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「それでは、実技講習を始めます」
東京都探索者管理機構・東京支部。
地下にある訓練施設には、人工の岩場や森林を模した障害物、訓練用のモンスター模型が設置されていた。
広さは体育館ほどある。
入口に立ち、施設内を見渡した。
「……広いな」
「田中さん、どうかしましたか?」
講習担当の三浦が声をかける。
「いや、こういう場所って冷暖房が効いてるんだなと思いまして」
「そこですか?」
「いやあ、異世界の訓練場なんて、基本的に野外でしたから」
「……海外の話です」
「そうですか」
三浦は特に追及しなかった。
今日の参加者は十二名。
前回の講習で健太の知識に感心していた者もいれば、まだ半信半疑の者もいる。
特に若い男性の一人は、健太の腹を見て露骨に笑っていた。
「知識があっても、動けなきゃ意味ないよな」
聞こえる声で呟く。
健太はそちらを見た。
(まったくもって正論だ。反論できないのが悲しい)
「まずは準備運動から始めます。怪我防止のため、しっかり身体をほぐしてください」
三浦の指示で全員が準備運動を始める。
ゆっくり腕を回した。
肩を回す。
腰をひねる。
屈伸をする。
「……痛っ」
膝が鳴った。
「田中さん、大丈夫ですか?」
「ええ。膝が自己主張しているだけです」
「無理はしないでくださいね」
(すでに無理をしている気がする)
準備運動だけで、額に汗が浮かんでいた。
そして、最初の課題が始まった。
「まずは基本的な移動訓練です。前方のコーンを回って戻ってきてください。走る必要はありません。自分のペースで構いません」
距離はおよそ三十メートル。
その距離を見つめた。
「……三十メートルか」
普段なら何でもない距離だ。
「田中さん、どうぞ」
「はい」
健太は歩き始めた。
最初は普通だった。
五メートル。
十メートル。
十五メートル。
「ふう……」
息が少し上がる。
二十メートル。
「……あれ?」
右の脇腹が痛み始めた。
さらに歩く。
二十五メートル。
今度は膝にも違和感が出てきた。
(おいおい。まだ半分も走ってないぞ)
コーンを回って戻る。
二十九メートル。
三十メートル。
ようやく到着した。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
膝に手をつき、肩で息をした。
「田中さん、大丈夫ですか?」
三浦が近づいてくる。
「大丈夫です。ちょっと脇腹と膝が……」
「痛みがあるなら、無理せず休んでください」
「ありがとうございます」
健太は訓練施設の端にあるベンチへ移動した。
ゆっくり腰を下ろす。
ギシッ。
「……お前も大変だな」
ベンチにまで気を遣う男だった。
三浦は少し心配そうに見ていた。
(やはり体力面は厳しいか。これでは長時間の探索は難しいだろう)
ところが、次の訓練で三浦の印象が変わることになる。
「続いて、障害物回避訓練です。こちらの模型をモンスターと想定してください。攻撃を受けずに通路を抜けることを目指します」
訓練用の通路には、木製の障害物や低い壁、動くアームが設置されている。
単純な反射神経だけでなく、周囲を観察する能力も必要になる課題だった。
「田中さんも参加できますか?」
「歩く程度なら」
「もちろんです。無理はしないでください」
通路の前に立った。
一度、全体を眺める。
そして、すぐに動かなかった。
「……田中さん?」
「少し待ってください」
動くアームを観察する。
右から左へ。
左から右へ。
一定の周期ではない。
わずかに速度が変化している。
「これ、完全なランダムですか?」
「いえ、複数のパターンを組み合わせています」
「なるほど」
足元を見る。
床には小さな傷がいくつもあった。
「この床、滑りやすいですね」
「よく気づきましたね。訓練用に一部加工しています」
「だったら、走らない方がいい」
そう言って、健太は通路に入った。
最初の障害物を避ける。
動くアームが迫る。
一歩下がった。
アームが通り過ぎた瞬間、身体を横にずらして進む。
次の障害物。
その手前で止まり、壁の影を確認した。
そして、何もない場所を避けるように、わざわざ少し遠回りする。
「……?」
三浦が首を傾げた。障害物の陰にあった小さな突起を踏まずに通過した。
最後のアームが動く。
焦らない。
その動きを二度確認してから、ゆっくりと通り抜けた。
ゴール。
訓練用の警報は一度も鳴らなかった。
「……え?」
三浦が思わず声を漏らした。
周囲の受講者たちも驚いている。
「今の、全部避けたのか?」
「走ってないのに?」
「一回も引っかかってないぞ」
息を吐いた。
「ふう……疲れた」
三浦が近づいてくる。
「田中さん、今の動きは……」
「何か問題ありました?」
「いえ。素晴らしかったです。動く障害物だけでなく、床の滑りやすさや足元の突起まで確認していましたね」
「いや、転んだら痛いですから」
「それだけではありません。動きを観察してから進んでいました。反射的に避けるのではなく、相手の動作を予測していた」
三浦の目が真剣になる。
「実際のダンジョンでも、非常に重要な能力です」
少し照れくさそうに頭を掻いた。
「まあ、昔から危ない目には何度も遭ってますから」
(何度死にかけたことか。あの頃は本当に大変だった)
三浦は腕を組んだ。
(体力は明らかに不足している。しかし、状況把握、危険予測、動作の観察……どれも初心者の水準ではない)
前回の講習で感じた印象は間違っていなかった。
いや、むしろ想像以上だった。
「田中さん」
「はい?」
「今後、実際のダンジョンに入るつもりですよね?」
「そのつもりです。まあ、無理はしませんけど」
「その判断は大切です。ですが、体力だけは少しずつ改善してください。今のままでは、逃げる場面で逃げ切れない可能性があります」
「……ですよね」
自分の腹を見下ろした。
百十五キロ。
異世界では食べることが楽しみだった。
日本に戻ってからも、食べ物の誘惑は強い。
だが、この身体では危険な場所で生き残れない。
「少しずつ、頑張ります」
その言葉を聞いて、三浦は頷いた。
「ええ。焦らずにいきましょう」
その後、訓練は続いた。
健太は何度か休憩を挟みながら、課題をこなした。
攻撃模型の動きを観察し、避ける方向を選ぶ。
障害物の配置から、敵が待ち伏せしそうな場所を推測する。
罠を見つける課題では、誰よりも早く不自然な床板を指摘した。
ただし、走る課題だけは別だった。
「はぁ……はぁ……もう無理……」
脇腹を押さえ、膝をさすりながらベンチに座り込む。
三浦はそんな健太を見て、複雑な表情を浮かべていた。
(本当に不思議な人だ。知識と技術は経験者以上。しかし、体力は……)
健太が顔を上げる。
「三浦さん」
「はい?」
「この訓練、終わったら何か食べてもいいですか?」
「……食事制限の話は、健康診断で聞いていますよね?」
「聞いています」
「では、ほどほどにしてください」
「はい。ほどほどに」
その返事を聞きながら、三浦は思った。
(この人、食生活の改善が一番難しいかもしれないな……)
講習終了後。
健太は仮登録証を握りしめ、ゆっくり建物を出た。
足が重い。
膝が痛い。
脇腹も痛い。
「……明日は筋肉痛だな」
それでも、少しだけ嬉しかった。
自分の経験が、この世界でも役に立つ。
それが分かっただけでも、今日ここに来た意味はあった。
「さて、帰るか」
そう呟いた直後、スマートフォンを持っていないことを思い出した。
連絡手段もない。
まだ正式な探索者でもない。
住所も安定していない。
問題は山積みだ。
「……まあ、ひとつずつだな」
健太は腹を揺らしながら、ゆっくり歩き始めた。
その背中を見送る三浦の手元には、講習評価表があった。
田中健太。
体力:要改善
持久力:要改善
危険察知:非常に優秀
状況判断:非常に優秀
障害物回避:高評価
モンスター知識:要追加確認
そして最後に、三浦は一文を書き加えた。
「外見や身体能力だけで人物を判断してはいけない。現場経験に裏打ちされた技術を持つ可能性がある」
本人は、そんな評価が書かれていることなど知らない。
ただ、帰り道でこう考えていた。
(……唐揚げ弁当、食べたいな)
体力づくりへの決意は、早くも試練を迎えていた。
唐揚げにマヨネーズにビール最高ですよね
やめられません




