プロローグ
目覚めるとあたり一面が夕焼けに照らされているかのように真っ赤だった。暑さは感じない。ここはどこだ......自分の寝室や書斎ではないようだ。私は何をしていたのだったか。意識がはっきりしない中、考えていると、頭の中に響くように声が聞こえてきた。
「目が覚めたようだな。自分が何者か、わかるか?」
あたりをキョロキョロを見回すと、目の前にうっすらとモヤがかかり、徐々に人の形が現れてきた。
「誰だ!」
「私はこの赤の世界を司るものだ。名はない。呼びたければ好きに呼ぶがいい」
モヤの中の人影は、輪郭こそ人の形をしているものの、顔にあたる部分には何もなかった。目も、鼻も、口もない。それなのに、声だけははっきりと、頭の中に直接響いてくる。
「ここは……どこなんだ」
「世界と世界の狭間。終わった魂が次の場所へ渡るまでの、いわば中継地点だ」
「終わった……魂?」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。いや、本当は一瞬で理解していたのかもしれない。理解したくなかっただけだ。
「思い出せるか。お前の最後の記憶を」
言われて、私は記憶をたどった。
――当直明けの医局。窓の外は明るくなり始めていた。机の上には書きかけの学会抄録と、査読を頼まれた論文と、冷めきったコーヒー。お湯を沸かし、コーヒーをドリップで淹れ直し、一気に飲み干した。そして、外来予約が50人を超えていたのを思い出し、早めにカルテをチェックしようと、医局を出て階段を駆け下りて――
「……そうか。私は、死んだのか」
「そうだ。享年44歳。階段からの転落死。履いていた樹脂製サンダルのつま先が床に引っかかり転げ落ちたのだ。打ちどころが悪かった。発見が早ければ助かったかもしれんが、明け方では階段を通るものはいなかった」
淡々と告げられる自分の死に、不思議と取り乱すことはなかった。ただ、じわりと胸に広がったのは、恐怖ではなく後悔だった。
今日の外来の患者さんはどうなる。あの薬疹の患者、ステロイドの減量はまだ途中だ。生検の結果説明も3人残っている。研修医が書いたサマリーの確認も――
「死んでなお診療の心配か。おかしな魂だな、お前は」
声に、初めてわずかな感情のようなものが混じった。面白がっている、そんな響きだった。
「お前のように未練の強い魂、縁の深い魂は、消えるには惜しい。ゆえに私は、そうした魂を次の世界へ送る役目を負っている」
「次の……世界?」
「お前たちの言葉で言えば『異世界』というやつだ。剣と魔法の世界。竜が空を飛び、迷宮が口を開け、勇者が魔王と戦う――お前も物語の1つや2つ、読んだことがあるだろう」
あるにはある。若い連中が医局でそういう小説やアニメの話をしていたのを、横で聞いていた程度だが。確か、トラックに轢かれて異世界に転生して、チートな能力をもらって無双する、というのがお約束だったはずだ。
そうか...しかし、まさか自分が当事者になるとは。
「送り出すにあたり、魂には『役割』を与えることになっている。その世界で生きるための力、と言い換えてもいい」
赤い空間に、光の文字のようなものが次々と浮かび上がった。
【勇者】【賢者】【大魔導士】【剣聖】【竜騎士】【聖女】【錬金術師】――。
「本来は魂の性質に応じて割り振るのだが、お前は特別だ。20年、1つのことに打ち込み続けた魂は珍しい。ゆえに――お前に自由な役割を与えよう。望みを言ってみよ」
自由な役割。
私は浮かんでいる文字を順に眺めた。勇者。賢者。剣聖。どれも、まるでピンとこなかった。
剣道部だったから竹刀は振っていたが、実際に人やモンスターを切れるとは思えない。魔法と言われても、イメージできるのは液体窒素の白い煙くらいのものだ。
考えているうちに、ふと、最後の外来の光景が浮かんだ。
30年掻き続けた痒疹が初めて治まって、「先生、昨夜は朝まで眠れました」と泣いた老人。掌蹠膿疱症で仕事を辞めかけていた調理師が、寛解して職場に戻れた日の顔。円形脱毛症の女子高生が、帽子を取って笑えるようになった卒業式の報告。
派手なことは何一つない。命に関わる場面だって、他科に比べれば多くはない。「皮膚科なんて楽でいいよな」と言われたことも一度や二度ではない。
思えば、皮膚科を選んだきっかけも、派手なものではなかった。
学生時代、実習で回った皮膚科の外来で、退官間近の教授が、乾癬の患者の腕に素手でじかに触れて診察するのを見た。鱗屑のついた紅斑を、まるで上等な織物でも扱うように、両手でゆっくりと撫でるように確かめていた。
患者が帰ったあと、学生の誰かが尋ねた。手袋をしなくていいんですか、と。
教授は言った。「うつらない病気だと、儂が誰より知っとる。知っとる人間が触らんで、誰が触る。……ええか、皮膚科医の診察は、診断であると同時に、証明なんや。あんたの皮膚は、触れられる皮膚やという証明や」
その言葉が、20年経っても抜けなかった。結局、私はそのまま皮膚科医になり、教授の言葉を、今度は自分の研修医たちに伝える側になった。
それでも。
皮膚は、人がまとう一番外側の膜だ。人と世界の境界だ。そこが破綻すれば、人は眠れず、働けず、人前に出られなくなる。私はその境界を守る仕事を、44年の人生のうち20年、続けてきた。
それ以外の自分など、想像もつかなかった。
「……1つ、聞きたい」
「なんだ」
「その世界に、皮膚科医はいるのか」
沈黙があった。顔のないはずの人影が、まじまじとこちらを見た――ような気がした。
「……治癒魔法の使い手ならばいる。切り傷や骨折を癒す者たちだ。だが、お前の言う『皮膚科医』は、いない。皮膚の病は病とすら思われておらん。呪いや業の類いとして、祓われるか、放置されるかだ」
呪い...業...
その言葉に、胸の奥がざらりとした。前の世界でも、ハンセン病の患者たちが辿った歴史を思えば、他人事ではない。乾癬の患者が温泉で心ない言葉を浴びせられた話を、外来で何度聞いたことか。うつらないと、何度説明してきたことか。
医学が数百年かけて乗り越えてきた偏見が、その世界ではまだ手つかずで残っている。そして、痒みも、痛みも、人目を避けて生きる苦しさも、世界が違っても変わりはしないだろう。
決まりだ。
「なら、望みを言う。――皮膚科医のままで行かせてくれ」
再び、沈黙。
そして次の瞬間、赤い世界全体が揺れるような笑い声が響いた。
「はっ、はははは!勇者でも賢者でもなく、皮膚科医と来たか!何千の魂を送り出してきたが、そんな望みは初めて聞いたぞ!」
「おかしいか」
「おかしい。実におかしい。……だが、嫌いではない」
人影がすっと手をかざすと、浮かんでいた光の文字が全て消え、代わりに新しい文字が1つ、目の前に灯った。
【皮膚科医】
「よかろう。お前の役割は【皮膚科医】だ。前世の記憶と知識は全て持っていくがいい。あちらの言葉は聞くも話すも読むも、自然にできるようにしておく」
「ありがたい」
「それと、餞別だ。スキルを1つくれてやろう。――【皮膚透見】。念じて見つめれば、皮膚を拡大して視ることができる。表面の細かな構造も、皮の内側のありようも、お前の知識の範囲だがな」
ダーモスコピーと生検を足したような能力、ということか。それは正直、喉から手が出るほどありがたい。あちらに顕微鏡はないだろうから。
「行き先を見せてやろう」
人影が指を鳴らすと、赤いモヤが渦を巻き、その中に映像が浮かんだ。
緑の平原を貫く街道。石壁に囲まれた王都の偉容。山肌に口を開けた巨大な洞窟に、松明を掲げて入っていく武装した男女。空を横切る、翼を広げた竜らしき影。
そして映像は、市井の暮らしへ寄っていった。畑を耕す農夫の、日に灼けてひび割れた首筋。川で洗濯をする女たちの、白くふやけてささくれた手。鎧の下をしきりに掻く兵士。顔を布で隠して、市場の隅を俯いて歩く誰か。
「……なるほど。患者だらけだ」
「そう見えるか。勇者志望の魂に同じものを見せると、竜と迷宮しか目に入らんと言うがな」
「職業病かな」
「ふっ……ああ、言い忘れていた。あちらの世界には魔力というものが満ちている。ゆえに人も獣も、お前の故郷より頑丈で、傷の治りも早い。だが、それに甘えて、洗うことも清めることも軽んじられておる。頑丈さの陰で、防げるはずの病が野放しだ。お前の商売敵は、病そのものより、むしろ『皮膚の病は治らぬもの』というあちらの常識のほうかもしれんぞ」
「望むところだ。常識と戦うのは、前世と同じだ」
水虫は治る病気です、と何千回言ったことか。ステロイドは正しく使えば怖くない、と何万回説明したことか。あの説明の日々に比べれば、異世界の常識が相手でも、そう変わるまい。
「言っておくが、治癒魔法はやらんぞ」
「いらん」
即答すると、人影はまた愉快そうに揺れた。
「即答か。理由を聞こうか」
「手をかざせば病が消えるなら、それは私の仕事ではない。診て、考えて、原因を突き止めて、手持ちの武器で治す。それが私のやってきたことだ。武器は向こうで調達する」
「……いい目だな、亡者のくせに」
人影は愉快そうに揺れ、それから、ふと声の調子を落とした。
「1つ、聞いておこう。心残りは、ないのか。あちらの世界に」
心残り。
私は自分の44年を目をつぶり振り返った。両親はすでに見送った。結婚はしなかった――できなかった、というほうが正確か。医局と外来と当直の合間に、そういう季節は通り過ぎていた。友人と呼べるのは大学の同期が数人。あとは。
「……患者のことだけだ。引き継ぎもせずに消えた。術後の入院患者もいるし、治療の効果がまだ十分に出ていない患者もいた。外来の予約は3ヶ月先まで埋まっている。あの人たちは今頃、事情も分からず、院内で待ちぼうけだ」
「案ずるな。お前の世界には、お前の同僚が大勢おる。皮膚科医は、お前1人ではあるまい」
「……それも、そうか」
妙な話だが、その一言で、すとんと肩の荷が降りた。そうだ。あちらには、同期がいる。後輩がいる。私が仕込んだ研修医たちがいる。彼らは優秀だ。私の患者たちは、ちゃんと引き継がれる。医療とは元来、そういうふうにできている。1人の医者が消えても途切れないように、知識を共有し、人を育て、線ではなく網で患者を支えるのだ。
「だが行き先の世界には、まだ網がない。……そういうことだな」
「そういうことだ。せいぜい、網の最初の結び目になるがいい」
人影の向こうで、赤い世界に亀裂のような白い光が走った。光は徐々に広がり、扉のような形になっていく。
「行け、皮膚科医。お前の腕が、あちらでどこまで通用するか――見せてもらうとしよう」
白い光が視界を包む。
落下とも浮遊とも言えない感覚の中で、私は律儀に頭を下げた。
「ありがとう、行ってくる」
それが、私――皮膚科医・三枝晴人の、二度目の人生の始まりだった。




