第3話 冷徹な旦那様は、私の日常まで守ってくれました
一年だけの契約結婚が始まりました。
冷徹副社長と呼ばれる怜士は、花音に指輪を用意し、必ず彼女の意思を確かめながら新しい生活を整えていきます。
恋ではない。
これは、自分を守るための契約。
そう言い聞かせる花音でしたが、怜士が見せる優しさは、少しずつ彼女の心へ入り込んでいきます。
そして花音の職場には、仕事のできる一人の女性が現れて――。
契約結婚の手続きは、驚くほど静かに進んだ。
婚姻届を提出した日、花音は白い封筒を手に役所の前で立ち尽くしていた。
隣に立つ怜士は、いつも通り落ち着いている。
「体調は?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは、大丈夫ではありません」
真面目な顔で言われて、花音は思わず小さく笑った。
怜士が一瞬、花音を見た。
「何ですか」
「いえ」
「変でしたか」
「いいえ」
怜士は少しだけ目を細めた。
「笑っているほうがいいと思いました」
花音は慌てて視線を逸らした。
この人は、ときどき何の前触れもなく胸に響くことを言う。
車に戻ると、怜士は小さな箱を差し出した。
「必要だと思いまして」
中には、細身の指輪が入っていた。
派手な宝石はない。
けれど上品で、日常に馴染む美しさがあった。
「これは」
「契約上、既婚者に見える必要があります」
「高いものでは」
「邪魔にならないものを選びました」
「質問に答えていません」
「答えると受け取っていただけないと思いました」
花音は困ってしまった。
だが、指輪は確かに美しかった。
拓真といた頃、彼が語っていた「相沢の女ならこのくらいはつけないと」という派手な指輪とは違う。
自分の手に、自然に馴染みそうだった。
「……ありがとうございます」
花音が指輪を取ろうとすると、怜士が静かに尋ねた。
「私が、はめても?」
命令ではなかった。
許可を求める声だった。
花音は少し迷って、頷いた。
「お願いします」
怜士の指が、花音の左手をそっと支える。
触れ方は丁寧だった。
壊れものを扱うように、けれど過剰に遠慮しすぎない。
薬指に指輪が通る。
それだけなのに、胸が妙に苦しくなった。
「痛くありませんか」
「はい」
「緩ければ直します」
「大丈夫です」
「そうですか」
怜士が手を離す。
離れた瞬間、少しだけ名残惜しいと思ってしまい、花音は慌てて指輪を見つめた。
これは契約だ。
恋ではない。
そう言い聞かせた。
一条邸での生活は、静かだった。
怜士は朝早く出社し、夜遅く帰ることが多い。
花音も仕事を続けた。
契約上の夫婦。
それだけのはずだった。
けれど、怜士は冷たいどころか、花音にだけ驚くほど細やかだった。
朝は、必ず温かい紅茶が用意されている。
ある日、花音が少し喉を押さえると、翌朝の紅茶には蜂蜜が入っていた。
「喉がつらそうでしたので」
「気づいたんですか」
「声が少し掠れていました」
「そんなことまで」
「気になりました」
気になりました。
ただの一言なのに、花音は胸が詰まりそうになった。
拓真は、花音が体調を崩しても気づかなかった。
気づいても、自分に迷惑がかからないかを先に心配した。
怜士は違った。
疲れて帰った夜、花音が夕食を残しそうになると、怜士は何も責めずに澄江へ言った。
「明日は軽いものを」
翌日には、胃に優しいスープが出た。
花音が恐縮すると、怜士は言った。
「食べられない日に無理をする必要はありません」
「でも、せっかく用意していただいたのに」
「あなたの体のほうが大事です」
その言葉が、いちいち心に触れる。
優しくされることが、こんなに怖いものだとは知らなかった。
期待してしまいそうになる。
自分は大切にされているのだと、勘違いしてしまいそうになる。
ある夜、怜士は花音に言った。
「相沢氏が職場へ接触する可能性があります」
「はい」
「あなたの仕事を守るため、こちらで対策を取っても構いませんか」
「対策、ですか」
「はい。ただし、あなたが不安に思う方法は取りません。嫌ならすぐに止めます」
花音は、怜士を見つめた。
命令ではない。
決定事項でもない。
この人はいつも、花音の意思を確認してくれる。
「私、会社を辞めたほうがいいんでしょうか」
「いいえ」
怜士は即答した。
「あなたが仕事を大切にしていることを知っています。だから、あなたの仕事を奪う形にはしたくありません」
「怜士さん」
「あなたの世界を狭めるためではなく、あなたの世界を守るためです」
その言葉に、花音は何も言えなくなった。
自分をそばに置いて守るだけなら、怜士には簡単だったかもしれない。
でも彼は、花音が築いてきた毎日まで守ろうとしてくれている。
「あなたの周囲に、私の信頼する者を置くことを考えています」
「それは、監視ですか」
「違います」
怜士はまっすぐに答えた。
「あなたが普段通り働けるようにするためです。詳細は今は伏せますが、必要になった時点で必ず明かします。もし不快なら、この話はここで止めます」
花音は少し考えた。
怖くないわけではない。
でも、怜士が自分を支配するために言っているのではないことは、もうわかっていた。
「お願いします」
「本当に?」
「はい」
花音は頷いた。
「怜士さんを信じます」
怜士の目が、わずかに揺れた。
「ありがとうございます」
数日後、花音の会社に短期契約社員が入ってきた。
名前は、桐谷沙耶。
三十三歳。
落ち着いた雰囲気の女性で、派手ではないのに目を引く美しさがあった。
資料整理、来客対応、議事録、スケジュール調整、どれも驚くほど早い。
花音の部署の同僚たちはすぐに言った。
「桐谷さん、すごく仕事できるね」
花音もそう思った。
沙耶はいつも穏やかで、必要以上に踏み込まない。
けれど、花音が困っていると自然に横へ来てくれる。
「椎名さん、こちらの資料、先にまとめておきました」
「ありがとうございます。桐谷さん、すごく助かります」
「前職で少し鍛えられまして」
沙耶は微笑んだ。
前職。
花音はその言葉を深く考えなかった。
まだ、沙耶の本当の所属を知らなかった。
第3話をお読みいただき、ありがとうございます。
夫婦であることを示すために用意された指輪。
けれど怜士は勝手にはめることなく、花音にきちんと許可を求めました。
喉の不調に気づけば蜂蜜入りの紅茶を用意し、食欲がない日には体に優しい食事へ変える。
怜士が守ろうとしているのは、花音を一条家の中へ閉じ込めることではありません。
「あなたの世界を狭めるためではなく、あなたの世界を守るためです」
冷たい人だと思っていた旦那様の優しさに触れ、花音の心は少しずつ揺れ始めます。
そして職場に現れた、仕事のできる契約社員・桐谷沙耶。
彼女は本当に、ただの契約社員なのでしょうか。
次話、花音の職場へ再び元カレ御曹司が現れます。
けれど今度の花音は、一人ではありません。




