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翌朝。
俺は昨日と同じ区役所を訪れていた。
昨日はおにぎり二個しか食べられなかった。
そのせいか、朝から腹が減っている。
いや、正確には昨日の夜も腹が減っていた。
異世界で十年以上冒険者をやっていた頃は、食料の確保も仕事の一つだった。魔物の肉を焼いたり、野草を煮たり、時には味の分からない謎の木の実を食べたり。
それに比べれば、日本の食事は天国だ。
コンビニのおにぎりですら感動できる。
「田中さん、おはようございます」
窓口で待っていたのは、昨日の佐々木さんだった。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「いえいえ。体調はいかがですか?」
「大丈夫です。よく眠れました」
「それはよかったです」
佐々木さんは笑顔で答えた。
その笑顔は自然だった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
しかし、その内心は違った。
(朝から来たよ、このクソデブ……)
(昨日もそうだったけど、近くで見ると本当にでかいな)
(椅子、壊さないでくれよ……頼むから)
佐々木は心の中でため息をついた。
もちろん、顔には出さない。
彼は生活支援課の職員だ。
どんな相談者が来ても、丁寧に対応する。それが仕事である。
たとえ相手が、異世界から帰ってきたと真顔で主張する、体重百十五キロの謎のおっさんだったとしても。
「では、昨日の続きからお話ししましょう」
「お願いします」
俺は椅子に腰を下ろした。
ギシッ。
佐々木の眉が一瞬だけ動いた。
(あああああ! 椅子! 頼む! 頑張ってくれ!)
(買い替えの予算なんてないんだよ!)
「……田中さん、座り心地はいかがですか?」
「ちょっと音がしましたね」
「そうですね」
(自覚あるなら少しは気を遣ってくれ!)
佐々木は笑顔を崩さなかった。
「それで、昨日お預かりした銀貨の件ですが」
佐々木さんが書類を取り出した。
「専門家に確認してもらう必要があると思います。通常の貨幣とは違うようですし、素材や製造年代も分かりません」
「なるほど」
「ほかにも同じようなものをお持ちなんですよね?」
「はい。銀貨のほかに金貨もあります」
「金貨……」
佐々木さんの表情が少しだけ変わった。
(また出てきたよ。今度は金貨か)
(本当に何なんだ、この人……)
「少し見せてもらってもいいですか?」
「分かりました」
俺は周囲を確認した。
昨日と同じように、ポケットへ手を入れるふりをする。
そしてアイテムボックスから金貨を一枚取り出した。
チャリン。
テーブルに置かれた金貨は、ずっしりとした音を立てた。
佐々木さんが目を細める。
「これは……」
金貨の表面には、異世界でかつて存在した王国の国王の肖像が刻まれている。
裏面には王家の紋章。
純度は高く、表面には傷も少ない。
「きれいですね」
「でしょう? 結構大事に保管してました」
「これは、どちらで手に入れたんですか?」
「冒険者の仕事で」
「冒険者……」
「はい。魔物を倒したり、素材を集めたり、遺跡を調査したり」
「……なるほど」
(もういい。もう分かった。異世界の冒険者なんだろ)
(この人の話を真面目に聞いていたら、一日が終わる)
(でも、金貨は本物っぽいんだよな……)
佐々木は金貨を慎重に眺めた。
「田中さん。こちらはかなり価値がある可能性があります。勝手に売却したり、加工したりしないでくださいね」
「分かりました」
「また、生活保護の申請に関しては、こうした資産も確認対象になります。価値がある場合は、生活費に充てられるかどうかも含めて判断する必要があります」
「ですよね」
「ただ、現時点では価値が分かりません。まずは専門家に確認してもらいましょう」
「お願いします」
俺としても、金貨を日本円に換えられるならありがたい。
異世界では普通に使っていた金貨だが、日本ではただの珍しい金属の塊だ。
価値が分からないまま持っていても仕方がない。
「ところで、田中さん」
佐々木さんが書類をめくった。
「今後の生活についてですが、当面は現在の宿泊施設を利用していただきながら、住居の確保や本人確認の手続きを進めます」
「ありがとうございます」
「それと、健康面についても少し確認させてください」
「健康面?」
「長期間、異なる環境で生活されていたとのことですので、念のため医療機関で健康状態を確認していただいたほうがいいと思います」
「まあ、確かに」
俺は自分の腹を見た。
異世界で太った。
食べて、飲んで、寝て、冒険して、また食べて。
その結果がこの体だ。
「運動不足もありますしね」
「……そうですね」
佐々木さんは俺の腹を見ないようにしていた。
(運動不足ってレベルじゃないだろ)
(その体でよく異世界を冒険できたな)
(いや、そもそも本当に冒険してたのか?)
(どう見ても引きこもりのクソデブにしか見えないんだが……)
佐々木は心の中で毒づきながら、丁寧に説明を続けた。
「健康診断を受けられるよう、こちらでも案内を確認しておきます」
「助かります」
「それから、今後の食事についても相談しましょう。栄養面も大切ですから」
「はい」
俺は真剣に頷いた。
しかし、頭の中では別のことを考えていた。
日本には食べたいものが多すぎる。
十二年間のブランクを埋めるには、相当な食事量が必要だ。
「田中さん?」
「はい?」
「食事について、何か希望はありますか?」
「できれば肉が食べたいです」
「肉、ですか」
「できれば揚げ物がいいですね」
佐々木さんの笑顔がわずかに固まった。
(お前の体を見ろ!)
(まず野菜を食え! 肉と揚げ物ばっかり食べるな!)
(だからそんな体になったんだろ!)
「……栄養バランスを考えた食事にしましょうね」
「はい」
相談を終えた俺は、宿泊施設へ戻ることになった。
その前に、佐々木さんから一つの紙を渡された。
「こちらは、今後の手続きの予定です。明日以降も何度か来ていただくことになります」
「分かりました」
「それと、金貨については、こちらから専門家への相談先を確認しておきます。くれぐれも、怪しい業者には持ち込まないでください」
「はい。ありがとうございます」
「では、また明日」
佐々木さんは最後まで笑顔だった。
俺は頭を下げて相談室を出た。
扉が閉まる。
佐々木はゆっくりと息を吐いた。
「…………はぁ」
そして、誰もいない相談室で小さく呟いた。
「……疲れた」
(何なんだよ、あの人)
(異世界? 冒険者? 金貨?)
(しかも、あの体で揚げ物が食べたいって……)
佐々木は机に置かれた書類を見つめた。
「……まあ、仕事だからな」
そう言って、次の相談者の資料を手に取った。
一方、その頃。
俺は宿泊施設へ戻る道を歩いていた。
「金貨が売れれば、少しは楽になるかもしれないな」
そう考えると、少しだけ気持ちが明るくなる。
異世界で十年以上生きてきた。
魔物とも戦った。
盗賊にも襲われた。
危険な遺跡にも潜った。
それに比べれば、日本での生活再建くらい何とかなるだろう。
……たぶん。
「とりあえず、今日は何か食べたいな」
コンビニの前を通りかかる。
ガラス越しに見える弁当コーナー。
「…………」
俺は財布を持っていないことを思い出した。
「くそっ」
日本に帰ってきたのに、弁当一つ買えない。
異世界では金貨を持っていたのに。
なんとも情けない話だ。
俺は腹をさすりながら、宿泊施設へ向かった。
その夜、俺はアイテムボックスの中身を改めて確認することにした。
金貨だけではない。
魔石や薬草、魔物の素材。
日本では見たこともない品物が、まだ大量に眠っている。
もしかしたら、金貨より価値のあるものもあるかもしれない。
そ4して俺は、まだ知らなかった。
この世界では、六年前からダンジョンが出現している。
そして、俺が異世界で身につけた知識が、これからの日本で思いもよらない価値を持つことを。




