第2話 一年だけ、私の妻になりませんか
雨の中で倒れた花音が目を覚ましたのは、冷徹副社長・一条怜士の自宅でした。
元カレから実家の会社を盾にされ、逃げ場を失っていた花音。
そんな彼女に怜士が差し出したのは、同情でも慰めでもなく――あまりにも意外な提案でした。
「一年だけ、私の妻になりませんか」
契約結婚から始まる二人の物語、第2話です。
目を覚ますと、花音は見知らぬ部屋にいた。
白い天井。
柔らかな照明。
清潔なシーツ。
病院ではない。
高級ホテルの一室のようでもあるが、どこか生活の匂いがあった。
体を起こそうとすると、年配の女性が近づいてきた。
「ご無理なさらないでください。まだ顔色が良くありません」
「ここは……」
「一条様のご自宅です。私は家政を任されております、佐伯澄江と申します」
「一条様の……」
花音は一気に目が覚めた。
冷徹副社長の自宅。
知らない男性の家。
状況だけを考えれば、警戒するべきだった。
けれど不思議と、部屋に嫌な気配はなかった。
ベッドの近くには着替えが畳まれている。
サイドテーブルには白湯と、短いメモ。
『目が覚めたら、澄江に声をかけてください。無理に起きる必要はありません』
几帳面な字だった。
そのとき、ドアが静かに開いた。
怜士が入ってくる。
昨夜と同じように隙のない雰囲気だったが、スーツの上着を脱いでいるせいか、少しだけ柔らかく見えた。
「目が覚めましたか」
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではありません」
即答だった。
「勝手に連れてきたことは謝ります。病院も考えましたが、あなたが目を覚ましたときに混乱すると思い、医師を呼びました。診察では、過労と精神的なショックが大きいとのことでした」
「そう、ですか」
「気分は?」
「大丈夫です」
「大丈夫という言葉は、今のところ信用できません」
花音は言葉に詰まった。
怜士はベッドから少し離れた椅子に座った。
近づきすぎない距離だった。
「昨夜の通話を聞いてしまいました」
「……はい」
「相沢拓真氏は、あなたの実家の会社を盾にして、あなたに不当な関係を迫った。間違いありませんか」
花音は唇を噛んだ。
言葉にされると、惨めさが増した。
けれど、怜士の声には軽蔑がなかった。
あるのは怒りだけ。
花音にではなく、拓真に向けられた怒りだった。
「間違いありません」
「ご実家の会社は、相沢商事との取引に依存していますか」
「はい。父の会社は小さくて、相沢商事の仕事が大きな割合を占めています」
「相沢氏は、それを以前から知っていた?」
「たぶん」
花音は目を伏せた。
「だから、私が断れないと思ったんだと思います」
「断って当然です」
怜士は言った。
「あなたは、実家の取引を守るための道具ではありません」
花音の胸が震えた。
その言葉を、誰かに言ってほしかった。
親のため。
会社のため。
大人なら我慢しろ。
空気を読め。
そういう言葉の中で、花音はずっと息を潜めてきた。
「ですが、実家に迷惑が」
「迷惑をかけるのは相沢商事です。あなたではありません」
怜士は静かに続けた。
「椎名さん。提案があります」
「提案?」
怜士は、少しだけ言葉を切った。
「本来なら、もっと段階を踏むべきだとわかっています」
「え?」
「ですが、相沢氏はあなたの実家と職場を使って圧力をかけている。通常の距離では、あなたを守りきれない可能性があります」
そして、彼はまっすぐ花音を見た。
「私と結婚しませんか」
花音は、怜士を見つめた。
意味がわからなかった。
「……結婚?」
「契約結婚です」
怜士の声は落ち着いていた。
「期間は一年。あなたの生活と仕事を守ります。相沢氏とご家族からの圧力も、必要なら私が止めます。夫婦としての義務を求めるつもりはありません」
「どうして、そんなことを」
「あなたには今、安全な立場が必要です」
「安全な立場」
「一条家の妻という立場があれば、相沢氏は簡単には手出しできない。ご実家の会社についても、相沢商事から不当な圧力があるなら、別の取引先を用意できます」
花音は呆然とした。
「一条様に、何の得があるんですか」
「あります」
「何ですか」
怜士は少し黙った。
「あなたが、あの男に踏みにじられずに済む」
「それは、私の得です」
「私にとってもです」
その言葉の意味が、花音にはわからなかった。
「私たち、昨日初めて話しましたよね」
「はい」
「なのに、なぜ」
「初めてではありません」
「え?」
怜士は、どこか苦しそうに目を伏せた。
「あなたは覚えていないと思いますが、私は五年前にあなたを見ています。地方工房の展示会で」
花音は記憶を探った。
五年前。
まだ今の企画が小さなプロジェクトだった頃、地方の職人と作った商品を展示会に出したことがある。
来場者は少なかった。
何度も心が折れそうになった。
それでも、一人ひとりに商品の背景を説明した。
「あなたは、売上にならないかもしれない相手にも、丁寧に商品の価値を伝えていました」
怜士の声が、少し柔らかくなる。
「『誰かの毎日が少しでも温かくなるものを作りたい』と、あなたは言った」
花音は息を呑んだ。
自分でも忘れかけていた言葉だった。
「私は、その言葉を忘れられませんでした」
「そんなことを」
「それから、あなたの仕事を時々見ていました。あなたが作るものには、派手さではなく、人の暮らしを大切にする温度がある」
怜士は花音をまっすぐ見た。
「五年前から忘れられなかったのは、恋というより、祈りに近かった」
「祈り……?」
「どうか、あの人の優しさが誰かに利用されず、ちゃんと報われますように。そう思っていた相手が、目の前で踏みにじられているのを見た瞬間、私はもう黙っていられませんでした」
胸が熱くなる。
十年前、拓真は花音を地味だと言った。
昨日、拓真は綺麗になったから愛人にしてやると言った。
でも怜士は、花音の外見ではなく、仕事や言葉を見ていた。
「だから助けるんですか」
「助けたい理由の一つです」
「一つ?」
「今は、それ以上は言えません」
怜士は静かに言った。
「あなたに負担をかけたくない」
花音はシーツを握りしめた。
契約結婚。
普通なら、あまりにも突飛な話だ。
けれど、今の花音には逃げ場がなかった。
拓真は実家を盾にしてくる。
母はきっと、相沢商事を怒らせるなと言う。
父の会社が苦しいことは、花音も知っていた。
このまま一人で帰れば、また自分が悪いのだと思い込まされるかもしれない。
「契約書はありますか」
花音は聞いた。
怜士は小さく頷いた。
「あります」
「読ませてください」
「もちろんです」
書類は、驚くほど花音に有利だった。
期間は一年。
寝室は別。
花音の仕事継続を保証。
生活費は怜士側が負担。
花音の意思を無視した接触はしない。
離婚時には花音の意思を最優先する。
そして、実家の会社について。
一条グループは、系列ゼネコンである一条建設を通じ、椎名内装資材の技術力と価格妥当性を調査する。
条件を満たす場合、適正価格での取引を検討する。
ただし、その取引は花音個人の婚姻継続や家族への従属を条件としない。
花音は、その一文を何度も読んだ。
「私を条件にしないんですね」
「当然です」
「でも、相沢家は私を条件にしました」
「だから私は相沢家とは違う形を取ります」
怜士の声は揺るがなかった。
「椎名内装資材に技術があるなら、正当な価格で取引する。経営管理に問題があるなら、改善のための人材を入れる。どちらにしても、あなたを差し出す条件にはしません」
涙が出そうになった。
誰かが、花音を人質ではなく、一人の人間として扱ってくれている。
「私、すぐには信じられないかもしれません」
「構いません」
「迷惑をかけるかもしれません」
「迷惑ではありません」
「泣くかもしれません」
「泣いてください」
「好きには、なれないかもしれません」
怜士の指が、わずかに動いた。
けれど彼は静かに言った。
「それでも構いません」
花音は、ペンを取った。
一年だけ。
自分を守るため。
実家を人質にされないため。
そう言い聞かせながら、契約書に署名した。
椎名花音。
その横に、怜士が署名する。
一条怜士。
「よろしくお願いします」
花音が頭を下げると、怜士は言った。
「こちらこそ。花音さん」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥に小さな温度が灯った。
それが何なのか、花音はまだ知らなかった。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます。
怜士が花音に提示した契約は、期間一年、寝室は別、仕事の継続を保証し、本人の意思を無視した接触はしないという、徹底して花音の自由を守るものでした。
さらに、実家の会社との取引についても、花音自身を条件にはしない。
「あなたは、実家の取引を守るための道具ではありません」
これまで家や会社のために我慢することを求められてきた花音にとって、それは初めて、自分を一人の人間として扱ってくれる契約でした。
一年だけの契約妻。
恋にはならないはずの結婚生活が、次話から始まります。
冷徹と噂される旦那様は、花音にどんな日常を与えてくれるのでしょうか。




