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初めての街と皮膚科医の生きる道3

夜明け前、階下の物音で目が覚めた。

降りていくと、ドナンが幌馬車に荷を積み直しているところだった。王都へ向けて、今日のうちに発つのだという。

「一月ほどで戻る。手の具合は、王都の連中に見せびらかしてくるさ。……先生、この町は悪い町じゃねえが、業の話だけは口が軽いと損をする。上手くやんな」

「肝に銘じます。軟膏、朝晩を忘れずに」

「へいへい。医者みてえなことを言うぜ」

馬車は東の門へ向かって、朝靄の中に消えていった。この世界で最初に出会った男が去るのは、少し心細かった。だが同時に、それは「自分の足で立て」という合図なのかもしれない。

部屋に戻り、木苺亭の硬い寝台に、もう一度腰を下ろす。特にやらなければならないことがあるわけではない。そんな朝は、皮膚科医になって20年、初めてのことだった。だが同時に、この異世界で皮膚科医として生きていくための、最初の朝でもある。

まずはアルメリアの街を歩いてみよう。そうだ、水虫の薬になる素材も探さなければならなかった。やることはあったな。もっとも、抗真菌作用(こうしんきんさよう)のある素材など、そう都合よく見つかるとは思えない。まずはこちらの世界を知ることだ。

朝食をとりながら、ベルタに聞いてみる。

「今日は街をみてみようと思うんだが、みておくべき場所とか、行ってはいけない場所とかあるかい?」

「そうさねぇ、ここを出て左に行くと中央広場に出る。露店商(ろてんしょう)やら、曲芸師(ピエロ)やらがいて、いつも賑わってる。その北側にあるのが冒険者ギルドだ。薬師なら冒険者登録をして自分で素材を集めてもいいし、金があるならギルドに素材集めを依頼してもいい」

中央広場なら、昨日ドナンに案内されながら通ってきた。確かにこの街の活気が感じられたな。

「ギルドのある北の道には商店が並んでいる。薬草屋(やくそうや)もそっちだ。しばらく歩けば聖光教会だ。中央広場の南は職人街だね。鍛冶屋(かじや)、革職人(かわしょくにん)、染物屋(そめものや)、桶屋(おけや)、蝋燭屋(ろうそくや)。だいたいの職人は揃ってる。腕はピンきりだけどね。西の方は怪しい連中がたむろっているから注意したほうがいいよ」

「そうか、ありがとう。初めての街だから、あまり土地勘がなくて」

「迷ったら教会の尖塔を探しな。町のどこからでも見える」

礼を言って、宿を出た。今日もいい天気だ。すでに街を歩く人は多い。とりあえず中央広場に出て、商店を覗いてみるか。

中央広場は、朝から祭りのような賑わいだった。

石畳の上に、天幕を張った露店がぎっしりと並ぶ。野菜、果物、干し肉、干し魚、布、陶器、籠。その隙間で、赤い帽子の曲芸師が棒の先に皿を回し、子どもたちが歓声を上げている。少し離れた石段では、竪琴を抱えた男が歌っていた。

異世界の市場、というものを、私は初めてまともに眺めた。

――そして、見てしまうのだった。

魚売りの女の手は、鱗と塩水で赤くふやけ、指の付け根がぱっくり割れている。染物屋の親父の前腕は、染料の色に染まった上から、かぶれの丘疹が点々と続く。革鞣し職人の手の甲は、鞣し液で厚く黒ずみ、パン屋の女房の手首の内側には、窯の縁で繰り返し焼いた線状の火傷痕(やけどあと)が、年輪のように重なっていた。籠を編む婆さんの指先は、蔓草(つるくさ)の棘のささくれだらけで、2本は爪の脇が赤く腫れて膿を持っている――ひょう疽(そ)だろう。こちらの世界では爪をどう切っているのだろうか。

朝の市場は、職業性皮膚疾患の見本市だった。

働く者の皮膚には、その者の仕事が刻まれる。前世の教科書にもそう書いてあったが、機械化される前の世界では、その刻まれ方の深さがまるで違った。ここでは皮膚は、履歴書であり、そして消耗品だった。

「なあ、そこの東の旅の人。さっきからうちの店先で、あたしの手ぇばっかり見てるが、何か文句でもあるのかい」

魚売りの女に睨まれ、私は例によって頭を下げてから、鞄の底に残していた獣脂軟膏の小壺を差し出した。ドナン用に作った残りである。

「文句ではなく、商売の話です。その手の割れ、夜だけこれを塗って布を巻いてごらんなさい。よくなったら、銅貨2枚で買ってください。よくならなければ、お代は結構」

「……変な行商だね。まあ、貰えるもんは貰っとくよ」

――後日談を先に書いておくと、5日後、この女は銅貨2枚どころか、干し魚を3本つけて壺を買い直しに来る。そして翌日には、染物屋の親父と籠編みの婆さんを連れてくることになる。だが、この朝の私は、それをまだ知らない。

軟膏の残りは、これで底をついた。市場の隅の肉屋で、蝋燭にも回らないという屑脂(くずし)を一斤、銅貨1枚で分けてもらい、陶器の露店で親指ほどの小壺を三つ、銅貨1枚で買った。蜜蝋はドナンから買った分がまだ削り屑ほど残っている。今夜、宿の竈を借りて練り直せば、小壺3つ分にはなるだろう。


その後は、水虫の薬になる素材を探しながら、市場と商店を見て歩いた。

抗生物質もないこの世界で、どうやって水虫を抑えるか。江戸時代にタイムスリップした医者が、カビからペニシリンを作る物語があった。だが私にはそんな知識はないし、そもそもペニシリンでは水虫は死なない。あれは細菌の薬であって、カビの薬ではないのだ。

市場のそばで、ふらりと入った店は食料品店のようだった。店頭に並んだ籠には、ナッツらしきものや、見慣れないドライフルーツが詰まっている。棚には陶器が並び、店の奥には木樽が積まれていた。聞いてみると、陶器の中身は獣脂や蜂蜜、香辛料。木樽には葡萄酒やエールのほかに、麦酢が入っているという。

酢か……。

酢酸には抗真菌作用がある、ということになっている。前世でも、酢を塗っていたという水虫の患者はいた。だが、それだけで治った人を私は見たことがない。むしろ刺激でかぶれて、悪化させて外来に来る人のほうが多かった。酢だけでは駄目だ。この世界で薬として使って悪化させれば、信用を失う。信用を失えば、二度と皮膚科医として生きてはいけない。

以前、民間療法について調べていたとき、日本の薬草の抗真菌作用を検討した論文を読んだ覚えがある。確か、ヨモギやクコ、柿の葉のエキスを、酢酸で抽出していたはずだ。……結局、酢なのか。似た薬草を見つけたとしても、酢で抽出するなら、かぶれない濃度と使い方を考えなければならない。

前世では、いろいろな薬や治療法がすでに用意されていて、私はそれを選ぶだけだった。先人たちの偉業に甘えていたわけだ。ここではそうはいかない。これまでの知識を元に、この世界の治療法を自分で見つけていくしかない――しかしそれはなかなか楽しい経験ではないか。皮膚科医冥利に尽きるというものだ。


市場で、もう一つやったことがある。【皮膚透見】の性能試験だ。

スキルというからには、仕様と限界を把握しておく必要があった。人混みに紛れ、行き交う手や首筋に、念を込めて目を凝らす。検証の結果、分かったことは以下の通り。

一つ。発動には、対象の皮膚を直接見ていることが要る。服や布の上からは視えない。残念ながら(そして倫理的には幸いなことに)、透視能力ではないのだ。

二つ。距離はおよそ三歩以内。近いほど細かく視える。指を触れて視れば、毛細血管(もうさいけっかん)の血の流れまで追える。

三つ。倍率は、私が「見たい」と念じた深さに応じて変わる。表面の鱗屑(りんせつ)から、真皮の浅い層まで。ただし骨や腹の中までは視えない。あくまで「皮膚」の範囲である。

四つ。これが重要なのだが――長く使うと、ひどく疲れる。

それに気づいたのは、昼を回った頃だった。こめかみの奥が締め付けられるように痛み、目が霞み、石畳がぐらりと傾いた。露店の柱に掴まって、しばらく動けなかった。

どうにか木苺亭まで戻り、寝台に倒れ込む。そのまま午後いっぱい、私は使い物にならなかった。

「魔力切れだね、そりゃ」

夕方、水差しを持って様子を見に来たベルタは、私の顔を見るなり笑った。

「魔法ってのは、使えば減って、寝れば戻る。そういうもんさ。あんた、薬師のくせにそんなことも知らないのかい」

「……東の国では、魔法を使う薬師が珍しくて」

なるほど、この世界の理(ことわり)に組み込まれたスキルらしい。つまりこれは無尽蔵の検査機器ではなく、「一日に使える回数の決まった、携帯ダーモスコピー兼簡易生検」と考えるべきものだった。乱発はできない。まずは問診と視診、触診で絞り込み、ここぞという場面でだけ使う……結局、前世と同じだ。検査は、診察のあとに来る。

頭痛が引いた頃には、日が暮れていた。

「大丈夫かい」

夕食時、ベルタが心配して声をかけてくれた。

「ありがとうございます。なんとか飯を食べられるくらいには回復しました」

「気をつけるんだね、魔力切れは命に関わるよ」

「すいません……気をつけます」

体はまだ本調子とは言えない。食事をとったら、今日はもう休もう……

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