第1話
交番というものは、昔とあまり変わらないらしい。
少なくとも、俺が入った交番はそうだった。
小さなカウンター、書類棚、パソコン、壁に掛けられた時計。
そして、制服姿の警察官が二人。
「それで、お名前は?」
「田中健太です」
「年齢は?」
「三十三歳です」
「住所は?」
「……覚えてません」
警察官の手が止まった。
「覚えてません?」
「はい」
「ご自宅は?」
「ないです」
「ご家族は?」
「……」
俺は少しだけ考えた。
最後に家族と会ったのは、十二年以上前だ。
父親と母親。
二人とも元気だった。
いや、元気だったと思う。
突然いなくなった息子を、今でも探してくれているだろうか。
そんな淡い期待が胸をよぎる。
「実家があります。東京都内です」
「住所は分かりますか?」
「はい。昔の住所なら」
「では、確認してみましょう」
警察官はパソコンに向かった。
俺はカウンターの前に置かれた椅子に腰を下ろす。
ギシッ。
「……」
もう一度、座り直す。
ギシギシッ。
嫌な音がした。
俺はそっと腰を浮かせた。
ギシッ。
座る。
ギシギシッ。
「……この椅子、大丈夫ですかね?」
「え?」
「いや、なんか音が」
「大丈夫ですよ」
警察官は笑顔で答えた。
だが、椅子は俺の体重に不満があるらしい。
ギシッ、ミシッ。
頼む。
ここで壊れるのだけはやめてくれ。
異世界から帰ってきて、最初に警察署の備品を破壊した男になるのは嫌だ。
◇
「田中さん」
「はい」
「確認できました」
警察官の表情が少し変わった。
「ご実家ですが、現在は別の方が住んでいるようです」
「……え?」
「建物も取り壊されて、数年前に建て替えられています」
「そうですか」
まあ、十二年も経っている。
それくらいは仕方ない。
「それで、ご両親についても確認したのですが……」
警察官が言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「お父様は八年前、お母様は五年前に亡くなられています」
「…………え?」
頭の中が真っ白になった。
「すみません。もう一度お願いします」
「お父様は八年前、お母様は五年前に亡くなられています」
父親が八年前。
母親が五年前。
俺が異世界にいた間に。
二人とも。
「……そうですか」
自分でも驚くほど、声は普通だった。
泣くこともできなかった。
ただ、頭の中で数字を繰り返していた。
八年前。
五年前。
俺は何も知らなかった。
父親が死んだことも。
母親が死んだことも。
最後に顔を見たのは、異世界に飛ばされる前。
あの日、俺は母親に何と言っただろう。
確か、夕飯はいらないと言った気がする。
父親とは、くだらないことで口喧嘩をした。
そんな些細な記憶だけが、妙にはっきりと残っていた。
「親戚の方はいらっしゃいますか?」
「いません」
「ご兄弟は?」
「一人っ子です」
「そうですか……」
親戚付き合いもほとんどなかった。
父方も母方も、遠い親戚がいるかもしれない程度。
名前も連絡先も覚えていない。
つまり。
俺には、もう家族がいなかった。
「……俺、帰ってきたんですけどね」
思わず呟いた。
「え?」
「いや、何でもないです」
警察官は何も言わなかった。
ただ、少し困ったような顔をしていた。
◇
「田中さん、確認したいことがあります」
「はい」
「十二年前に突然いなくなったということですが、その間はどこに?」
「異世界です」
「……はい?」
「異世界にいました」
警察官が固まった。
そりゃそうだ。
俺だって逆の立場なら、頭がおかしいと思う
「剣と魔法のある世界です。魔物がいて、冒険者という仕事があって、魔法使いもいます」
「……」
「嘘じゃないですよ」
「そうですか」
信じていない。
当然だ。
俺だって証明できない。
アイテムBOXを見せようかとも思ったが、やめた。
いきなり空間収納を見せたところで、余計に話がややこしくなるだけだ。
「身分証明書はお持ちですか?」
「ありません」
「……」
警察官の眉間に皺が寄った。
これはまずい。
非常にまずい。
俺は日本に帰ってきた。
しかし、今の俺には日本人であることを証明するものが何もない。
いや、正確には昔の戸籍があるはずだ。
だが、それをどう確認すればいいのかも分からない。
「とりあえず、本人確認については役所に相談する必要がありますね」
「役所ですか」
「戸籍や住民票の確認が必要になります。ただ、住所がないということなので、そのあたりも相談しましょう」
「お願いします」
俺は深々と頭を下げた。
警察官は悪い人ではなさそうだった。
少なくとも、いきなり追い出されることはなさそうだ。
◇
「田中さん、少しお待ちください」
警察官が奥へ行った。
俺は再び椅子に座る。
ギシッ。
ギシギシッ。
「……」
俺は天井を見上げた。
十二年。
たった十二年だと思っていた。
異世界では長い時間だったが、日本に帰れば、また元の生活に戻れると思っていた。
だが、そんなことはなかった。
親父もお袋もいない。
実家もない。
友人の連絡先も分からない。
会社だって、もう存在していないかもしれない。
俺が帰る場所は、どこにもなかった。
腹が鳴った。
ぐうううう。
「……」
こんなときでも腹は減るらしい。
俺は苦笑した。
「俺、帰ってきたよ」
誰にも聞こえないよう、小さく呟いた。
「でも、ちょっと遅かったみたいだ」
◇
「お待たせしました」
先ほどの警察官が戻ってきた。
「今後のことですが、まずは役所で戸籍の確認をしていただくことになります。こちらでも、必要な手続きについて案内します」
「ありがとうございます」
「それと、今夜寝る場所はありますか?」
「……ありません」
「所持金は?」
「ゼロです」
「食事は?」
「朝から何も食べていません」
警察官は俺の腹を見た。
いや、見なくても分かるだろう。
腹が鳴っている。
「一度、福祉の窓口にも相談してみましょう。住居や生活について支援を受けられる可能性があります」
「お願いします」
もう格好をつけている場合ではない。
俺は頭を下げた。
異世界では魔物と戦い、命懸けで生き延びてきた。
しかし、帰ってきた日本で最初に頼ることになったのは警察だった。
情けない話だ。
だが、仕方ない。
生きていかなければならないのだから。
そして何より。
「……あの」
「はい?」
「できれば、何か食べるものが欲しいんですが」
警察官は一瞬だけ目を丸くした。
それから、苦笑した。
「分かりました。まずは相談してみましょう」
こうして俺の日本での第二の人生は、空腹と住所不定という、なかなか厳しい状況から始まった。
異世界で十年以上生き延びた男。
田中健太、三十三歳。
所持金ゼロ円。
住所なし。
家族なし。
そして、体重百十五キロ。




