episode0(Prologue)Chapter8
昼食後の穏やかな時間だった。
パオロとクリスティアンは現実逃避をするように食後のお茶を飲み、アンジェリカはそんな二人を監視するように腕を組んでいる。
「さて。」
アンジェリカが微笑む。
「そろそろ勉強と報告書を――」
その時だった。
「きゃあああああっ!!」
遠くから悲鳴が聞こえた。
三人の表情が同時に変わる。
パオロが立ち上がった瞬間。
ドンドンドン!!
激しく玄関が叩かれた。
「大変だ!!」
聞き覚えのある声だった。
「パオロ様!!クリスティアン!!」
ディメトリオだった。
パオロは即座に立ち上がる。
「どうした!ディメトリオくん!」
扉を開く。
そこには顔面蒼白になったディメトリオが立っていた。
肩で息をしている。
全力で走ってきたのだろう。
「はぁ……はぁ……!」
言葉が上手く出ない。
それでも必死に口を開く。
「マルチナおばさんが……!」
息を飲む。
「魔獣に囲まれて……!」
恐怖で声が震えていた。
「このままじゃ危険です!」
クリスティアンが勢いよく立ち上がる。
「なんだって!?」
顔色が変わる。
マルチナは村人全員が知る優しい女性だった。
幼い頃から世話になっている。
放っておけるはずがない。
しかし。
パオロは冷静だった。
戦場で鍛え上げられた判断力が働く。
「ディメトリオくん。」
静かな声で言う。
「クリスティアン。」
二人が振り向く。
「君たちはアンジェリカと共に家にいなさい。」
「父様!」
クリスティアンが反論しかける。
だがパオロの目は真剣だった。
有無を言わせない騎士の目。
その時。
「あなた!」
アンジェリカが声を上げた。
「いけません!」
普段の穏やかな彼女からは想像できないほど強い声だった。
「数も分からないのに危険です!それに仮に倒せたとしても……」
言葉が震える。
「魔獣を無闇に刺激したら今度はあなたに報復を――」
最後まで言わせなかった。
パオロが優しく微笑んだからだ。
「大丈夫だ。」
その一言だけだった。
戦場を生き抜いた男の自信。
そして家族を安心させようとする優しさ。
両方が込められていた。
「こんな村周辺の魔獣に遅れは取らないよ。」
そう言うと壁に立て掛けてあった愛剣へ手を伸ばす。
レジスタ。
長年共に戦場を駆け抜けた相棒だった。
鞘から僅かに覗く刀身が光を反射する。
パオロは剣を腰へ差した。
そして振り返る。
「すぐ戻る。」
その言葉を残し、家を飛び出した。
「あなた!」
アンジェリカの声が背中へ届く。
しかしパオロは止まらない。
風のように駆ける。
村を抜ける。
畑を越える。
森へ続く獣道を疾走する。
数分後。
パオロは現場へ辿り着いた。
だが――
遅かった。
森の開けた場所。
そこに倒れていたのはマルチナだった。
買い物籠は散乱し。
果物は泥に塗れ。
地面には無残な戦いの痕跡が残されている。
パオロは立ち尽くした。
拳が震える。
「遅かったか……」
苦悶の表情を浮かべる。
助けられなかった。
その事実が胸に重くのしかかる。
だが。
悲しんでいる暇はなかった。
ガサリ。
茂みが揺れる。
続いて現れたのは四つの巨体。
Eランク魔獣――ガネーシャ。
象を思わせる頭部と巨大な牙。
筋肉質な身体。
村人程度では太刀打ちできない危険な魔獣だった。
その一体が首を傾げる。
「キエッ?」
獲物ではない存在に気付いたのだ。
四体の視線が一斉にパオロへ向く。
空気が張り詰める。
パオロは静かにレジスタへ手をかけた。
シャァァン――
澄んだ音と共に刀身が姿を現す。
銀色の刃が森の木漏れ日を反射した。
パオロは剣先を向ける。
その目に迷いはない。
「悪いが。」
低い声だった。
「全員斬らせてもらう。」
ガネーシャ達が唸る。
パオロは一歩前へ出た。
「俺にも。」
レジスタを構える。
「大切な家族と仲間がいるんだ。」
その瞬間。百戦錬磨の騎士が纏う殺気が森を震わせた。
四体の魔獣と一人の騎士。
圧倒的不利なはずの戦い。
だがその場にいる誰よりも落ち着いていたのは――
パオロ・ビリンデッリ本人だった。
森の空気が張り詰める。
パオロは静かにレジスタを構えた。
その瞬間、淡い青色の光が足元から立ち昇る。
魔力だった。
長年の戦場経験によって研ぎ澄まされた闘気が青いオーラとなり、その身を包み込む。
周囲の草木がざわめく。
四体のガネーシャたちは本能的な恐怖を覚えた。
「キエッ……?」
一体が後ずさる。
目の前の存在が、自分たちより遥か上位の捕食者であることを理解したのだ。
だが――
パオロは既に動いていた。
ドンッ!!
踏み込んだ大地が砕ける。
次の瞬間、その姿が消えた。
「キエ――」
ガネーシャが鳴き終える前に銀閃が走る。
レジスタが描いた軌跡と共に、一体の巨体が大きく傾いた。遅れて鮮血が舞う。
ガネーシャは数歩よろめくと、そのまま地面へ崩れ落ちた。
絶命だった。
残る三体が狼狽する。
「キエ……?」
理解が追いつかない。
仲間が一瞬で倒されたのだ。
しかしパオロは止まらない。
戦場では敵に考える時間を与えない。
それが生き残る鉄則だった。
「はぁっ!!」
再び踏み込む。
風を裂く斬撃。
二体目のガネーシャが牙を向けた瞬間には、既に勝負は決していた。
鋭い一撃が急所を捉える。
巨体が地面へ倒れ込み、土煙を上げた。
残り二体。
そのうち一体が恐怖に耐えきれなくなった。
「キエェェェェッ!!」
悲鳴を上げるように森の奥へ逃走する。
だがもう一体は追い詰められた獣の狂気を見せた。
巨大な爪を振り上げる。
「キエェェェッ!!」
咆哮と共に飛び掛かった。
鋭い爪がパオロの顔面へ迫る。
普通の人間なら反応できない速度。
しかしパオロは冷静だった。
レジスタが静かに突き出される。
次の瞬間には決着がついていた。
ガネーシャの動きが止まる。
レジスタの切っ先が正確に急所を貫いていた。
「ギ……」
魔獣は力なく崩れ落ちる。
その際に飛び散った血がパオロの頬を赤く染めた。
だが彼は拭おうともしない。
視線は既に逃走した最後の一体へ向けられている。
「逃がさん!」
青いオーラが再び膨れ上がる。
パオロは森を駆けた。
まるで疾風だった。
逃げるガネーシャも必死だった。
木々をかき分け、枝を折りながら全力で走る。
しかし距離はみるみる縮まっていく。
そして――
「終わりだ。」
背後から声が響いた。
ガネーシャが振り返る。
その時にはもう遅かった。
レジスタが鋭く閃く。
魔獣は数歩ふらつくと、そのまま前のめりに倒れた。
森に再び平穏が戻る。
四体の魔獣を討伐したパオロはゆっくりと剣を収めた。
だが勝利の表情はない。
視線の先にはマルチナの亡骸があった。
守れなかった命。
間に合わなかった現実。
パオロは静かに目を閉じる。
「……すまない。」
その言葉だけが、静かな森の中に消えていった。
--
村へ続く道。
昼下がりの陽光が降り注いでいる。
普段ならのどかな風景だった。
しかし今日は違う。
遠くから帰ってくるパオロの姿を見つけた村人たちが足を止める。
誰もが気付いた。
彼が抱えているものに。
誰も声を上げない。
誰も近付けない。
ただ沈黙だけが広がっていく。
やがて一人の老婆が震える声で呟いた。
「まさか……。」
その言葉をきっかけに空気が変わる。
「マルチナさん……?」
「そんな……。」
「嘘だろ……。」
悲しみの声があちこちから漏れる。
パオロは何も言わなかった。
言い訳もしない。
弁明もしない。
ただ真っ直ぐ前を向いて歩き続ける。
村を守る騎士として。
そして守れなかった者を送り届ける者として。
広場へ辿り着いた時だった。
クリスティアンたちも駆け付ける。
「父様!」
勢いよく駆け寄ったクリスティアンの足が止まる。
抱えられている人物を見たからだ。
「マルチナおばさん……?」
声が震える。
現実を理解できない。
理解したくない。
ディメトリオも顔を青くしたまま立ち尽くしていた。
アンジェリカは口元を押さえる。
何かを察していた。
それでも実際に目の当たりにすると胸が締め付けられる。
パオロはようやく立ち止まった。
そして静かに言う。
「間に合わなかった。」
短い言葉だった。
だがその一言に全てが込められていた。
広場に沈黙が落ちる。
誰も責めない。
誰も責められない。
目の前にいるのは、命懸けで村を守ってきた男だからだ。
だからこそ。
パオロ自身が最も悔いていることを皆が理解していた。
パオロは静かに目を伏せる。
腕の中のマルチナを見つめながら。
握る剣では守れない命もある。
その現実だけが、重く胸に残り続けていた。




