしまうから。

 彼女が屈託なく自分に向けてくれる、その微笑みを思い出す。もしもシオンが今とは違う立場なら、躊躇いなく手を伸ばすことができたかもしれない。この手に入れることさえ。

 だけど――。


「明日が、明日が……リミット。契約期日。明日、やらないと」


 言い聞かせるように、誓うように、シオンは何度も繰り返す。

 舞踏会は明日、終わってしまう。

 次だ。次にあった時……すべてを終わらせてみせる。

 そうだ、終わらせてしまえばきっと、すぐに忘れてしまえる。何も無かったように金をもらい元の生活に戻り、別の仕事を求めてどこかをさまよう。そうそれは、シオンの日常だ。


 終わらせる、全部片付ける。

 くだらない迷いも、葛藤もすべて断ち切る。


 懐から出した銀色のナイフを抜き、シオンは笑った。

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