第1話 十年ぶりに再会した元カレは、御曹司をひけらかす最低男でした
十年前、地味でつまらないと言って私を捨てた元カレ。
御曹司となった彼との再会は、過去の傷を抉るだけでは終わりませんでした。
愛人扱いされた夜、雨の中で出会ったのは――冷徹と噂される一条グループの副社長。
花音の人生が大きく動き始める第1話です。
椎名花音は、十年前の自分が嫌いだった。
地味で、臆病で、人の顔色ばかり見ていた。
好きだと言われれば、それだけで世界が変わったように思い込んだ。
ひどい言葉を投げられても、怒るより先に、自分が何か悪いことをしたのかもしれないと考えてしまった。
大学時代、初めて付き合った相手がいた。
相沢拓真。
相沢商事の御曹司。
当時から自信家で、人の輪の中心にいるような男だった。
花音は、そんな彼に「好きだ」と言われたとき、自分のような地味な女でも選ばれることがあるのだと、馬鹿みたいに喜んだ。
けれど、終わりはあっけなかった。
「お前って、つまらないよな」
別れ際、拓真はそう言った。
「悪い子じゃないけど、隣に置くには地味すぎる。俺、もっと華やかな女が好きなんだ」
花音は泣けなかった。
泣いたら、もっと惨めになる気がした。
それから十年。
花音は二十八歳になった。
インテリア雑貨メーカーで企画職として働き、地方の職人と組んだ商品シリーズを担当している。
派手な美人ではない。
けれど、年齢を重ねる中で、自分に似合う服やメイクを少しずつ覚えた。
背筋を伸ばして歩くこと。
丁寧に言葉を選ぶこと。
自分の作るものに誇りを持つこと。
それだけで、人から向けられる視線は少しずつ変わった。
けれど、恋愛だけは別だった。
十年前の言葉は、いまだに胸の奥に刺さっている。
私は、隣に置くには足りない女。
選ばれても、いつか捨てられる女。
そう思ってしまう。
だから花音は、恋から距離を置いていた。
その夜、花音は仕事先のホテルにいた。
自社の新作展示会。
取引先や関係者を招いた、少し華やかなイベントだった。
会場には上品な香水の匂いと、グラスの触れ合う音が満ちている。
花音は展示ブースの前で、来場者に商品の説明をしていた。
「このシリーズは、北陸の小さな木工房と一緒に作っています。派手さはありませんが、毎日手に取るものだからこそ、使う方の生活に静かに馴染むように考えました」
説明を聞いていた年配の女性が、柔らかく微笑んだ。
「あなた、この商品が本当に好きなのね」
「はい。作ってくださった職人さんたちの手も、暮らしも、ちゃんと届いてほしいんです」
「素敵ね」
女性は小さなトレイを一つ手に取った。
「これ、いただくわ」
「ありがとうございます」
花音が頭を下げたときだった。
「花音?」
聞き覚えのある声に、体が固まった。
振り返る。
そこに立っていたのは、相沢拓真だった。
十年前よりも少し大人びていた。
高そうなスーツを着て、余裕のある笑みを浮かべている。
隣には、華やかな女性がいた。
左手には婚約指輪らしきものが光っている。
「やっぱり花音だ。久しぶり」
拓真は、まるで昔のことなど何もなかったかのように笑った。
花音は喉が詰まるのを感じた。
「……お久しぶりです」
「堅いな。昔は付き合ってた仲だろ?」
隣の女性が、少し眉を上げる。
「拓真さんのお知り合い?」
「ああ。大学時代の元カノ」
拓真は軽く言った。
「昔はもっと地味だったんだけどな。驚いた。ずいぶん綺麗になったじゃないか」
その言葉に、花音の胸がざわついた。
褒め言葉のはずなのに、嫌な感じがした。
昔はもっと地味だった。
つまり、今なら値踏みする価値がある。
そう言われているようだった。
「ありがとうございます」
花音は仕事用の笑顔を作った。
「では、私は仕事がありますので」
「待てよ」
拓真は一歩近づいた。
「このあと時間ある? 少し話そう」
「申し訳ありません。勤務中です」
「相変わらず真面目だな。まあ、そういうところは嫌いじゃないけど」
拓真は隣の婚約者に聞こえないよう、少しだけ声を落とした。
「俺、今は相沢商事の企画部長なんだよ。将来は役員、いずれは経営側だろうな。相沢の名前があれば、たいていのことは動かせる」
昔からそうだった。
拓真はいつも、相沢商事の名前を自分の価値のように語った。
自分が努力して築いたものではなく、家の看板を武器にして人を見下す。
「お前の実家、椎名内装資材だったよな。まだうちと取引してるだろ」
花音は息を呑んだ。
父の会社。
小さな内装資材会社。
相沢商事は、たしかに大口取引先だった。
「必要があれば、会社を通してご連絡します」
花音はできるだけ冷静に答えた。
拓真の目が、わずかに細くなる。
「ふうん。強くなったんだな」
その声に、十年前の冷たさが混じった。
「まあいい。また会おう」
拓真はそう言って、婚約者を連れて去っていった。
花音は、しばらく動けなかった。
大丈夫。
もう十年前とは違う。
仕事中だ。
笑っていればいい。
そう自分に言い聞かせた。
けれど指先は、かすかに震えていた。
展示会が終わったのは、夜九時を過ぎてからだった。
撤収作業を終え、ホテルの裏口へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
知らない番号。
出るべきではないと思った。
でも、仕事関係かもしれない。
「はい。椎名です」
『花音? 俺』
拓真だった。
花音は足を止めた。
「どうして番号を」
『同じ業界なんだから、調べればわかるだろ』
悪びれない声。
『今、ホテルのバーにいる。来いよ』
「行きません」
『昔話くらい、いいだろ』
「お話しすることはありません」
『あのさ、そんなに警戒しなくてもいいだろ。俺、別にお前を傷つけるつもりはないんだよ』
花音は黙った。
『むしろ、いい話をしてやろうと思ってる』
「いい話?」
『お前、今も独身だろ?』
胸が冷える。
『俺、もうすぐ結婚するんだ。でもさ、結婚って家同士のものだろ。本当に癒やされる相手は、別にいてもいいと思うんだよ』
花音は息を止めた。
『今のお前なら、悪くない。昔は地味すぎたけど、今は落ち着いてていい女になった。俺のそばに置いてやってもいい』
「……何を言っているんですか」
『愛人って言い方が嫌なら、相沢の後ろ盾を得られる特別枠だと思えばいい』
視界が歪んだ。
怒りより先に、十年前の自分が引きずり出される。
お前は地味だ。
つまらない。
隣に置くには足りない。
そして今度は、愛人なら置いてやる。
「お断りします」
花音は、できるだけ低く言った。
拓真は鼻で笑った。
『強がるなよ。お前、昔から俺のこと好きだっただろ』
「昔の話です」
『どうせ今も一人なんだろ? 俺が声をかけてやってるんだから、ありがたく思えよ』
「切ります」
『お前の実家、うちとの取引があるのを忘れてないよな』
花音の手が止まった。
『正直、椎名内装資材は使いやすいんだよ。安くても文句を言わないし、急ぎの仕事でも受ける。こっちとしても手放すのは惜しい』
「それを、私に言ってどうするんですか」
『わかってるくせに。お前が俺の機嫌を損ねなければ、仕事は続けてやる』
吐き気がした。
『お前が少し可愛くしてくれれば、全部丸く収まるんだよ。花音、お前ももう子どもじゃないだろ』
「最低です」
『何とでも言え。俺は相沢商事の御曹司だぞ。普通の女なら、俺に声をかけられただけで喜ぶ』
「私は喜びません」
『後悔するぞ』
通話が切れた。
花音はスマートフォンを握りしめたまま、ホテルの裏口に立ち尽くした。
雨が降っていた。
傘は、控室に忘れてきた。
戻ればいい。
でも今は、あの明るい会場へ戻る気力がなかった。
花音は雨の中へ歩き出した。
冷たい雨が髪を濡らす。
頬を伝う水滴が、涙なのか雨なのか、わからない。
「私、何も悪くないのに」
呟いた声は、雨音に消えた。
そのとき、黒い車が静かに歩道脇に停まった。
後部座席のドアが開く。
「椎名花音さん」
低く落ち着いた声。
花音が顔を上げると、黒い傘を差した男性が立っていた。
一条怜士。
一条グループの副社長。
展示会の来賓として名前だけは見ていた。
直接話したことはない。
長身で、整った顔立ち。
冷たいほど端正な目元。
噂通り、近寄りがたい人だった。
「一条、様」
「濡れます」
彼は短く言い、傘を花音の上に差しかけた。
「大丈夫です」
「大丈夫には見えません」
「本当に、大丈夫です」
「泣いている人は、よくそう言います」
その言葉で、花音は自分が泣いているのだと気づいた。
涙が止まらなかった。
怜士は、それ以上問い詰めなかった。
ただ、静かに傘を差している。
「乗ってください。行き先はあなたが決めて構いません。運転手もいます」
「なぜ、私に」
「あなたを、あの男の言葉の中に置いておけなかった」
花音は息を呑んだ。
聞かれていたのだ。
恥ずかしい。
惨めだ。
そう思った瞬間、怜士が言った。
「恥じるのは、あなたではありません」
まるで心を読まれたようだった。
「あなたを傷つけた男です」
その声は静かだった。
けれど、奥に怒りがあった。
花音の膝から力が抜けた。
「椎名さん」
怜士が支えてくれる。
強い腕。
でも、触れ方は驚くほど丁寧だった。
「無理をしすぎです」
「すみません」
「謝らないでください」
その言葉が、胸に沁みた。
誰かに、そう言ってほしかった。
謝らなくていい。
あなたが悪いのではない。
花音は、そのまま意識を手放した。
第1話をお読みいただき、ありがとうございます。
十年前に花音を捨てた拓真は、再会した彼女を尊重するどころか、実家の会社まで盾にして自分の「特別枠」に置こうとしました。
そんな雨の夜、花音の前に現れた一条怜士。
「恥じるのは、あなたではありません」
冷徹と呼ばれる副社長は、なぜ花音の痛みにこれほど強く怒ったのでしょうか。
次話、目を覚ました花音に、怜士から予想もしなかった提案が告げられます。




