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田中健太は、朝から憂鬱だった。
「……帰りたい」
目の前には、探索者向けの講習会場がある。
東京都探索者管理機構・東京支部。
その建物の三階にある研修室では、これから新規登録者向けの基礎講習が行われる予定だった。
健太は受付でもらった仮登録証をポケットから取り出す。
「よし。ここまで来た。あとは帰るだけだな」
「田中さん、講習を受けてください」
背後から受付職員に冷静に突っ込まれた。
「冗談ですよ。冗談」
「では、こちらへどうぞ」
案内された研修室の扉を開けた瞬間、健太は妙な空気を感じた。
ざわざわ…
室内にいた十数人の視線が、一斉にこちらへ向いたのだ。
「……え?」
立ち止まった。
若い男。筋肉質な男。スポーツウェア姿の女性。大学生らしき集団。
どう見ても、健康的で活動的な人間ばかりだった。
その中に、腹の出た三十三歳の男が一人。
「……場違い感がすごいな」
小さく呟いて、空いている席へ向かう。
ギシッ。
椅子が鳴った。
健太は一瞬、動きを止めた。
(頼む。今日は耐えてくれ。俺もお前も、ここで壊れるわけにはいかない)
ゆっくり腰を下ろす。
ギシ……。
なんとか持ちこたえた。
(よし。合格だ)
周囲からは、ひそひそ声が聞こえてくる。
「え、あの人も探索者なの?」
「体力測定とか大丈夫なのかな」
「ダンジョンって、結構危ないんでしょ?」
「配信者とかじゃないよね?」
聞こえている。
全部聞こえている。
(うるせえな。俺だって好きでこの体になったわけじゃない。いや、好きで食ってた結果ではあるんだけど)
そんなことを考えていると、研修室の前方に一人の男性が立った。
三十代後半ほどの男で、短く整えた髪に眼鏡。落ち着いた雰囲気をしている。
胸元の名札には、講習担当・三浦と書かれていた。
「皆さん、おはようございます。本日の基礎講習を担当します、三浦です」
軽く頭を下げる。
「今日は探索者として活動するために必要な、最低限の知識を学んでもらいます。ダンジョンは危険な場所です。ゲームのように、やり直しはできません」
その言葉に、室内の空気が少し引き締まった。
「まず最初に確認します。探索者に必要なのは何だと思いますか?」
何人かが手を挙げる。
「戦闘能力です!」
「魔法やスキルの強さ!」
「体力!」
三浦は頷いた。
「どれも重要です。ただし、それだけではありません。最も重要なのは、生きて帰ることです」
その言葉に少しだけ顔を上げた。
「ダンジョンでは、強いモンスターと戦うことだけが正解ではありません。逃げる判断、危険を察知する能力、事前準備。そういったものが生死を分けます」
(うん。まともなことを言っている)
心の中で頷いた。
「では、実際の状況を想定してみましょう」
三浦がスクリーンを操作する。
映し出されたのは、狼型のモンスターだった。
「これは低層から中層にかけて出現する、通称ブラッドウルフです。群れで行動することが多く、嗅覚と聴覚に優れています」
健太の眉が、わずかに動いた。
(狼型か。鼻が大きいな。嗅覚が発達しているタイプか?)
「このモンスターと遭遇した場合、どう対応しますか?」
「先制攻撃します!」
若い男が答えた。
「正面から魔法を叩き込む!」
別の男も続く。
三浦は頷きながら説明する。
「もちろん、状況によっては有効です。ただし、群れで行動している場合は注意が必要です。正面の個体に気を取られている間に、別の個体が背後から襲ってくる可能性があります」
「なるほど……」
受講者たちがメモを取る。
そのときだった。
「すみません」
後方から声が上がった。
全員が振り向く。
「はい。田中さん、どうぞ」
「そのモンスター、嗅覚がかなり強いんですよね?」
「ええ。一般的な犬よりも優れているとされています」
「だったら、風向きは確認した方がいいと思います」
三浦は少し目を細めた。
「風向き、ですか?」
「はい。こっちの匂いを向こうに届ける方向なら、かなり遠くから気づかれますよね。逆に、風下から近づけば発見されにくくなる可能性があります。ただし、足音や地面の振動には注意が必要ですけど」
室内が静かになった。
「あと、嗅覚が強いなら、強い匂いで警戒させたり、逆に別の匂いに気を取らせたりする方法もあります。ただ、刺激臭が効くとは限らないので、まずは距離を取って観察した方がいいと思います」
三浦は数秒、健太を見つめていた。
「……なるほど」
そしてスクリーンに視線を戻す。
「非常に良い指摘です」
三浦の声に、少しだけ熱がこもった。
「実際、ブラッドウルフは嗅覚が優れているため、風向きは重要な要素になります。匂いを利用した誘導も研究されています。ただし、モンスターによって反応が異なるため、安易な使用は危険です」
受講者たちが健太を見る。
先ほどまでの視線とは、少し違っていた。
「へえ……」
「詳しいな」
「見た目によらないってやつか?」
健太は居心地悪そうに頭を掻いた。
(いや、そんな大した話じゃないんだけどな。異世界で何度も狼っぽい奴に追い回された経験があるだけで)
三浦は健太の仮登録証を確認した。
「田中さんは、モンスターに関する知識が豊富ですね。以前から探索者を?」
「まあ……似たような仕事をしていたことはあります」
「海外ですか?」
「そんな感じです」
三浦はそれ以上追及しなかった。
だが、内心では少し驚いていた。
(体格だけを見て、体力に不安のある初心者だと思っていたが……。観察力もあるし、危険に対する考え方も現場経験者のものだ)
もちろん、まだ判断するには早い。
知識があっても、実際に動けなければ意味がない。
それでも三浦は、先ほどまでとは違う目で健太を見るようになっていた。
講習はその後も続いた。
モンスターとの距離の取り方。
負傷時の応急処置。
魔石の採取方法。
罠や異常地形の見分け方。
健太は時折、質問をした。
「魔石を取り出した後、魔物の死骸はどう処理するんですか?」
「素材として回収する場合もありますが、基本的には管理機構の規定に従ってください」
「毒を持つ種類の場合は?」
「専用の防護具を使います」
「なるほど。じゃあ、解体する場所も選んだ方がいいですね。血の匂いで別の魔物が寄ってくる可能性もありますし」
「……そうですね」
三浦はまたメモを取った。
(この人、ただ知識があるだけじゃない。実際の現場で何が起きるのかを想像している)
一方、受講者たちは少しずつ健太を見る目を変えていた。
ただの太ったおっさん。
そう思っていた人物が、次々と実践的な質問を投げかけてくる。
もちろん、全員が感心しているわけではない。
「知識だけなら誰でも覚えられるだろ」
そんな声も聞こえた。
健太は聞こえないふりをした。
(そうそう。知識だけなら誰でも覚えられる。だから俺を放っておいてくれ)
講習の最後に、三浦が告げた。
「次回は実技講習です。実際に訓練施設で、基本的な動作やモンスターへの対応を確認します。そこで適性を判断し、正式な登録へ進んでもらいます」
健太は小さく息を吐いた。
(実技か……。走るのは嫌だな)
講習が終わり、受講者たちが席を立つ。
三浦は健太のところへやってきた。
「田中さん」
「はい?」
「先ほどのブラッドウルフの話ですが、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
「えっ」
「もしよろしければ、今後の講習内容にも反映したいと思っています」
困ったように笑った。
「いや、俺の話なんて大したことないですよ」
「いえ。現場で役立つ知識だと思います」
三浦は真剣だった。
少しだけ考えてから答えた。
「じゃあ、休憩時間にでも。立ち話なら」
「ありがとうございます」
その様子を見ていた受講者たちが、再びざわつく。
「担当の人、あのおっさんに頭下げてたぞ」
「何者なんだ?」
「もしかして、元々すごい探索者だったとか?」
その声を聞きながら、研修室を出た。
そして廊下のベンチを見つけると、ゆっくり腰を下ろす。
ギシッ。
「……お前も頑張ってるな」
椅子に向かって呟いた。
この日、講習担当の三浦が記録に残した一文。
『田中健太。身体能力には不安があるが、モンスターに関する知識と危険予測能力は非常に高い。見た目だけで判断してはいけない人物』
それが後に、彼の評価を大きく変えるきっかけになることを。
そして本人はというと――。
「……帰りにチーズ牛丼大盛りでも食うか」
結局、食欲の方が勝っていた。




