13
「……ここがダンジョンか」
田中健太は、目の前にそびえる巨大な建物を見上げていた。
東京都郊外にある探索者管理機構公認の低危険度ダンジョン。
正式名称は『第十二号多摩ダンジョン』。
六年前に出現した比較的古いダンジョンで、現在は周辺に管理施設や売店、医療所まで整備されている。
一見すると、ちょっとした観光施設のようだった。
ただし、入口には厳重な金属製ゲートがあり、その周囲には武装した警備員が立っている。
「すごいな……」
感心した。
異世界にもダンジョンはあった。
しかし、こんなに管理された場所ではなかった。
冒険者ギルドの管理下にあるダンジョンでも、入口に受付がある程度。
ここでは入場管理、探索者証の確認、装備検査、緊急時の救助体制まで整っている。
「さすが日本。管理社会だな」
もっとも、健太は日本のダンジョンが安全だとは思っていない。
むしろ、管理されているからこそ、危険が隠れている可能性もある。
「さて、と」
今日は探索ではなく見学だ。
正式な探索者登録は済ませたが、まだ実際にダンジョンへ入る許可はない。
初心者向けの見学プログラムに申し込み、管理された区域を職員と一緒に歩く予定だった。
受付で探索者証を提示する。
「田中健太さんですね。初心者見学プログラムでお間違いありませんか?」
「はい」
「こちらの注意事項を確認してください。見学中は担当職員から離れないこと。指定区域外へ立ち入らないこと。モンスターに遭遇した場合は、職員の指示に従うこと」
「分かりました」
「それでは、こちらの腕章を着けてください」
渡されたのは黄色い腕章だった。
初心者見学者であることを示すものらしい。
健太は腕に巻き付ける。
「なんだか工事現場の人みたいですね」
「安全のためです」
「ですよね」
受付の女性は苦笑した。
見学グループは全部で六人。
以外は二十代の男女だった。
その中の一人、黒髪短髪の青年が健太を見て言った。
「おじさんも探索者なんですか?」
「まあ、一応」
「へえ。見学から始めるんですね」
「いきなり死にたくないんで」
そう答えると、青年は少し笑った。
「慎重なんですね」
「臆病なだけですよ」
本気でそう思っていた。
冒険者時代、無理をして仲間を失ったことがある。
自分も何度か死にかけた。
だからこそ、危険な場所では慎重になる。
勝てない相手と戦わない。
逃げられるうちに逃げる。
それは、格好悪くても生き残るための大切な判断だった。
やがて、案内役の男性職員がやってきた。
「皆さん、お待たせしました。本日の案内を担当する小林です。よろしくお願いします」
小林は三十代前半くらいの男性で、探索者経験もあるらしい。
腰には短い警棒のような武器を装備している。
「それでは、ゲートを通過します。ここから先はダンジョン区域です」
重い金属扉が開く。
その向こうには、薄暗い通路が続いていた。
「……おお」
思わず声を漏らした。
外の建物とはまったく違う。
壁は灰色の岩で覆われ、天井からは淡い光を放つ鉱石が生えている。
空気は少し冷たく、湿っていた。
足元には細かい砂利が散らばっている。
「ここ、本当に地下なんですか?」
参加者の女性が尋ねる。
「はい。ダンジョン内部は特殊な空間になっています。外から見た構造とは一致しません」
小林が説明する。
「内部には独自の生態系があり、モンスターや植物、鉱物などが存在します。採取した素材は、規定に従って持ち帰ることができます」
壁に目を向けた。
(魔力の流れがあるな……)
異世界のダンジョンとよく似ている。
ただし、完全に同じではない。
壁の鉱石から感じる魔力は弱く、どこか不安定だった。
「田中さん?」
「はい?」
「何か気になることでも?」
「いえ。ちょっと壁を見ていただけです」
小林は壁を見た。
「珍しいですか?」
「まあ、少し」
健太はそれ以上説明しなかった。
しばらく進むと、小林が足を止めた。
「この先に、低危険度のモンスターが出現する区域があります。今日は遠くから観察するだけにしましょう」
通路の先には広い空間があった。
岩場の間を、小さな緑色の生き物が歩いている。
身長は一メートルほど。
尖った耳。
黄色い目。
手には粗末な木の棒。
「ゴブリンです」
小林が説明した。
「低層でよく見られるモンスターですが、決して侮らないでください。集団で襲ってくることがあります」
参加者たちが緊張する。
「うわ、本物だ……」
「ゲームで見るやつと同じだ」
黙って観察していた。
ゴブリンは三体。
一体は周囲を見回し、残り二体は地面を探っている。
(警戒役が一体。あとの二体は採集か、食料探しか)
一体のゴブリンが、突然こちらを向いた。
「ギャッ!」
小林が手を上げる。
「全員、静かに。刺激しないでください」
ゴブリンはしばらくこちらを見つめていたが、やがて仲間の方へ戻っていった。
参加者たちは安堵の息を吐く。
「びっくりした……」
「近くで見ると怖いな」
少し考えていた。
「小林さん」
「はい?」
「あのゴブリン、右足を引きずっていますね」
「え?」
「右足の動きが不自然です。怪我をしているのか、何かを踏んだのか」
小林は目を凝らした。
確かに、三体のうち一体だけ歩き方が違う。
「よく気づきましたね」
「いや、あれだけ動きが違えば分かりますよ」
「……そうですか」
小林は少し感心した様子だった。
「モンスターの状態を観察することは大切です。弱っている個体でも、追い詰めると危険ですから」
「ええ。弱っているから安全とは限りません」
頷いた。
異世界では、弱った魔物に不用意に近づいて腕を噛みちぎられた冒険者を見たことがある。
死にかけの獣ほど、最後の力を振り絞ることがある。
「それに、あの個体は少し気になります」
「何がです?」
「右足を引きずっているのに、左側の岩場を避けている。あそこに何かあるのかもしれません」
小林は岩場を確認した。
しばらくして、表情が変わる。
「……なるほど」
岩の隙間に、細い金属片のようなものが見えた。
「罠の残骸でしょうか?」
参加者の一人が尋ねる。
「可能性はあります。後で調査班に確認させます」
小林は健太に向き直った。
「田中さん、観察力がありますね」
「いや、たまたまですよ」
照れくさそうに笑った。
(まあ、こういうのは冒険者の基本だしな)
見学は順調に進んでいた。
しかし、帰り道に差しかかったところで、突然、警報音が鳴り響いた。
『注意。第三通路付近にモンスター接近。職員は見学者の安全確保を優先してください』
「えっ?」
参加者たちが動揺する。
小林の表情が変わった。
「皆さん、こちらへ。壁際に寄ってください」
「モンスターが来るんですか?」
「落ち着いてください。通常の巡回区域ですが、念のため退避します」
通路の奥から、何かが走る音が聞こえてきた。
タタタタッ。
そして、姿を現したのは狼型のモンスターだった。
黒い毛並み。
大きな鼻。
鋭い牙。
目が細くなる。
(……こいつか)
ニュースで見たモンスターに似ている。
だが、テレビの映像よりもずっと大きい。
体長は一・五メートルほど。
前足の筋肉が発達している。
鼻先を動かし、空気の匂いを探っている。
「ブラッドウルフです!」
小林が声を上げた。
「全員、動かないでください!」
狼型モンスターは、こちらを向いた。
鼻がひくひくと動く。
息を止めた。
(やっぱり嗅覚が鋭い。風の流れも悪い。こっちの匂いを拾っている)
小林が武器を構える。
「私が時間を稼ぎます。皆さんは後ろへ!」
しかし、狼の動きに違和感を覚えていた。
狼はすぐには飛びかかってこない。
何度も鼻を動かし、こちらの匂いを探っている。
(攻撃する前に、相手を確認しているのか)
小さく呟いた。
「……刺激しない方がいい」
「田中さん、下がってください!」
小林が叫ぶ。
両手を上げ、ゆっくり後退した。
そのとき、狼の視線が別の参加者へ向いた。
女性の一人が恐怖で足を滑らせ、床に転んでしまったのだ。
「きゃっ!」
狼の身体が低く沈む。
飛びかかる。
「危ない!」
反射的に声を上げた。
小林が動くより早く、健太は床に落ちていた金属製の案内板を蹴った。
ガンッ!
大きな音が通路に響く。
狼が一瞬、そちらへ顔を向けた。
「今です! その人を連れて下がって!」
小林が女性を引き起こし、後方へ移動させる。
すぐに距離を取った。
戦うつもりはない。
勝てる保証もない。
まずは全員が安全な場所へ逃げることだ。
警報が鳴り続ける中、管理施設の職員が駆けつけた。
数名の探索者が前に出て、狼型モンスターを牽制する。
その隙に、見学者たちは退避通路へ誘導された。
やがて重い扉が閉まり、全員が安全区域へ入った。
「……助かった」
参加者の一人が床に座り込む。
壁に寄りかかり、息を吐いた。
「はあ……」
小林が近づいてくる。
「田中さん。先ほどはありがとうございました」
「いえ。俺は案内板を蹴っただけです」
「それでも、あの一瞬がなければ危なかったかもしれません」
少し困った顔をした。
「それより、あの狼。普通のブラッドウルフと同じなんですか?」
「基本的な特徴は同じですが、個体差があります」
「そうですか」
考え込んだ。
(やっぱり、異世界の魔物と似ている。でも同じとは限らない。習性も弱点も、確認しないと危ないな)
小林は見ていた。
体力はない。
動きも鈍い。
しかし、危険な状況で慌てず、周囲を観察し、最小限の行動で時間を稼いだ。
「田中さん」
「はい?」
「あなたは、実際にダンジョンへ入った経験があるんですか?」
一瞬だけ黙った。
「……まあ、似たような場所なら」
「そうですか」
小林はそれ以上聞かなかった。
ただ、心の中では考えていた。
(あの人は、ただの初心者じゃない)
探索者証をポケットから取り出し、表面を指でなぞった。
今日の見学で分かったことがある。
この世界のダンジョンは、想像以上に危険だ。
そして、自分の知識が役立つ可能性もある。
だが、同時に思い知らされた。
「……体力、つけないとな」
百十五キロの身体では、逃げることすら難しい。
まずはそこからだ。
深く息を吐いた。
そして、帰り道にある売店を見つめた。
「……あの、すみません」
「はい?」
「この施設、食堂あります?」
小林は苦笑した。
「ありますよ」
「よかった」




