初めての街と皮膚科医の生きる道1
頬に当たる草の感触で目が覚めた。
体を起こすと、そこは見渡す限りの草原だった。少し先に土を踏み固めた街道が延び、遠くには青い山並みが見える。空は憎らしいほど晴れていて、2つ目の月らしき白い影が薄く浮かんでいた。
「……本当に、来たのか」
自分の体を見下ろす。見慣れた白衣ではなく、丈夫そうな麻のシャツに革のベスト、厚手のズボンに編み上げの靴。傍らには使い込まれた風合いの革鞄が置いてあった。
鞄を開けると、中には麻布の束、小刀、火打ち石、銀貨が5枚と銅貨が20枚ほど、それから――磨き上げられたレンズのはまった真鍮枠のルーペが1つ。
「餞別、というわけか」
あの顔のない神様は、案外芸が細かい。
ルーペを陽にかざしてから、ふと思い立って自分の手の甲に目を凝らし、念じてみた。
――視界が、変わった。
皮溝と皮丘がくっきりと浮かび上がり、さらに念じると、毛包の開口部、皮脂の粒、真皮の浅い層を走る毛細血管のループまでが、まるで高倍率のダーモスコピーを覗いているように見えた。
「【皮膚透見】……こいつは、すごいな」
思わず声が出た。前世でこれがあったら、より短時間で正しい診断を導けていただろう。
ひとしきり自分の手を眺めて満足してから、私は街道に出た。これまでの常識が通じるのであれば、太陽の位置からして、まだ午前中だろう。どちらへ向かうべきか思案していると、遠くから車輪の音が近づいてきた。
二頭立ての幌馬車だった。御者台に座っているのは、日に焼けた顔に立派な髭を蓄えた中年の男。馬車は私の少し手前で速度を落とし、男が声をかけてきた。
「旅の人かい。こんな街道の真ん中で、連れもなしとは物騒だな」
「お恥ずかしい話、連れとはぐれまして。この先に町はありますか」
「アルメリアの宿場町までなら半日だ。乗っていくかい?荷の隙間でよけりゃあな」
渡りに船とはこのことだった。私は礼を言って荷台に乗せてもらった。
男は行商人でドナンと名乗った。塩と布と雑貨を積んで、王都と辺境の町々を行き来しているという。私は「サエグサ・ハルト」と名乗り、東の遠い国から来た薬師の類いだ、ということにした。医者と名乗らなかったのは、この世界での「医者」が何を指すのか、まだ分からなかったからだ。
「ハルトさんか。変わった名だが、東の国なら納得だ」
ドナンは気のいい男で、道中、聞いてもいないことまでよく喋ってくれた。おかげで貴重な情報が山ほど手に入った。
この国はラウス王国ということ。アルメリアは迷宮への中継地として栄える宿場町で、冒険者ギルドの支部があること。銅貨100枚で銀貨1枚、銀貨100枚で金貨1枚。素泊まりなら銅貨15枚、パンと麦粥の食事が銅貨3枚。
そして、病気や怪我の話になったとき、ドナンはこう言った。
「怪我なら教会だな。聖光教会の治癒師さまが、祈りで傷を塞いでくれる。まあ、寄進がべらぼうに高いがね。骨折を治してもらったら銀貨30枚取られたって奴を知ってるよ」
「病気の場合は?」
「熱病なら薬草屋の煎じ薬か、あとはまあ、寝て祈るこった」
「では――皮膚の病は?湿疹や、吹き出物、水虫のような」
ドナンは一瞬きょとんとして、それから声を落とした。
「あんた、東の国の人だから知らんのだろうが、そういう類いはな、口に出さんほうがいい。ありゃあ病気じゃなくて『業』だ。前世の罪や、呪いが皮に出たもんだと教会は言ってる。治癒師さまも、ああいうのには手をかざしちゃくれんよ」
「……祈りでも治らないから、ですか」
「おっと、それ以上は言いっこなしだ」
ドナンは苦笑いして肩をすくめたが、その仕草が答えだった。
なるほど、と私は思った。治癒魔法は外傷には効く。切って縫うような傷、つまり「治る道筋の見えている傷」を早送りするようなものなのだろう。だが慢性の湿疹や感染症のように、原因が取り除かれない限り続く病には効かない。効かないものを「治せない」と認めるわけにはいかないから、「あれは病ではなく業だ」ということにした――。
どこの世界でも、人間のやることは変わらない。
「そういや、あんた薬師なんだろ」
ドナンが御者台から振り向いて、手綱を片手に右手を突き出してきた。
「この手をどうにかできる薬はないかね。一年中こうでな。手綱を握るたびピリピリ痛むし、ひどいときは血が滲む。女房には汚い手だと言われるし、塩を扱う商売なんだが、傷に塩が入った日にゃあ、涙が出るぜ」
差し出された手を取って、よく見た。両手のひらから指先にかけての角化と鱗屑。指紋は一部消えかけ、指先には深い亀裂が数本。念のため【皮膚透見】で確かめる。鱗屑の様子、亀裂の走り方――白癬の菌糸らしきものは見えない。長年の摩擦と刺激による、典型的な進行性指掌角皮症、いわゆる慢性の手湿疹だ。
「ドナンさん、水仕事をしたり、塩を素手で扱うことは多いですか」
「そりゃあもう、毎日よ」
「これは呪いでも業でもなく、手の使いすぎです。皮膚の表面には、水気と脂で作られた目に見えない膜がある。塩や水や手綱の摩擦で、その膜が削られ続けると、皮が乾いて硬くなり、曲げ伸ばしのたびに裂けるんです」
「へえ……あんた、見ただけでそこまで」
「治すには、まず膜が削られるのを防ぎ、補うこと。何か保湿剤の代わりになるものがあるとよいのだが......」
「保湿剤ってのは、なんだい」
「油の膏薬です。……ドナンさん、その荷、塩と布のほかには何を積んでいますか」
「雑貨だな。針、糸、火打ち石、蝋燭。あとは蝋だ」
「蝋?」
「蜜蝋よ。封蝋に使う分と、蝋引き用のがひと箱。布に引きゃあ雨を弾くからな、外套や幌の修繕に売れる」ドナンは肩越しに荷を顎で示した。「ただし言っとくが、あれは高えぞ。同じ目方の獣脂の10倍はする。教会の蝋燭に化ける代物だ」
「蜜蝋、蜜蝋、ミツロウ......」
そうか、思い出した。ミツロウは単軟膏の素材じゃなかったか。正確な組成は覚えていないが、ミツロウにダイズ油をまぜたものが単軟膏だ。ちょっと話がうますぎる気もするが、これもあの神様のお導きということにしておこう。
「油もありますか?」
「獣脂なら蝋燭の材料にもなるから扱ってるよ。南方だと植物から油をとったりもするみたいだが、この辺ではほとんどみかけねえな」
南方には植物油もあるのか。覚えておいたほうがいいな。獣脂は手近だが、ニオイもクセもある、いずれ植物油も必要になるだろう。
「では、蜜蝋を、親指ほど2つ。それと獣脂を、握りこぶし1つ分。銅貨でお分けいただけませんか」
「そりゃ構わんが……蜜蝋2つで銅貨4、獣脂は……まあ銅貨1でいい。締めて銅貨5枚だ。あんた、それを何にする気だ」
銅貨5枚。この世界での全財産が銀貨5枚と銅貨20枚の身には、決して軽い出費ではない。これからどれだけ稼げるかもわからない。素泊まりの宿代が銅貨15と聞いたばかりだ。
それでも、私は迷わなかった。
「あなたの手に塗る薬を作ります」
「……俺の手に?銅貨5枚も使ってか?」
「ええ。こちらでも薬師としてやっていけるのか試してみたいので」
私は鞄から小刀を出し、街道脇に馬車を停めてもらった。蜜蝋を薄く削り、借りた鍋で湯煎にかけて溶かし、溶けたところへ獣脂を少しずつ落として練り合わせる。配合は迷ったが、獣脂は植物油と違って固形だから、獣脂を多めにしても大丈夫だろう。蜜蝋は貴重品だからな。獣脂9に対して、蜜蝋1。
指先で温度と硬さを確かめながら、鍋を火から下ろす。冷めて黄色く濁ったそれは――ダイズ油を使っていない以上、単軟膏と呼ぶのは憚られる。獣脂軟膏とでも呼んでおくか。前世では、単軟膏という名前を知っていても、処方することはなかった。ヘパリン類似物質やワセリンには遠く及ばないが、皮膚の保護剤としては十分だろう。
「これを朝と夜、そして、塩を触った後は水でよく流してから、亀裂に擦り込むように塗ってください。塩袋を扱うときは、麻布を手に巻いて、直接触れないように。それと夜は、厚めに塗った上から布を巻いて寝る」
「そんなことで治るのかい」
「時間はかかりますが、2週間も塗り続ければ、痛みは半分くらいにはなるはずです」
ドナンは半信半疑の顔で軟膏の小壺を受け取ったが、その日の夕方、アルメリアの町の門が見えてきた頃には、しきりに手を開いたり閉じたりしていた。
「……なんだか、もう突っ張りが楽な気がするぜ」
「それは気のせいです。さすがに効いてくるにはもうちょっとかかります」
「はっはっは、正直な薬師だ!」
ドナンは上機嫌で笑い、馬車代を受け取らないばかりか、銅貨を10枚も握らせてきた。
「こんなにいただけないですよ。急いで作った薬で、どれくらい効くのかもまだわからないんですから」
「いいんだよ。効いても効かなくても。こんな俺の手を気にかけてくれて、薬を作ろうと思ってくれたその気持ちが嬉しいんだ」
「わかりました。そう言っていただけるのであれば、ありがたく頂戴します」
記念すべき、この世界で初めて得た診療報酬だった。




