↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/52

10

田中健太は、朝から憂鬱だった。


「……帰りたい」


目の前には、探索者向けの講習会場がある。


東京都探索者管理機構・東京支部。


その建物の三階にある研修室では、これから新規登録者向けの基礎講習が行われる予定だった。


健太は受付でもらった仮登録証をポケットから取り出す。


「よし。ここまで来た。あとは帰るだけだな」


「田中さん、講習を受けてください」


背後から受付職員に冷静に突っ込まれた。


「冗談ですよ。冗談」


「では、こちらへどうぞ」


案内された研修室の扉を開けた瞬間、健太は妙な空気を感じた。


ざわざわ…


室内にいた十数人の視線が、一斉にこちらへ向いたのだ。


「……え?」


立ち止まった。


若い男。筋肉質な男。スポーツウェア姿の女性。大学生らしき集団。


どう見ても、健康的で活動的な人間ばかりだった。


その中に、腹の出た三十三歳の男が一人。


「……場違い感がすごいな」


小さく呟いて、空いている席へ向かう。


ギシッ。


椅子が鳴った。


健太は一瞬、動きを止めた。


(頼む。今日は耐えてくれ。俺もお前も、ここで壊れるわけにはいかない)


ゆっくり腰を下ろす。


ギシ……。


なんとか持ちこたえた。


(よし。合格だ)


周囲からは、ひそひそ声が聞こえてくる。


「え、あの人も探索者なの?」


「体力測定とか大丈夫なのかな」


「ダンジョンって、結構危ないんでしょ?」


「配信者とかじゃないよね?」


聞こえている。


全部聞こえている。


(うるせえな。俺だって好きでこの体になったわけじゃない。いや、好きで食ってた結果ではあるんだけど)


そんなことを考えていると、研修室の前方に一人の男性が立った。


三十代後半ほどの男で、短く整えた髪に眼鏡。落ち着いた雰囲気をしている。


胸元の名札には、講習担当・三浦と書かれていた。


「皆さん、おはようございます。本日の基礎講習を担当します、三浦です」


軽く頭を下げる。


「今日は探索者として活動するために必要な、最低限の知識を学んでもらいます。ダンジョンは危険な場所です。ゲームのように、やり直しはできません」


その言葉に、室内の空気が少し引き締まった。


「まず最初に確認します。探索者に必要なのは何だと思いますか?」


何人かが手を挙げる。


「戦闘能力です!」


「魔法やスキルの強さ!」


「体力!」


三浦は頷いた。


「どれも重要です。ただし、それだけではありません。最も重要なのは、生きて帰ることです」


その言葉に少しだけ顔を上げた。


「ダンジョンでは、強いモンスターと戦うことだけが正解ではありません。逃げる判断、危険を察知する能力、事前準備。そういったものが生死を分けます」


(うん。まともなことを言っている)


心の中で頷いた。


「では、実際の状況を想定してみましょう」


三浦がスクリーンを操作する。


映し出されたのは、狼型のモンスターだった。


「これは低層から中層にかけて出現する、通称ブラッドウルフです。群れで行動することが多く、嗅覚と聴覚に優れています」


健太の眉が、わずかに動いた。


(狼型か。鼻が大きいな。嗅覚が発達しているタイプか?)


「このモンスターと遭遇した場合、どう対応しますか?」


「先制攻撃します!」


若い男が答えた。


「正面から魔法を叩き込む!」


別の男も続く。


三浦は頷きながら説明する。


「もちろん、状況によっては有効です。ただし、群れで行動している場合は注意が必要です。正面の個体に気を取られている間に、別の個体が背後から襲ってくる可能性があります」


「なるほど……」


受講者たちがメモを取る。


そのときだった。


「すみません」


後方から声が上がった。


全員が振り向く。


「はい。田中さん、どうぞ」


「そのモンスター、嗅覚がかなり強いんですよね?」


「ええ。一般的な犬よりも優れているとされています」


「だったら、風向きは確認した方がいいと思います」


三浦は少し目を細めた。


「風向き、ですか?」


「はい。こっちの匂いを向こうに届ける方向なら、かなり遠くから気づかれますよね。逆に、風下から近づけば発見されにくくなる可能性があります。ただし、足音や地面の振動には注意が必要ですけど」


室内が静かになった。


「あと、嗅覚が強いなら、強い匂いで警戒させたり、逆に別の匂いに気を取らせたりする方法もあります。ただ、刺激臭が効くとは限らないので、まずは距離を取って観察した方がいいと思います」


三浦は数秒、健太を見つめていた。


「……なるほど」


そしてスクリーンに視線を戻す。


「非常に良い指摘です」


三浦の声に、少しだけ熱がこもった。


「実際、ブラッドウルフは嗅覚が優れているため、風向きは重要な要素になります。匂いを利用した誘導も研究されています。ただし、モンスターによって反応が異なるため、安易な使用は危険です」


受講者たちが健太を見る。


先ほどまでの視線とは、少し違っていた。


「へえ……」


「詳しいな」


「見た目によらないってやつか?」


健太は居心地悪そうに頭を掻いた。


(いや、そんな大した話じゃないんだけどな。異世界で何度も狼っぽい奴に追い回された経験があるだけで)


三浦は健太の仮登録証を確認した。


「田中さんは、モンスターに関する知識が豊富ですね。以前から探索者を?」


「まあ……似たような仕事をしていたことはあります」


「海外ですか?」


「そんな感じです」


三浦はそれ以上追及しなかった。


だが、内心では少し驚いていた。


(体格だけを見て、体力に不安のある初心者だと思っていたが……。観察力もあるし、危険に対する考え方も現場経験者のものだ)


もちろん、まだ判断するには早い。


知識があっても、実際に動けなければ意味がない。


それでも三浦は、先ほどまでとは違う目で健太を見るようになっていた。


講習はその後も続いた。


モンスターとの距離の取り方。


負傷時の応急処置。


魔石の採取方法。


罠や異常地形の見分け方。


健太は時折、質問をした。


「魔石を取り出した後、魔物の死骸はどう処理するんですか?」


「素材として回収する場合もありますが、基本的には管理機構の規定に従ってください」


「毒を持つ種類の場合は?」


「専用の防護具を使います」


「なるほど。じゃあ、解体する場所も選んだ方がいいですね。血の匂いで別の魔物が寄ってくる可能性もありますし」


「……そうですね」


三浦はまたメモを取った。


(この人、ただ知識があるだけじゃない。実際の現場で何が起きるのかを想像している)


一方、受講者たちは少しずつ健太を見る目を変えていた。


ただの太ったおっさん。


そう思っていた人物が、次々と実践的な質問を投げかけてくる。


もちろん、全員が感心しているわけではない。


「知識だけなら誰でも覚えられるだろ」


そんな声も聞こえた。


健太は聞こえないふりをした。


(そうそう。知識だけなら誰でも覚えられる。だから俺を放っておいてくれ)


講習の最後に、三浦が告げた。


「次回は実技講習です。実際に訓練施設で、基本的な動作やモンスターへの対応を確認します。そこで適性を判断し、正式な登録へ進んでもらいます」


健太は小さく息を吐いた。


(実技か……。走るのは嫌だな)


講習が終わり、受講者たちが席を立つ。


三浦は健太のところへやってきた。


「田中さん」


「はい?」


「先ほどのブラッドウルフの話ですが、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」


「えっ」


「もしよろしければ、今後の講習内容にも反映したいと思っています」


困ったように笑った。


「いや、俺の話なんて大したことないですよ」


「いえ。現場で役立つ知識だと思います」


三浦は真剣だった。


少しだけ考えてから答えた。


「じゃあ、休憩時間にでも。立ち話なら」


「ありがとうございます」


その様子を見ていた受講者たちが、再びざわつく。


「担当の人、あのおっさんに頭下げてたぞ」


「何者なんだ?」


「もしかして、元々すごい探索者だったとか?」


その声を聞きながら、研修室を出た。


そして廊下のベンチを見つけると、ゆっくり腰を下ろす。


ギシッ。


「……お前も頑張ってるな」


椅子に向かって呟いた。


この日、講習担当の三浦が記録に残した一文。


『田中健太。身体能力には不安があるが、モンスターに関する知識と危険予測能力は非常に高い。見た目だけで判断してはいけない人物』


それが後に、彼の評価を大きく変えるきっかけになることを。


そして本人はというと――。


「……帰りにチーズ牛丼大盛りでも食うか」


結局、食欲の方が勝っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。