第4話 御曹司の本性を、彼女は静かに記録していました
花音の職場に、再び元カレ御曹司・拓真が現れます。
実家の会社への発注をちらつかせれば、花音は自分に従う。
そう信じて疑わない拓真。
けれど今回、花音の隣には、穏やかで有能な契約社員・桐谷沙耶がいました。
「怖いままで構いません。今日は、怖がりながら勝ちましょう」
拓真が自らの口で本性をさらしていく、静かな反撃の第4話です。
拓真が会社に現れたのは、沙耶が契約社員として入って二週間ほど経った頃だった。
受付から内線が入った。
『相沢商事の相沢拓真様が、椎名さんにお会いしたいと』
花音の手が止まった。
相沢拓真。
その名前を聞くだけで、胸が冷える。
隣の席で資料を整理していた沙耶が、静かに顔を上げた。
「椎名さん」
「桐谷さん」
「お一人で対応する必要はありません。応接スペースで、私も同席します」
「でも」
「大丈夫です」
沙耶は柔らかく微笑んだ。
「怖いままで構いません。今日は、怖がりながら勝ちましょう」
花音は、その言葉に少しだけ息を吸えた。
応接スペースに行くと、拓真はソファにふんぞり返るように座っていた。
高そうな時計。
磨かれた靴。
自分が歓迎されて当然だという顔。
花音の隣に沙耶が座ると、拓真の目が沙耶に向いた。
「へえ、花音。綺麗な友達がいるんだな」
「同僚です」
花音が言うと、拓真はにやりと笑った。
「同僚か。君、名前は?」
「桐谷と申します」
「桐谷さんね。花音よりずっと話が早そうだ」
不快な言い方だった。
沙耶は、表情を変えなかった。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
「堅いな。俺、相沢商事の企画部長なんだよ」
拓真は得意げに胸を張った。
「相沢家の人間って言えば、業界ではわかるだろ。普通ならなかなか会えない相手だと思うけど」
「相沢商事の御曹司でいらっしゃるのですね」
沙耶は穏やかに言った。
拓真は満足そうに頷く。
「まあね。将来は役員、いずれは経営側だろうな」
「そのお立場で、椎名内装資材への発注継続も左右できると?」
「当然。俺の一言でどうにでもなる」
花音の手が膝の上で震えた。
沙耶が、机の下でそっと小さなメモを寄越した。
『大丈夫です。聞き返してください』
花音は息を吸った。
「拓真。つまり、あなたの個人的な要求を私が断れば、実家への発注を止めるという意味ですか」
拓真は笑った。
「ようやく話がわかってきたじゃないか」
沙耶が静かに続ける。
「個人的な要求とは、花音さんに愛人関係を求めることですね」
「愛人って言い方は古いだろ。俺の特別枠だよ」
拓真は悪びれずに言った。
「俺の婚約者には黙っていればいい。花音の実家は仕事を失わずに済む。花音も相沢の後ろ盾を得られる。悪い話じゃない」
花音は吐き気をこらえた。
沙耶は、微笑みを崩さない。
「では、花音さんがその“特別枠”を拒否した場合、椎名内装資材への発注はどうなりますか」
「減るだろうな。俺の機嫌を損ねたんだから」
「それは、相沢様の私情で取引を動かすという意味でしょうか」
「私情じゃない。判断だよ。使いやすい下請けだったけど、俺に逆らうなら意味がない」
拓真は沙耶を見て、さらに調子に乗った。
「君もさ、俺と仲良くしておけば悪いようにはしないよ」
「私も、ですか」
「花音だけじゃなくて、君も綺麗だからね。二人で俺のそばにいてもいい。俺、そういうの嫌いじゃないから」
花音は、怒りで体が震えた。
けれど沙耶は、恐ろしいほど冷静だった。
「お誘いありがとうございます」
そう言って、沙耶は鞄から小さな手帳を取り出した。
「では、そのお言葉も含めて確認させていただきます」
「は?」
拓真が眉をひそめる。
沙耶は穏やかに頭を下げた。
「申し遅れました。桐谷と申します」
「それは聞いた。何者だよ、お前」
「本日は、花音様の安全確保と、相沢様からのご発言の確認のため同席いたしました」
拓真の顔色が変わった。
「確認?」
「はい」
沙耶は、微笑みを崩さなかった。
「相沢様。先ほどのご発言について確認いたします」
淡々とした声だった。
「花音様に対し、実家企業への発注継続を条件に、私的な関係を要求した」
「拒否した場合、発注を減らす可能性を示唆した」
「また、私に対しても同様の私的接触を示唆した」
「この理解でよろしいでしょうか」
「冗談だろ、そんなの」
拓真は慌てて笑った。
「女同士で大げさに受け取って」
「冗談で、取引先関係者のご家族に愛人関係を迫り、さらに同席者にも同様のお誘いをしたという理解でよろしいですか」
沙耶は、表情を変えない。
拓真は言葉に詰まった。
「相沢様」
沙耶は続けた。
「今後、花音様への直接接触はお控えください。以降は、必要な窓口を通していただきます」
「お前ら、俺を脅す気か」
「いいえ」
沙耶は静かに首を振った。
「相沢様ご自身の言葉を、確認しているだけでございます」
「だから、何者なんだよ」
「必要な先へ、正式に共有いたします」
拓真は立ち上がった。
「覚えてろよ、花音」
花音は、彼を見上げた。
昔なら、その言葉だけで足がすくんだ。
でも今は、違った。
「拓真」
花音は静かに言った。
「十年前の私は、あなたの言葉で自分の価値を決めていました」
拓真の表情が歪む。
「でも、もう違う」
「何だよ」
「私は、あなたの特別枠になんて入りません」
花音は、はっきりと言った。
「私は、誰かの陰に隠される女にも、あなたの機嫌で価値を決められる女にもなりません」
拓真は何も言い返せなかった。
そのまま乱暴に席を立ち、応接スペースを出ていった。
花音は、ようやく息を吐いた。
体中から力が抜けそうになる。
沙耶がそっと言った。
「よくおっしゃいました」
「桐谷さん……」
「花音様」
沙耶は、初めて花音をそう呼んだ。
「怖かったですね」
その一言で、涙が出そうになった。
「はい」
「ですが、勝ちました」
「勝てたんでしょうか」
「ええ。相沢様は、ご自身の言葉でご自身を追い詰めました」
沙耶は小さく微笑んだ。
「必要な先へ、すぐ共有いたします」
「必要な先……?」
花音はその言葉に引っかかった。
けれど、そのときは深く聞けなかった。
拓真に立ち向かった緊張で、胸がいっぱいだった。
第4話をお読みいただき、ありがとうございます。
拓真は、相沢商事の立場を利用して花音の実家への発注を左右し、個人的な関係を迫っていたことを、自らの口で認めました。
さらに沙耶にまで同じような誘いをかけ、逃げ道を失っていきます。
けれど今回の花音は、十年前のように黙って傷つけられるだけではありませんでした。
「私は、誰かの陰に隠される女にも、あなたの機嫌で価値を決められる女にもなりません」
怖さを抱えたまま、それでも自分の言葉で拓真を拒絶した花音。
そして、すべてを冷静に確認していた沙耶は言います。
「相沢様は、ご自身の言葉でご自身を追い詰めました」
彼女は本当に、ただの契約社員なのでしょうか。
次話、舞台は花音の実家・椎名内装資材へ。
怜士が差し出すのは、金や権力による一時的な救済ではありません。
花音を犠牲にせず、会社が自分の力で立ち直るための、厳しくも誠実な再建が始まります。




