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元カレ御曹司に愛人扱いされた夜、冷徹副社長に契約結婚を申し込まれました 〜一年だけの妻のはずが、本気で溺愛されています〜  作者: ちょこまろ


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9/10

第9話 会社の契約社員だと思っていた彼女は、一条副社長の第一秘書でした

白いままの離婚届を持ち、花音は一条グループ本社へ向かいます。


離れたいわけではない。

契約を終わらせたいだけで、夫婦まで終わらせたいわけではない。


今度こそ、怖さを理由に逃げず、自分の本当の気持ちを怜士へ伝えるために。


しかし本社で花音を迎えたのは、勤務先の契約社員だったはずの桐谷沙耶でした。


「改めまして。一条グループ副社長室、第一秘書の桐谷沙耶でございます」


これまで見えなかった怜士の深い想いと、沙耶の本当の役目が明らかになります。

 怜士の会社へ向かう途中、花音の胸はずっと鳴り続けていた。


 一条グループ本社。


 受付で名前を告げると、担当者が丁寧に頭を下げた。


「副社長は会議中ですが、まもなく終わります。少々お待ちください」


「はい」


 花音は緊張しながらロビーで待った。


 高い天井。

 磨かれた床。

 行き交う社員たち。


 ここが怜士のいる世界なのだと思うと、急に遠く感じた。


 だが、しばらくして現れた人物を見て、花音は息を呑んだ。


「桐谷さん……?」


 そこにいたのは、花音の会社の契約社員だったはずの桐谷沙耶だった。


 ただし、いつもの柔らかなオフィスカジュアルではない。

 隙のないスーツ姿。

 胸元には、一条グループの社員証。


 沙耶は静かに頭を下げた。


「花音様。これまで黙っておりましたこと、お詫び申し上げます」


「どういうことですか」


「改めまして。一条グループ副社長室、第一秘書の桐谷沙耶でございます」


 花音は言葉を失った。


「じゃあ、私の会社にいたのは……」


「花音様の勤務先で相沢様が接触する可能性が高いと判断し、副社長からの指示で、短期契約社員として入らせていただいておりました」


「副社長からの指示……」


 胸がざわめく。


「監視、ですか?」


 沙耶は首を振った。


「いいえ。副社長は、花音様の仕事を奪うことも、職場を変えさせることも望まれませんでした」


 沙耶の声は、いつも通り落ち着いていた。


「ただ、花音様がこれまで通り働けるように、危険だけを遠ざけたいと」


 花音は、怜士の言葉を思い出した。


 あなたの世界を狭めるためではなく、あなたの世界を守るためです。


「副社長は、何度もおっしゃっていました」


 沙耶は続けた。


「花音様が怯えて退職するようなことがあってはならない。彼女の毎日を壊さずに守ってほしい。彼女が気づかないくらい自然に、逃げ道だけ用意しておいてくれ、と」


 花音の目に涙が滲んだ。


 あの人は、ずっと自分の日常を守ってくれていた。


 強引に連れ去るのではなく。

 自分の世界へ閉じ込めるのではなく。

 花音が花音のまま働けるように、見えないところで支えてくれていた。


 怜士は、花音を自分の家に閉じ込めなかった。

 花音の仕事も、職場も、積み上げてきた毎日も、壊さずに守ろうとしてくれた。


 その不器用な優しさが、たまらなく愛おしかった。


「怒っていらっしゃいますか」


 沙耶が尋ねる。


 花音は首を振った。


「驚いています」


「はい」


「でも……余計に、怜士さんに会いたくなりました」


 沙耶の表情が、ほんの少し柔らかくなった。


「副社長も、お待ちです」


 応接室に通されると、窓の外には都心の景色が広がっていた。


 花音はバッグの中の離婚届に触れた。


 持ってきた。

 でも、署名はしていない。


 これをどうするか、今日決める。


 廊下から声が聞こえた。


「副社長、本当にその条件でよろしいのですか」


「はい」


「奥様との契約の件ですが」


 花音は体を強張らせた。


 怜士の声が聞こえる。


「花音さんの意思を尊重します。それ以上の話はありません」


「しかし、副社長ご自身は」


「私の感情は、彼女の自由を縛る理由にはなりません」


 胸が痛んだ。


 関係ないわけがない。

 怜士にも感情がある。

 苦しいはずなのに、彼は自分を押し殺している。


 ドアが開いた。


 怜士が入ってくる。


 花音を見た瞬間、彼の表情がわずかに変わった。


「花音さん」


「急に来てごめんなさい」


「いえ。何かありましたか」


 いつも通り、まず心配してくれる。


 その優しさに、涙が出そうになった。


「話がしたいです」


「わかりました」


 怜士は沙耶に目配せし、二人きりになった。


 ドアが閉まる。


 花音はバッグから封筒を取り出した。


「離婚届です」


「……はい」


「まだ、書いていません」


 怜士が顔を上げる。


 花音は封筒を握りしめた。


「私、嘘をつきました」


「嘘?」


「自分の足で立ちたいから、契約通りにしたほうがいいって言いました。でも本当は、怖かっただけです」


 声が震える。

 でも、止めなかった。


「怜士さんの優しさを信じて、もし違ったらどうしようって。いつか重荷になったらどうしようって。好きだって言って、困らせたらどうしようって」


 怜士は動かなかった。


 ただ、花音を見ていた。


「私、怜士さんが好きです」


 言えた。


 ずっと胸の中で育っていた言葉。

 くちなしの花みたいに、静かに咲いていた気持ち。


「契約だから好きになってはいけないと思いました。一年後に離婚するから、期待してはいけないと思いました。でも、もう無理です」


 涙が落ちた。


「朝、一緒にご飯を食べたいです。夜、おかえりなさいって言いたいです。温室の花を一緒に育てたいです。何でもない日を、怜士さんの隣で過ごしたい」


 怜士の表情が、少しずつ崩れていく。


 冷徹な副社長の顔ではなかった。

 一人の男性の顔だった。


「離婚したくありません」


 花音は、はっきりと言った。


「契約を終わらせたいです。でも、夫婦を終わらせたくありません」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 不安になった花音が名前を呼ぼうとした瞬間、怜士が一歩近づいた。


「触れてもいいですか」


 声が、かすれていた。


 花音は泣きながら頷いた。


「はい」


 次の瞬間、抱きしめられていた。


 強く。

 でも痛くないように。

 逃げ道を残しながら、それでも二度と離したくないみたいに。


 花音は怜士の胸に顔を埋めた。


 彼の心臓が速く鳴っている。


 怜士も同じだった。

 平気なふりをしていただけで、苦しかったのだ。


「私、怜士さんを傷つけました」


「傷ついても、あなたを責める気はありませんでした」


「でも」


「花音さん」


 怜士は腕の力を少し緩め、花音を見つめた。


「契約は終わりにしましょう」


 花音の胸が震える。


「はい」


「ですが、夫婦は終わらせたくありません」


「はい」


 怜士は少しだけ息を吸った。


 そして、初めて少し幼いような、素の声で言った。


「僕は、あなたを一生大切にしたい」


 僕。


 その一人称に、花音の胸がぎゅっと締めつけられた。


 いつも冷静に「私」と言う怜士の鎧が、今だけ外れた気がした。


「あなたが笑う朝も、泣く夜も、迷う日も、怒る日も、全部隣にいたい」


「怜士さん」


「あなたの未来を、僕に守らせてほしい。ただし、閉じ込めるためではなく、あなたが自由に歩くために」


 花音は泣きながら笑った。


「怜士さんらしいです」


「不満ですか」


「いいえ」


 花音は首を振る。


「すごく、嬉しいです」


 怜士は花音の左手に触れた。


 薬指には、あの日の指輪がある。


「この指輪を、契約の証ではなく、本当の夫婦の証にしてもいいですか」


「はい」


 花音は自分から怜士の手を握った。


「私も、怜士さんの隣にいたいです」


 テーブルの上には、離婚届の封筒が置かれている。


 花音はそれを手に取った。


「これ、どうしましょう」


 怜士は少し考えた。


「処分しましょう」


「記念に取っておくのは?」


「縁起が悪いです」


「たしかに」


 二人で小さく笑った。


 花音は封筒を破った。


 紙が裂ける音が、やけに清々しく響いた。


 一年限定の契約は、ここで終わった。


 けれど、二人の夫婦としての時間は、ここから始まる。

第9話をお読みいただき、ありがとうございます。


契約社員として花音の職場に現れた桐谷沙耶。


その正体は、一条グループ副社長室の第一秘書でした。


怜士が沙耶を花音のそばへ置いたのは、監視するためでも、自分の支配下へ置くためでもありません。


花音の仕事や日常を奪うことなく、彼女がこれまでどおり働けるように、見えない場所から守るためでした。


そして花音は、ついに自分の本当の気持ちを怜士へ伝えます。


「私、怜士さんが好きです」

「契約を終わらせたいです。でも、夫婦を終わらせたくありません」


怜士もまた、冷徹な副社長の鎧を脱ぎ、一人の男性として想いを告げました。


「僕は、あなたを一生大切にしたい」


一年だけの契約は、これで終わりです。


二人は離婚届を破り、契約のためにはめた指輪を、本当の夫婦の証へと変えました。


けれど、物語はまだ終わりません。


次回、最終話。


契約に守られた妻ではなく、自分の意思で怜士の隣を選んだ花音。


今度は本当の夫婦として、二人の新しい日常が始まります。

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