第8話 一年後に離婚する約束
契約結婚の終了まで、一ヶ月を切りました。
仕事も、実家の会社も、少しずつ自分の足で前へ進み始めた花音。
だからこそ彼女は、怜士の優しさにこれ以上甘えてはいけないと思ってしまいます。
本当は、離れたくない。
本当は、ずっと隣にいたい。
それでも花音は、一年前の約束どおり、怜士に契約の終了を切り出します。
愛しているからこそ手放そうとする、すれ違いの第8話です。
契約終了まで、一ヶ月を切った。
花音は仕事で新しい企画を任されるようになっていた。
地方の職人と作る、暮らしに小さな花を添える雑貨シリーズ。
くちなしの花をきっかけに生まれた企画だった。
以前なら、すべて一人で抱え込んだ。
でも今は違う。
同僚の真衣に相談し、後輩に任せ、上司に意見を言う。
怖くても、自分の声を出すことを覚えた。
実家の会社も、少しずつ立て直しが進んでいた。
一条建設との取引は、父の会社にとって大きな支えになった。
ただし、怜士は甘やかさなかった。
経営管理の見直し。
価格交渉の透明化。
相沢商事への依存からの脱却。
職人への適正な支払い。
高瀬美緒は、相変わらず厳しかった。
「この見積書、ようやくまともになってきました」
父がほっとすると、高瀬は続けた。
「ただし、まだ甘いです」
父は苦笑しながらも、以前より背筋を伸ばしていた。
母からは、時々短いメッセージが来た。
『寒くなってきたから、体に気をつけて』
『お父さん、最近は会社の数字を自分で見直しています』
『あなたに言っていいのかわからないけれど、ありがとう』
花音は、すぐには元通りになれなかった。
けれど、少しずつ距離を取り直している。
全部、怜士がきっかけをくれた。
だからこそ、花音は思った。
これ以上、甘えていいのだろうか。
怜士は、花音を守ってくれた。
実家も救ってくれた。
過去からも、拓真からも、母の言葉からも。
それなのに、自分まで彼の未来を求めていいのだろうか。
契約書を見返す。
一年後、花音の意思により離婚可能。
最初は、その一文が救いだった。
逃げ道があるから、ここにいられた。
でも今は、その一文が胸を裂く。
怜士は約束を守る人だ。
花音が離婚したいと言えば、必ず離婚する。
たとえ、本心では苦しくても。
花音はペンを持った。
離婚届は、怜士の秘書が形式上用意していた。
まだ何も書かれていない。
名前を書けば、終われる。
怜士を自由にできる。
なのに、手が動かない。
その夜、怜士が帰宅したのは遅かった。
花音はリビングで待っていた。
「まだ起きていたんですか」
「少し、話したくて」
怜士の表情が、わずかに強張った。
契約期限の話だと、彼もわかったのだろう。
二人はソファに向かい合って座った。
「もうすぐ、一年ですね」
「はい」
「契約の期限です」
「……はい」
花音は膝の上で手を握りしめた。
「私、考えました」
「はい」
「怜士さんには、本当にたくさん助けてもらいました。私も、少しは自分の足で立てるようになったと思います」
「そうですね」
「だから」
言いたくない。
でも、言わなければと思った。
「契約通りにしたほうがいいのかなって」
部屋の空気が止まった。
怜士は、しばらく何も言わなかった。
表情は静かだった。
けれど、手元の指が強く握られていることに、花音は気づいてしまった。
「あなたが望むなら」
怜士は低く言った。
「私は約束を守ります」
予想していた言葉だった。
それなのに、胸が痛くて息ができなかった。
止めてほしかったのだろうか。
離したくないと言ってほしかったのだろうか。
自分から離れるようなことを言っておいて、勝手すぎる。
「ありがとうございます」
花音は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
怜士は立ち上がった。
「手続きは、私が進めます」
「怜士さん」
「今日は、もう休んでください」
声は優しかった。
でも、遠かった。
怜士がリビングを出ていく。
花音は追いかけられなかった。
一人になった瞬間、涙が落ちた。
「違うの」
本当は違う。
離婚したいわけじゃない。
離れたいわけじゃない。
ただ、愛されていると信じるのが怖いだけ。
翌日から、怜士はこれまで以上に優しかった。
朝食は変わらず用意されている。
メッセージも来る。
仕事で遅くなれば迎えに来てくれる。
けれど、触れなくなった。
以前なら自然に差し出された手が、今はポケットの中にある。
花音の意思を尊重しているのだとわかった。
それが、苦しかった。
離婚届が届いたのは、契約終了の一週間前だった。
封筒の中の紙を見た瞬間、花音の視界が滲んだ。
自分で言った。
怜士は約束を守ってくれただけ。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
花音はペンを取った。
椎名花音に戻る。
一条花音ではなくなる。
ただそれだけのことなのに、心が拒んでいた。
視線の先で、くちなしが咲いていた。
一年前、蕾だった花。
怜士と一緒に育てた花。
花音はペンを置いた。
「私、何してるんだろう」
花が咲く時期は、花が決める。
でも、咲いた花を自分で摘もうとしているのは、花音自身だった。
その朝、澄江が静かに言った。
「花音さん。大切なことは、怖くても言葉にしませんと」
「澄江さん」
「あの方は、待つことには慣れています。でも、傷つかないわけではありません」
花音は息を呑んだ。
「怜士さん、傷ついていますか」
「花音さんを責めるお気持ちは、少しもないと思います」
澄江は優しく微笑んだ。
「けれど、大切な人を手放す準備をするのは、誰でも苦しいものです」
胸が締めつけられた。
怜士は、花音を自由にするために手を離そうとしている。
自分がどれだけ苦しくても。
もう、逃げたくなかった。
花音は立ち上がった。
「怜士さんに会いに行きます」
離婚届は、まだ白いままだった。
第8話をお読みいただき、ありがとうございます。
花音が「契約どおりにしたほうがいい」と告げると、怜士は引き止めませんでした。
「あなたが望むなら、私は約束を守ります」
花音の意思を何よりも尊重してきた怜士だからこそ、たとえ自分が傷ついても、彼女を自由にしようとします。
けれど花音が本当に望んでいるのは、離婚ではありません。
愛されていると信じることが怖くて、傷つく前に自分から手放そうとしているだけでした。
怜士は変わらず優しい。
しかし、以前のように花音へ触れなくなりました。
そして届いた、白い離婚届。
名前を書けば、契約は終わる。
一条花音ではなくなり、二人は他人へ戻る。
それでも花音の手は動きませんでした。
「大切なことは、怖くても言葉にしませんと」
澄江の言葉に背中を押され、花音はようやく、自分の本当の気持ちから逃げないと決めます。
離婚届は、まだ白いまま。
次話、花音は怜士に想いを伝えるため、一条グループ本社へ向かいます。
そこで待っていたのは、契約社員だと思っていた桐谷沙耶の、本当の姿でした。




