初めての街と皮膚科医の生きる道4
3日目の朝は、教会から始めた。
敵情視察――というと聞こえが悪いが、この世界の「同業者」が何をどこまでできるのかを知らなければ、皮膚科医はできないだろう。
広場を横切り、聖堂の石段に近づく。石段の隅には、今日も老人がうずくまっていた。石皮のジジ。ぼろの端から覗く手の甲は、一昨日と同じく、厚く硬く、ひび割れている。
私は石段の下で足を止めた。
三歩の距離まで寄れば、【皮膚透見】で視ることはできる。だが視て、それでどうする。診断がついたところで、今の私には、まだそれを治す薬も、場所も、信用もない。近寄って、視て、何もせずに立ち去るくらいなら、近寄らないほうがましだ。
――まずは、この町に居場所を作ってからだ。
老人は、こちらを見なかった。私は石段を上り、聖堂の扉をくぐった。
聖堂の中は、白い石と金の装飾で、目が痛いほど清らかだった。祭壇の脇に「癒しの受付」なる小窓があり、羊皮紙の価格表が貼られている。浅い傷、銀貨5枚。深い傷、銀貨15枚。骨折、銀貨30枚。失われた指の再生、応相談。
「巡礼の方ですか」
振り向くと、若い治癒師が立っていた。生真面目を絵に描いたような顔立ちの、二十代後半の男だった。
「いえ、東から来た薬師です。癒しの御業について、教えを乞いたくて。……つかぬことを伺いますが、癒しの祈りは、傷の『何』を治しているのでしょう」
若い治癒師は、虚を突かれた顔をした。
「何、とは……傷を、です。祈れば、聖光が形の崩れを元に戻します」
「では、形の崩れていない病はどうです。たとえば、熱病。たとえば、痒み」
「熱病には効きません。痒みも……効かないと、されています」彼は少し声を落とした。「正直に申せば、なぜ効く傷と効かない傷があるのか、私にも分かりません。教義は『効かぬものは癒しの対象ではない』と教えるだけで、その、理由までは」
「理由を知りたいと、思ったことは?」
彼は答えなかった。ただ、その沈黙は「否」の沈黙ではなかった。組織の中で問いを飲み込み続けてきた人間の、覚えのある沈黙だった。前世の医局でも、ときどき見た顔だ。
「不躾なことを聞きました。ありがとう、勉強になりました」
「いえ……。あの、東の薬師どの。この町に、しばらく?」
「ええ。皮膚の病を診る店を開くつもりです」
「皮膚の……」若い治癒師は目を見開き、それから慌てて周囲を見回し、声を潜めた。「……お節介ながら、支部長の耳には、あまり大きな声で入れないほうがいい。皮の病は、その、教会では」
「業、でしょう。ご忠告痛み入る。……お名前を伺っても?」
「テオドールと申します」
これが、のちの「アルメリア皮膚診療所・治癒係」との初対面だったわけだが、このときの私はまだ知る由もない。ただ、聖堂を出て一つだけ確信したことがある。教義がどれほど硬くても、その中で働く人間には、問いが芽吹く。そして問いは、いつか必ず、扉を叩くきっかけになる。
聖堂を出たあとは、北の商店街から南の職人街まで、町を縦に歩いた。
北の道は、ベルタの言った通り商店が並んでいた。武具屋、革鎧を並べた防具屋、雑貨屋、そして――薬草屋。軒先に乾燥した草束が吊るされ、店の奥には煎じ薬の壺が並んでいる。
店主らしき親父は、私が薬師だと名乗ると、値踏みするように眉を上げた。
「東の薬師?で、何が入り用だ。熱冷ましならカロン草、腹下しならミレット根。傷薬ならユグの葉だ」
「傷薬は、いずれ。今日は――皮膚の痒みに効く草を探しています」
親父の顔が、あからさまに曇った。
「……あんた、よそ者だから言っとくがな。そういうもんは、うちには置いてねえ。業に薬は効かねえんだ。効かねえもんを売れば、教会に目をつけられる。うちは熱冷ましと腹薬と、傷薬。それくらいだ」
「どんな薬草があるか、みてもいいですか?」
「あぁ、いいぜ。でも、ベタベタさわるなよ、商品が傷つく」
「はい、ありがとうございます。気をつけます」
獣脂軟膏だけでは保湿、保護作用しかない。それでもある程度の効果はあるだろうが、そこになにかしらの薬草の成分を加えて、抗炎症作用や止痒作用が得られたりしないだろうか……
ハーブに詳しいわけでもないので、みていても何もわからない。少し鼻を近づけて、ニオイを嗅いでみる。薬草らしい独特のニオイのものが多いが……んっ、これは……
「ご主人、この薬草は?」
「あぁ、それはフリゲラ。フリグとも呼ぶな。特に効能はないが、スーッとするニオイがあるから、飲みやすくするために煎じ薬に混ぜるんだ」
なるほど、思った通りだ。これはミントのニオイに近い……使えるかもしれない。前世でもミントの一種から作られるハッカ油を軟膏に混ぜて処方したこともある。メントールの清涼感は止痒作用もあるのだ。
「ところで、ここの草は、どこで採れるものですか?」
「西の森だ。ギルドの採取屋が持ってくる。自分で採りてえなら、冒険者登録をしな。森は魔物も出るからな」
「なるほど。では、このフリゲラを一束いただけますか」
「それだけ買っても、何の効能もねえぞ」
「いいんです。ちょっと試してみたいことがあるので」
「まぁ、買ってくれるならこっちはなんでもいいがな。一束銅貨12枚だ」
意外と高い……だが、仕方ない。まずは試してみないと。
私は礼を言って店を出た。収穫はあった。こちらにもいろいろな薬草がある。どうやら前世に近いものもありそうだ。まだ役立つかどうかはわからないが、ある程度効能がわかっているものもあるようだから、それを活かして、皮膚の薬を作ってみればよい。
広場を抜けて南へ下ると、空気の匂いが変わった。
職人街である。鉄を打つ音が、通りの奥から規則正しく響いてくる。鍛冶屋の前を通ると、炉の熱が頬に当たった。中では樽のような体つきの男が、肩まで捲った腕で槌を振るっていた。剣か鍬か、赤く焼けた鉄を、無造作な正確さで叩いている。――いずれ、道具を頼むならああいう腕だ、と私は思った。鑷子。剪刀。小刀。前世の器具に及ばなくても、先の合った鑷子が一本あるだけで、できることは倍になる。
革鞣し場の前では、鼻を突く匂いに思わず息を止めた。桶に沈められた獣皮と、鞣し液の刺激臭。ここで働く者の手が黒ずむわけだ。染物屋の軒先には、藍と茜と黄土の布が、旗のようにはためいている。染物屋の親父は、昨日市場で見た前腕のかぶれを掻きながら、桶に布を沈めていた。
桶屋。蝋燭屋。そして、どの店の軒にも、聖光教会の太陽の紋章を刻んだ小さな木札が下がっていた。魔除けだろうか、それとも寄進の印か。
広場の屋台で昼を済ませ、木苺亭に戻った。
「ちょっとお願いがあるのですが……竈を少し借していただけますか。軟膏を練り直したいので」
「薬師ってのは、台所で薬を作るもんなのかい」
呆れながらも、ベルタは竈の隅を貸してくれた。獣脂の削り屑を湯煎で溶かし、その中に細かくした乾燥フリゲラを入れる。熱が入りすぎると香りが飛んでしまうから、火から離し低温でゆっくりとかき混ぜていく。ミントっぽいニオイが充満してきた。ベルタから銅貨1枚で分けてもらった布で獣脂を濾していき、溶かした蜜蝋を混ぜて練っていった。三つの小壺が、白く濁った軟膏で満たされた。フリゲラの香りが心地よい。生の葉で作ったほうが、きっとニオイは濃いだろう。
軟膏を練りながら、ベルタに気になっていたことを聞いてみた。
「ベルタさん。坊やはいますか。3歳くらいの。さっき廊下で見かけた子です」
「ニコかい? うちの末っ子だけど」
「首と肘の内側を、しきりに掻いていました。夜、眠りが浅くないですか。機嫌が悪くて、体をよじって」
ベルタの目の色が変わった。
「……あんた、なんで分かるんだい。ここんとこ毎晩、掻きむしって夜泣きして。汗をかく季節になると決まってああなんだ。教会に連れてったら、『子の業は親の業』だなんて言われてさ……あたしゃ悔しくて」
「見せてもらえますか。診るだけならお代はいりません」
連れてこられたニコ坊やの首筋と肘窩、膝窩には、赤い小さな丘疹がびっしりと並び、掻き壊した痕が擦り傷のようになっていた。汗疹に湿疹反応が合わさったもの――いわゆる、あせもとあせもかぶれだ。重ね着した毛織の服が、ご丁寧に首元までぴっちり詰まっている。
「ベルタさん。これは業でも呪いでもなく、『汗』です。汗の出口が詰まって、皮の下で汗が漏れて、それが痒みを起こしている。それだけです」
「汗ぇ? 汗なんて誰でもかくだろ」
「そう、誰でもかく。だから誰でもなり得る。……子どもは大人より汗っかきなのに、この子は大人より厚着だ。まず服を綿麻の風通しのいいものに替えて、一枚減らす。汗をかいたら水で濡らした布で押さえるように拭くか、ぬるま湯で流す。湯上がりに、掻き壊しにはこれを薄く」
練りたてのフリゲラ軟膏だ。フリゲラの清涼感は痒みを紛らわす程度かもしれないが、掻破のループを断つには案外馬鹿にできないだろう。
「爪は短く丸くして、掻く刺激も減らせば、3日で変わります。変わらなかったら、宿代を倍払いましょう」
ベルタは疑わしげな顔をしながらも、その晩からニコの服を替えた。




