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翌朝。
「おはようございます、佐々木さん」
「……おはようございます、田中さん」
区役所の生活支援課。
俺が窓口に顔を出すと、佐々木さんはいつもの笑顔で迎えてくれた。
昨日も会った。
一昨日も会った。
その前の日も会った。
すっかり顔なじみである。
「今日もよろしくお願いします」
「はい。こちらへどうぞ」
佐々木さんは笑顔のまま、相談室へ案内してくれた。
ただし、その心の中では。
(また来た……)
(今日も来たよ、このクソデブ……)
(頼むから、今日は短く終わってくれ)
(昨日のダンジョンの話、まだ続けるつもりじゃないだろうな)
(いや、仕事だ。仕事だから仕方ない)
佐々木は心の中で自分に言い聞かせた。
笑顔を崩してはいけない。
相談者に不快な思いをさせてはいけない。
たとえ目の前に座っている男が、毎日やってくる体重百十五キロの異世界帰りを自称するおっさんでも。
「田中さん、昨日お話しした本人確認の件ですが、戸籍情報について確認が進んでいます」
「おお、ありがとうございます」
「ただ、住民登録などについては、もう少し時間がかかりそうです」
「分かりました」
「それから、当面の宿泊先については、引き続き利用できるよう調整しています」
「助かります。本当にありがとうございます」
俺は頭を下げた。
佐々木さんは少しだけ表情を緩めた。
(まあ、感謝してくれるだけマシか……)
(いや、でも毎日来られるとさすがに疲れるんだよな)
(頼む。今日は早く終わってくれ)
「ところで、佐々木さん」
「はい」
「昨日、テレビで見たダンジョンのことなんですが」
佐々木のペンが止まった。
(来た)
(やっぱり来た)
(頼むからその話は別のところでやってくれ……)
「探索者になるには、どうすればいいんでしょうか?」
「探索者ですか?」
「はい。登録制度があるって聞きました」
「確かにあります。ただ、探索者は危険な仕事です。登録には講習や適性検査などもありますし、誰でもすぐに活動できるわけではありません」
「なるほど」
「田中さんは、探索者として活動することを考えているんですか?」
「ちょっと興味があります」
(ちょっとじゃないだろ)
(昨日からずっと気にしてたんじゃないのか)
(というか、その体でダンジョンに行くつもりなのか?)
佐々木は目の前の男を見た。
身長百七十センチ。
体重百十五キロ。
腹は大きく前に突き出し、椅子に座ると腹部が机に近い。
どう見ても運動不足の中年男性だ。
(いや、まだ三十三歳なんだっけ……)
(見た目は四十代後半くらいに見えるけど)
「まずは健康診断を受けてからにしましょう。ダンジョンは危険ですし、体力も必要になります」
「そうですね。俺も自分の体力には自信がないです」
「でしたら、なおさらです」
「でも、昔は冒険者をやってたんですよ」
「……そうでしたね」
(また異世界の話か)
(もう何回聞いたかな、この話)
(ゴブリンだの冒険者だの、毎回設定が細かいんだよな)
佐々木は書類に目を落とした。
(ああ、早く終わらないかな……)
「ちなみに、探索者って収入はどのくらいなんですか?」
「活動内容や実績によって大きく違います。魔石や素材の売却益、企業との契約、配信収入などですね」
「配信?」
「探索中の様子を動画やライブ配信で公開する人もいます。人気のある探索者は、かなり稼いでいるそうですよ」
「へえ……」
俺は少し考えた。
異世界での冒険を配信する。
そんなことをしていたら、俺は間違いなく人気者になれただろう。
いや、どうだろう。
太ったおっさんが魔物から逃げ回っている映像なんて、笑いものにされるだけかもしれない。
「田中さん?」
「いえ、何でもないです」
「探索者についての資料でしたら、こちらにあります」
佐々木さんがパンフレットを差し出した。
表紙には、武器を構えた若い男女の写真。
『探索者登録ガイド』
俺はそれを受け取った。
「ありがとうございます」
「登録窓口は区役所ではなく、探索者管理機構になります。詳しい手続きはそちらで確認してください」
「分かりました」
「ただし、繰り返しになりますが、まずは健康状態を確認してからにしてくださいね」
「はい」
俺はパンフレットを鞄に入れた。
鞄といっても、異世界で使っていた古びた革袋だ。
現代日本では少々浮いている。
「では、本日の相談は以上になります」
佐々木さんが書類をまとめた。
やっと終わりだ。
俺は立ち上がろうとした。
ギシッ。
椅子が鳴った。
佐々木の顔が一瞬だけ引きつる。
(頼むうううう!)
(椅子を壊さないでくれ!)
(この前も別の相談室で椅子が壊れたって聞いたぞ!)
(修理費用だってタダじゃないんだよ!)
俺は気づかないふりをして、ゆっくり立ち上がった。
「今日もありがとうございました」
「いえ。何かあれば、また相談してください」
「はい。明日も来ますね」
佐々木の笑顔が一瞬止まった。
「……明日も、ですか?」
「ええ。金貨の件もありますし、本人確認の手続きも進めたいので」
「そ、そうですね」
(明日も来るのかよ!)
(毎日来るなよ! いや、来てもいいんだけど!)
(いや、よくない! いや、仕事だからいいんだけど!)
(もう何でもいいから早く帰ってくれえええ!)
佐々木は心の中で絶叫した。
「では、失礼します」
「はい。お気をつけて」
俺は相談室を出た。
扉が閉まる。
佐々木は笑顔を維持したまま、ゆっくり椅子の背もたれに寄りかかった。
「…………」
そして、誰もいないことを確認してから、小さく呟く。
「……疲れた」
その日の昼休み。
佐々木は職員用の休憩室で弁当を食べていた。
隣に座った同僚が声をかける。
「佐々木さん、最近ずっと忙しそうですね」
「ええ、まあ」
「例の田中さんですか?」
佐々木は箸を止めた。
「……そうです」
「異世界から帰ってきたっていう?」
「はい」
「本当にそんなこと言ってるんですか?」
「毎回、真顔で言いますよ」
同僚は笑った。
「大変ですね」
「本当に」
佐々木は味噌汁を飲んだ。
(いや、悪い人じゃないんだよ)
(礼儀正しいし、感謝もしてくれる)
(でも、話が長い。とにかく長い)
(それに、あの体格で椅子に座られると、こっちは気が気じゃない)
(毎回ギシギシ鳴るんだよ……)
「佐々木さん?」
「はい?」
「顔、怖いですよ」
「えっ?」
佐々木は慌てて表情を戻した。
「すみません。少し考え事をしていました」
(危ない危ない)
(顔に出すな。絶対に顔に出すな)
一方、俺は区役所を出たあと、ベンチに座ってパンフレットを読んでいた。
探索者管理機構。
登録には身分確認、健康状態の確認、基礎講習が必要。
さらに、初心者は指定された訓練用ダンジョンで実習を受けるらしい。
「ふむ……」
思ったより本格的だ。
ただ、これなら無茶をせずに始められそうでもある。
俺はパンフレットの最後のページをめくった。
そこには、初心者向けの講習日程が書かれていた。
「来週か」
ちょうどいい。
それまでに少し体を動かしておこう。
まずは歩くことからだ。
俺は立ち上がり、ゆっくり歩き始めた。
五分後。
「はぁ……はぁ……」
息が切れた。
「……運動不足、ひどすぎるだろ」
異世界では、重い荷物を背負って山道を歩いたこともある。
だが、今の俺は五分歩いただけで息が上がる。
これはまずい。
本当にまずい。
「よし。明日から毎日歩こう」
そう決意した。
そして、その夜。
俺はアイテムボックスから異世界の魔石を一つ取り出した。
青く輝く、拳ほどの大きさの魔石。
日本のテレビで見たものより、明らかに純度が高い。
「これ、いくらになるんだろうな……」
金貨だけでなく、魔石も鑑定してもらう必要がある。
俺は魔石を手の中で転がした。
「第二の人生、案外なんとかなるかもしれないな」
そう呟いて、魔石をアイテムボックスへ戻した。
ただし、翌日も区役所へ行く予定である。
佐々木さんの苦難は、まだ終わらない。




