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「それで、田中さん。今後の生活についてですが……」
生活支援課の相談室。
俺は佐々木さんと向かい合って座っていた。
目の前には書類の束。
横にはボールペン。
そして俺の腹の上には、存在感たっぷりの脂肪が乗っている。
「まず、現在の田中さんの状況を整理します」
「お願いします」
「住居がない。収入がない。預貯金も確認できない。身分証明書もない。親族による援助も期待できない。そういう認識でよろしいですか?」
「はい。見事なまでに詰んでますね」
「……そうですね」
佐々木さんは苦笑いした。
いや、笑いごとじゃないんだけどな。
俺だって好きで住所不定になったわけじゃない。
十年以上、異世界で生き延びて、ようやく帰ってきたら両親は亡くなっていて、家もなくなっていた。
まさか帰還後の最初の敵が、役所の書類になるとは思わなかった。
「生活保護については、申請を検討できます。ただし、資産状況や収入、身分関係などを確認する必要があります」
「資産……ですか」
俺は少しだけ目をそらした。
資産ならある。
異世界の金貨や銀貨。
魔物の素材。
薬草。
魔道具。
保存食。
問題は、それらが日本で資産として扱えるかどうかだ。
いや、そもそも金貨を見せたところで、どう説明すればいい?
『異世界で稼いだ冒険者の給料です』
なんて言ったら、今度こそ病院を紹介されるかもしれない。
「田中さん?」
「……実は、少し持ち物があります」
「持ち物?」
「ええ。金貨とか」
佐々木さんのペンが止まった。
「金貨、ですか?」
「はい」
「それは、どちらで?」
「……海外です」
「海外?」
「ええ。まあ、かなり遠いところで」
嘘ではない。
地球上の海外じゃないだけだ。
佐々木さんは俺の顔をじっと見た。
「田中さん。資産については、正直に申告していただく必要があります」
「分かってます。隠すつもりはないです。ただ、ちょっと説明が難しいというか」
「分かりました。では、実物を確認することはできますか?」
「ここでですか?」
「可能なら」
俺は少し考えた。
アイテムボックスの存在を知られるのは避けたい。
だが、金貨そのものを見せるくらいなら問題ないだろう。
俺はポケットに手を入れるふりをした。
そして、アイテムボックスから小さな銀貨を一枚取り出す。
「これです」
テーブルの上に置いた。
佐々木さんが銀貨を手に取る。
表面には見慣れない王冠の紋章。
裏には剣と盾の模様が刻まれている。
「これは……外国の硬貨ですか?」
「まあ、そんな感じです」
「ずいぶん古そうですね」
「古いですよ。少なくとも、こっちの世界では使えません」
「こっちの世界?」
「……いえ、何でもありません」
危ない。
口が滑った。
佐々木さんは銀貨を裏返したり、光にかざしたりしている。
「鑑定が必要かもしれませんね。少なくとも、現時点で日本円として使えるものではなさそうです」
「ですよねえ」
金貨ならまだしも、銀貨一枚で腹は膨れない。
異世界では宿代にも食事代にも使えたのに。
帰ってきた途端、ただの変わった金属片である。
世知辛い。
「このほかにもありますか?」
「ありますけど、今すぐ全部は出せません」
「分かりました。無理にとは言いません。ただ、資産として価値がある可能性もありますので、今後確認していきましょう」
「はい」
佐々木さんは銀貨を丁寧に袋へ入れ、預かり証のような書類を作ってくれた。
役所の人間も大変だ。
異世界帰りのおっさんが持ってきた謎の銀貨を鑑定する羽目になるとは、夢にも思わなかっただろう。
「それで、田中さん。今日の寝泊まりする場所ですが」
「はい」
「一時的な宿泊先を確保できるよう、関係部署に相談します。食事についても支援できるか確認します」
「本当ですか?」
思わず身を乗り出した。
「ええ。ただし、すぐにすべてが決まるわけではありません。生活保護の申請も含めて、必要な手続きを進めましょう」
「ありがとうございます!」
腹が減っていた。
もう本当に減っていた。
異世界で何度も飢えを経験した俺だが、帰還してからの空腹は別の意味でつらい。
魔物の干し肉ならアイテムボックスにある。
しかし、あれを今ここで食べるわけにもいかない。
できれば、温かい日本の飯が食いたい。
白米。
味噌汁。
焼き魚。
できれば唐揚げも。
いや、唐揚げ定食がいい。
ご飯大盛りで。
「田中さん、聞いていますか?」
「はい! 唐揚げ……じゃなくて、聞いてます!」
佐々木さんが微妙な顔をした。
しまった。
食欲が思考を侵食している。
その後、俺は別の職員に案内され、支援制度について説明を受けた。
身元確認には時間がかかる。
昔の戸籍情報を確認する必要がある。
住民票や本人確認書類についても、関係機関との調整が必要になる。
生活保護も、申請すれば即日で自由にお金が使えるわけではない。
当面の住居や食事の確保と並行して、手続きを進めることになるらしい。
正直、面倒くさい。
だが、文句は言えない。
俺は十二年間、日本社会から消えていた人間なのだ。
普通に考えて、簡単に元の生活へ戻れるはずがない。
「田中さん、こちらが今日の食事です」
職員さんが差し出したのは、コンビニのおにぎり二個とお茶だった。
「……!」
思わず息を呑んだ。
白い袋に包まれた、三角形の物体。
おにぎり。
日本のおにぎりだ。
「ありがとうございます!」
「いえ。まずは食べてください」
包装を開けた。
鮭。
一口かじる。
「……うまい」
思わず声が漏れた。
米の甘み。
鮭の塩気。
海苔の香り。
たった一個のおにぎりなのに、涙が出そうになる。
異世界でも米に似た穀物はあった。
だが、これは違う。
日本の味だ。
二個目も一気に食べた。
「田中さん、ゆっくり食べてくださいね」
「すみません。十二年ぶりなもので」
「おにぎりがですか?」
「日本のおにぎりが」
職員さんは少しだけ微笑んだ。
俺は空になった袋を見つめる。
もっと食べたい。
圧倒的に足りない。
だが、文句を言うつもりはなかった。
食べられるだけありがたい。
夕方。
俺は一時的な宿泊先へ向かうことになった。
手続きが終わるまでの仮の居場所らしい。
案内された建物は、簡素な宿泊施設だった。
豪華ではない。
だが、雨風をしのげる屋根がある。
ベッドがある。
布団がある。
それだけで十分だ。
「こちらの部屋を使ってください。明日、また役所に来ていただきます」
「分かりました」
職員さんが去ったあと、俺は部屋の中を見回した。
小さな机。
椅子。
ベッド。
窓。
そして、壁に掛けられた時計。
普通の日本の部屋だ。
俺はベッドの端に腰を下ろした。
ギシッ。
「……」
嫌な音がした。
俺はそっと腰を浮かせる。
異世界の宿でも何度かベッドを壊した。
まさか日本に帰ってきてまで、家具に嫌われるとは。
「痩せよう」
俺は小さく呟いた。
「いや、マジで痩せよう。健康のためにも、生活のためにも」
まずは食生活を改善する。
運動もする。
毎日歩く。
無理のない範囲で。
そう決意した直後、腹が鳴った。
ぐうううう。
「……明日からでいいか」
俺はベッドに横になった。
窓の外から、車の走る音が聞こえる。
十二年ぶりの日本。
帰ってきたのに、帰る場所はない。
だが、少なくとも今夜は眠れる。
それだけでも十分だ。
目を閉じる。
そのとき、ふと思い出した。
アイテムボックスの中には、まだ大量の異世界の品物がある。
金貨。
魔石。
薬草。
魔物の素材。
そして、魔道具。
もしかすると、あれらを日本で換金できれば、生活を立て直せるかもしれない。
問題は、どうやって売るかだ。
「……まあ、明日考えよう」
今は眠い。
それに、腹も減っている。
俺の第二の人生は、まだ始まったばかりだ。




