第6話 御曹司の看板を振りかざした元カレは、自分の言葉で崩れました
椎名内装資材が相沢商事への依存から抜け出し、一条建設との正当な取引へ歩み始めました。
自分が支配していたはずの花音と実家の会社を失い、怒りを募らせる元カレ御曹司・拓真。
「俺は相沢商事の御曹司だぞ」
最後まで家の看板を振りかざす彼の前に、怜士が現れます。
他人を踏みにじった言葉は、すべて自分へ返ってくる。
拓真がその代償を支払う、決着の第6話です。
椎名内装資材が一条建設の案件を受けると知った拓真は、当然のように怒った。
彼は、再び花音の会社へ現れた。
今度は受付ではなく、ビルの前で待ち伏せしていた。
「花音」
名前を呼ばれ、花音は足を止めた。
隣には沙耶がいた。
拓真は、前回のことで沙耶がただの契約社員ではないと悟っているはずなのに、まだ苛立ちを隠そうともしなかった。
「一条に尻尾を振ったのかよ」
拓真は吐き捨てるように言った。
「椎名の会社は、うちが仕事を出してやってたから生きてこられたんだぞ」
花音は、静かに息を吸った。
怖い。
でも、もう逃げたくない。
「違う」
「何?」
「父の会社は、あなたの家に生かされていたんじゃない。安く使い潰されていただけ」
拓真の顔が歪んだ。
「調子に乗るなよ。俺は相沢商事の御曹司だぞ」
「だから?」
花音は言った。
「その名前を使って、私に愛人になれと言ったの?」
拓真が一瞬黙る。
「大げさなんだよ。あれは」
「冗談?」
沙耶が淡々と口を挟んだ。
「冗談で、取引先関係者のご家族に愛人関係を迫り、さらに私にも同様のお誘いをなさったというご説明でよろしいでしょうか」
「黙れよ、秘書気取りが」
その瞬間、背後から低い声がした。
「桐谷への侮辱は、私への侮辱として受け取ります」
怜士だった。
黒いスーツ姿で、静かに近づいてくる。
拓真の顔色が変わった。
「一条……」
怜士は花音の隣に立った。
「相沢氏。あなたが花音さんに迫ったのは、恋愛ではありません」
声は穏やかだった。
けれど、氷のように冷たかった。
「取引先への圧力です」
「違う」
「あなたは相沢商事の名を使い、女性と取引先を脅した。その時点で、御曹司を名乗る資格を失っています」
拓真は歯を食いしばる。
「一条の方が格上だからって、偉そうに」
「格の問題ではありません」
怜士は一歩も引かなかった。
「家の名は、他人を従わせるための道具ではありません。看板を背負う者ほど、自分の言葉に責任を持つべきです」
拓真は言い返せなかった。
後日、相沢商事では大きな問題になった。
沙耶が確認した発言記録。
花音へのメッセージ。
椎名内装資材への不当な発注単価。
追加作業分の未払い。
拓真が私情で取引を動かそうとした記録。
それらは、相沢商事の役員会にも届いた。
拓真は会議室で詰められた。
「君は、取引先の関係者に対して、会社の発注権限をちらつかせて私的関係を迫ったのか?」
「違います。あれは昔の関係があって」
「昔の交際関係は、現在の取引先への圧力を正当化しない」
役員の声は冷たかった。
「さらに、婚約者がいる身で、別の女性へ愛人関係を示唆した。これは相沢商事の信用問題です」
「でも、俺は相沢家の人間だぞ」
「だからこそ問題なのです」
役員は冷たく言った。
「会社の看板は、あなたの欲を通すための免罪符ではありません」
その言葉で、拓真は黙り込んだ。
「相沢家の名を背負う者が、その名を使って取引先と女性に圧力をかけた。社内外への示しがつきません」
「俺を外すつもりか」
「外すのではありません。あなた自身が、その席に座る資格を手放したのです」
拓真の顔から、血の気が引いていった。
追い打ちをかけるように、婚約者にも事実が伝わった。
彼女は、華やかだが愚かではなかった。
「あなた、私と結婚するつもりで、別の女性を愛人にしようとしていたの?」
「違う。向こうが大げさに」
「“愛人って言い方が嫌なら、特別枠だと思えばいい”」
婚約者は、メッセージの文面を読み上げた。
「これのどこが勘違いなの?」
拓真は言葉を失った。
婚約者は、冷たく笑った。
「あなた、御曹司の看板がなければ、誰にも誠実に選ばれない人だったのね」
「おい」
「私が欲しかったのは、相沢家の名前じゃない。私を妻として尊重してくれる人よ」
婚約者は、婚約指輪を外した。
「あなたが欲しかったのは妻じゃなくて、都合よく並べられる女たちだったのね」
婚約は解消された。
拓真は企画部長の座を外され、次期役員候補からも外された。
さらに、椎名内装資材は相沢商事との赤字案件を整理し、一条建設との適正取引へ軸足を移した。
拓真は、花音を失った。
婚約者を失った。
安く使っていた下請けを失った。
御曹司としての立場も失った。
最後に、彼は一度だけ花音に連絡してきた。
花音は怜士と沙耶の同席のもと、代理人事務所で会うことにした。
拓真は以前よりもやつれていた。
「花音」
その声には、かつての傲慢さが少し薄れていた。
「俺が悪かった。昔のことも謝る。お前なら、わかってくれるだろ」
花音は、静かに拓真を見た。
「わかりません」
「花音」
「十年前、あなたは私を地味だと言って捨てました」
花音は続けた。
「十年後、あなたは私を愛人にしようとしました」
拓真は顔を歪める。
「でも、どちらの私も、あなたのものではありません」
「俺は、ただ」
「ただ、都合よく隠せる場所に置こうとしただけ」
花音の声は震えていなかった。
「私はもう、あなたに選ばれたいとは思っていません」
拓真は何も言えなかった。
怜士が静かに言った。
「勝ち負けではありません。あなたが最初から、花音さんを一人の人間として見なかった。それだけです」
拓真は、最後まで反論できなかった。
花音はその場を出ると、長く息を吐いた。
怜士が隣に立つ。
「大丈夫ですか」
「はい」
「無理をしましたね」
「少しだけ」
「かなりです」
いつものやり取りに、花音は笑った。
その笑顔を見て、怜士の表情が少しだけ和らいだ。
花音は思った。
十年前の私は、もうここにはいない。
私を見下した男に、自分の価値を決めさせる必要は、もうない。
第6話をお読みいただき、ありがとうございます。
相沢商事の名を使い、花音に愛人関係を迫った拓真。
実家への発注を盾にし、拒めば仕事を減らすと脅した発言も、沙耶によって記録されていました。
「家の名は、他人を従わせるための道具ではありません」
怜士の言葉どおり、拓真が失ったのは、花音だけではありません。
婚約者。
企画部長の地位。
次期役員候補としての立場。
安く使い続けてきた取引先。
御曹司という看板を振りかざし続けた彼は、自らの言葉によって、その看板を背負う資格まで手放しました。
そして最後に謝罪を口にした拓真に対し、花音は、もう自分の価値を彼の言葉に委ねませんでした。
十年前、花音を「地味でつまらない」と捨てた男への決着は、これで終わりです。
けれど花音の物語は、ここから新しい段階へ進みます。
自分を傷つけた過去から解放されたとき、花音の心に残っていたのは、いつも隣で支えてくれた怜士への想いでした。
次話――好きになってはいけないはずの契約夫を、花音はもう好きになっていました。




