初めての街と皮膚科医の生きる道5
4日目は、朝から雨だった。
街道を叩く雨音で目を覚まし、窓の外を見て、今日は町を歩けないと悟った。だが、雨の日には雨の日の仕事がある。
階下に降りると、給仕の娘リサが、竈の脇で洗い物をしていた。年の頃は15, 6。桶に張った湯に手を突っ込み、灰汁で鍋を磨いている。その手を、初日に見ていた。指の背と手首がかさかさに荒れ、関節の皺に沿って赤く裂けている。主婦湿疹。前世の外来で、1日に何人も診た手だ。
「リサさん。その手、痛くないですか」
娘はびくりとして、手を湯から引き上げた。
「……あの、大丈夫です。冬はもっとひどいから。母ちゃんも、洗い場の女はみんなこうだって」
「お母さんは洗濯を?」
「川の洗い場で。……先生、ドナンさんの手を治したって、女将さんが」
「治したのは私ではなく、本人が薬を塗り続けたからですが。……いいですか、リサさん。灰汁は皮膚の脂を根こそぎ持っていく。だから裂ける。洗い物の湯は、熱いほど手が荒れます。ぬるくして、灰汁を使うのは鍋だけにして、皿は湯だけで。終わったら必ず、手を拭いて、これを」
昨日練った軟膏の小壺を一つ、竈の脇の棚に置いた。
「ここに置いておきます。洗い物のあと、乾かないうちに擦り込む。ベルタさんにも、そう言っておきましょう」
「……お代、払えないです」
「宿の厨房の、皮膚の番人になってもらえれば十分です」
リサはよく分からないという顔で、それでも小さく頷いた。
昼、雨脚は弱まらなかった。食堂で麦粥をすすりながら、私はベルタを捕まえて、この町の仕組みを教えてもらうことにした。4日歩いて見えたものを、地元の目で答え合わせをしておきたかった。
「この町は、迷宮で食ってる。そう思って間違いないですか」
「間違いないね。半日行ったところに、アルメリア大坑ってのがある。地の底まで穴が続いてて、魔石やら珍しい素材やらが採れる。それを目当てに王国中から冒険者が来て、宿に泊まって、飯を食って、武具を買って、酒を飲む。うちの客の7割は冒険者だよ」
「そして、怪我をすれば教会へ」
「そう。寄進は高いけど、腕をなくすよりましだろ。だからこの町じゃ、教会に逆らう奴はいない。ギルドマスターだって、司祭さまには頭を下げる」
「……皮膚の病が『業』だと決めたのも、教会ですか」
ベルタは少し声を落とした。
「昔からそう言われてる。あたしの婆ちゃんの代からね。皮膚に出た病は、前世の罪が透けて見えてるんだと。だから隠す。隠して、祈る。……ニコのことだって、あたしは誰にも言ってないよ。あんた以外にはね」
「なぜ、私には」
「ドナンの手を見たからさ。あの男の手は、10年前からああだった。それが1日で楽になったって、目を輝かせてた。……あんたがこの町で何をする気か知らないけど、あの手が治るなら、ニコだって治るだろうと思っただけだよ」
私は黙って麦粥を飲んだ。信用というものは、こうやって一人ずつ、手から手へ渡っていくものらしい。
「それと、忠告しとく」ベルタは付け加えた。「町外れに孤児院がある。流行り病で親を亡くした子が二十人ほどいてね。あそこの院長は、いい人だ。……それだけ言っとくよ」
その晩のことである。階下の厨房から、悲鳴が上がった。
駆け下りると、竈の前でリサが左腕を抱えてうずくまっていた。足元には転がった鍋。煮え立った麦粥が、前腕にべったりと浴びせられたのだった。
「動くな、そのまま!」
「あああ、熱い、熱いよう……!」
騒ぎを聞きつけたベルタが、棚から油壺を引っ掴んだ。
「リサ! 今すぐ油を塗るんだ! それから小麦粉をはたいときゃ、痕が残らないって婆ちゃんが――」
「待った!」
私はベルタの手首を掴んで止めた。この世界にも、あったか。火傷に油、火傷に粉。前世でも散々戦った民間療法の双璧である。
「ベルタさん、油も粉も駄目だ。熱が皮膚の中に閉じ込められて、火傷が深くなる。それに、あとで洗い落とすときに娘さんが地獄を見る。――今この瞬間に要るのは、水だ。冷たい水。井戸水を桶で、ありったけ!」
「み、水ぅ? 火傷に水なんて聞いたこと――」
「私の故郷では火傷の治療の一丁目一番地だ! 早く!」
気圧されたベルタが桶を運ばせ、私はリサの腕に井戸水を静かにかけ続けた。流しては注ぎ、流しては注ぎ。四半刻――およそ30分。リサの泣き声は、途中から嘘のように静かになった。
「……熱くない。ねえ、先生、もう熱くないよ」
「そう、それが水の力だ。皮膚の中で燃え続けるはずだった火を、外から消したんだ」
冷やし終えた前腕は赤く、ところどころに水ぶくれが育ち始めていたが、幸い範囲は狭く、深さも浅そうだった。水疱は破らない。破れたところだけ、清潔なリネンに軟膏を薄く伸ばして貼り、乾かさないように覆う。
「いいかい、リサ。かさぶたを乾かして治すのは古い考えだ。火傷の傷は、適度に潤った覆いの下で治すほうが、早くて、痕も残りにくい。布は私が毎日替えよう」
――この火傷は、2週間後にほとんど痕を残さず治ることになる。そしてベルタは「油と粉の婆ちゃんの教え」を宿の壁から剥がし、代わりに私の口述を大書きした紙を貼る。
やけどは、まず水で四半刻冷やすこと。あぶら、こな、つばは、ぬらないこと。
この紙は後々まで木苺亭の厨房に貼られ続け、いつしか町中の厨房に写しが貼られるようになる。私がこの世界に残した最初の「医学的貼り紙」は、診療所の看板より先に、宿屋の厨房に掲げられたのだった。
だが、それはまだ先の話だ。この夜の私は、リサの腕に布を巻き終え、井戸水で冷えた自分の指先を、竈の残り火で温めていた。
夕方、宿に戻ると、食堂でベルタが言った。
「ニコは、昨夜は2度しか起きなかったよ。……まあ、まだ3日目じゃないからね。倍払いの約束は忘れてないよ」
「明日の夜が、勝負です」
5日目の朝、雨は上がっていた。
食堂に降りると、ベルタは腕組みをして待ち構えていた。
「……昨夜、あの子が朝まで泣かずに眠ったよ。この半年で初めてだ」
「それは何より」
「あんた」
ベルタはずい、と身を乗り出した。
「宿代はいらない。その代わり、うちの宿にしばらく居な。あんたみたいな薬師を、この町は必要としてるよ。あたしが保証する」
そして、卓の上に銅貨を積んだ。数えると、80枚あった。
「4晩分だ。返す。……いいから取っときな。ニコが眠って、リサの腕が残って、それで銅貨80枚なら、あたしが得をしてる」
私は少し迷ってから、ありがたく受け取った。手持ちは、銀貨4枚と銅貨百枚余り。銀貨に換えれば、この町に来た日と、ほぼ同じ額に戻ったことになる。
こうして私は、アルメリアの町に腰を落ち着けることになった。
寝床の心配が消えると、人間は途端に欲が出る。
午前中、目抜き通りの小間物屋で、帳面とインクと羽根ペンを買った。銅貨5枚。店番の後家さんは「薬師さんが帳面かい」と不思議そうな顔をしたが、私にとってはこれが、この世界で最初の「医療機器」だった。
宿に戻り、帳面の1頁目に、この5日間の記録を書いた。
ドナン。行商人。両手の角化と亀裂。獣脂軟膏、朝晩。
槍使い(名は聞いていない)。冒険者。両足趾間の白癬。洗浄、乾燥、足布2枚。薬なし。経過不明。
ニコ。3歳。頸部・肘窩・膝窩の汗疹。薄着、拭き取り、フリゲラ軟膏。二晩で改善。
リサ。給仕。両手の主婦湿疹。灰汁の制限、軟膏。同日、左前腕の熱傷。流水冷却、湿潤被覆。
魚売りの女。両手の亀裂。軟膏、経過待ち。
石皮のジジ。教会の石段。角化症の疑い。未診察。
書きながら、私は自分の手が、少し震えているのに気づいた。
5日で、6人。前世の外来なら、午前中の30分で診た数だ。だがここでは、6人のうち5人が、生まれて初めて「治せるかもしれない」と言われた人間だった。
午後、広場の北にある冒険者ギルドの前まで行ってみた。石造りの重厚な建物で、扉の脇の掲示板には依頼書がびっしりと貼られている。薬草採取、銅貨30。荷運び、銅貨40。迷宮一層の護衛、銀貨2。
――薬草採取。あの薬草屋の親父が言っていた、西の森だ。カロン草やユグの葉なら、私にも採れるだろうか。そして、ヨモギに似た草を探すのも、店の軒先ではなく、森だろう。
扉の中には入らなかった。まだ、今日ではない。
その夜、狭い部屋の寝台に横になりながら、私は天井を見上げて考えていた。
この世界には、皮膚科医がいない。
痒くて眠れない子どもがいて、手が裂けて痛む働き手がいて、「業だ」と言われて俯いて生きる人たちがいる。そして誰も、それを「治せるもの」だと知らない。
この5日間で分かったことは、それだけではない。
治せる、と言えば、人は驚く。治ってみせれば、人は信じる。信じた人間は、次の人間を連れてくる。ドナンの手がベルタを、ベルタがニコを、ニコの眠りがリサを、私のところへ連れてきた。銭も看板もないまま、それだけが、この5日で確かに動いた。
――ならば、私のやることは決まっている。
診療所をつくろう。




