episode4(ambush)Chapter8
昼下がりのデッレ・アルピ村。
柔らかな陽射しが石造りの家々を包み、どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。
村外れの小さな庭。
アンジェリカは木陰に置かれた長椅子へ腰掛けていた。
その膝の上では
「……すぅ……すぅ……」
アウローラが丸く身体を縮め、気持ち良さそうに眠っていた。
猫獣人らしく尻尾は膝の上でゆったりと左右へ揺れ、時折耳だけがぴくりと動く。
苦しそうな寝息ではない。
穏やかな寝息だった。
アンジェリカはその銀色の髪を優しく梳くように撫でる。
「いい子ね……」
指先が耳の付け根をそっと掻くと、
「……んにゃ……」
アウローラは夢の中で小さく喉を鳴らした。
その様子にアンジェリカは思わず頬を緩める。
「うふふ……こういうところは猫ちゃんなのね」
慈しむような笑みだった。
戦場でどれほど勇敢だったとしても。
今だけは、ただ安心して眠る一人の少女だった。
その時だった。
「こんにちは、アンジェリカ婦人」
隣家の婦人が買い物籠を提げて庭先へやって来る。
「あら。」
アンジェリカが顔を上げる。
婦人は眠るアウローラを見て優しく目を細めた。
「その子は先日の猫ちゃんですか?」
「えぇ。」
「だいぶ回復されましたね。」
アンジェリカはアウローラの前髪を撫でながら微笑んだ。
「えぇ……でもまだ夜になると震えが止まらなくて。」
その言葉に婦人も神妙な表情になる。
「そうですか……。」
少し空を見上げる。
「先日、パルクでかなりの規模の戦闘があったようですし。」
静かな声だった。
「この子もそこから流れ着いたのかもしれませんね。」
アンジェリカは小さく頷く。
「そうですね……。」
言葉はそこで止まった。
代わりに膝の上で眠る少女を見つめる。
夢の中で何度もうなされ、
涙を流し、
「死にたくない」
そう呟いた夜を思い出す。
細い肩。
傷だらけの身体。
まだ幼さの残る寝顔。
アンジェリカはその頬へ掛かった髪を耳へ掛け直した。
(クリスティアン……。)
胸の奥で息子の名を呼ぶ。
(何処で誰と遊ぼうといいのよ。)
ふっと笑う。
(あなたは生きてさえいてくれたら……。)
それだけでいい。
母の願いは、それだけだった。
その時。
「……んにゃ。」
アウローラが無意識にアンジェリカの膝へ頬を擦り寄せる。
まるで母猫へ甘える子猫のように。
アンジェリカは優しく微笑み、
「ゆっくりお休み。」
そう囁きながら、
もう一度ゆっくりと頭を撫で続けた。
初夏の風が二人の髪を優しく揺らし、
戦場とは無縁の穏やかな時間だけが、静かに流れていた。
しかしその穏やかな時間は、一人の叫びによって突然破られた。
「大変だぁぁぁ!!」
村中へ響き渡る切羽詰まった声。
アンジェリカと隣の婦人が同時に顔を上げる。
「えっ?」
「何事……?」
土煙を上げながら郵便配達の男が全力で駆け込んできた。
息は切れ、顔面は真っ青だった。
「た、大変です!!」
肩で息をしながらアンジェリカを見る。
「アンジェリカさん!!」
声が震えていた。
「この間の戦闘が原因で、魔獣達が大量に村に移動してきてます!!」
一瞬。辺りの空気が凍り付く。
アンジェリカは思わず声を上げた。
「なんですって!!」
その声で。
「……うにゃ?」
アンジェリカの膝で眠っていたアウローラが耳をぴくりと動かし、ゆっくりと目を開ける。
眠そうに瞬きを繰り返したあと、周囲の慌ただしい空気を感じ取って身体を起こした。
隣の婦人は青ざめたまま口元を押さえる。
「そ……そんな。」
震える声だった。
「クリスティアンくんもいないのに……。」
視線は村の入口へ向く。
「ダミアーノ神官だけじゃ……。」
その時だった。
「急ぎますよ!」
教会の方角から白い法衣を翻しながらダミアーノ神官が走ってくる。
その後ろには必死に追い掛けるディメトリオの姿もあった。
ディメトリオは青ざめながら叫ぶ。
「神官~!」
涙目になっている。
「我々の戦闘力じゃ、はっきり言って……!」
弱音が漏れる。
しかしダミアーノは振り返りもせず厳しい口調で言い放った。
「そんな事でどうするんですか!」
足を止めない。
「その程度の覚悟なら、サンシーロで神官なんて夢のまた夢ですよ!」
「うっ……。」
ディメトリオは唇を噛み締め、必死に後を追った。
その様子を見つめていたアウローラが、不安そうにアンジェリカを見上げる。
「ママ。」
金色の瞳が揺れる。
「どうしたの?」
アンジェリカは慌てて笑顔を作り、その小さな身体をぎゅっと抱き寄せた。
「い……いや。」
優しく頭を撫でる。
「アウローラはいいのよ。」
無理に微笑む。
「ここにいて。」
だが。隣の婦人が思わず口を滑らせた。
「先日の戦闘で魔獣が大量に村へ移動していて……」
「あっ……。」
アンジェリカはしまったという表情を浮かべる。
慌てて言葉を繋いだ。
「だ、大丈夫よ!」
少し焦った声になる。
「まだ悪い魔獣と決まったわけじゃないから。」
その言葉を聞いたアウローラは静かにアンジェリカの膝から降りた。
さっきまで甘えていた猫のような表情はもうない。
金色の瞳が鋭く細められる。
戦場で生き延びてきた戦士の目だった。
「ママ。」
低い声で言う。
「アタシに任せて。」
アンジェリカは慌てて腕を掴む。
「ダメよ!」
力いっぱい抱き締める。
「あなたはまだ回復してないんだから!」
しかし。
アウローラはゆっくりとその腕を外した。
「……ごめん。」
静かだった。
「でも。」
表情だけは一歩も譲らない。
「この辺りの魔獣はEランクのガネーシャや、Dランクのラピュータ。」
周囲の村人たちが息を呑む。
「ガネーシャはともかく。」
アウローラはダミアーノとディメトリオが走って行った方角を見る。
「ラピュータなら、爺さんと頼りなさそうな男じゃ無理だ。」
そう言い残すと踵を返し、
迷うことなく家の中へ駆け込んだ。
目指す先はただ一つ。
部屋の隅に立て掛けられた、自分の剣だった。
アウローラは家の中へ駆け込む。
一直線に向かったのは部屋の隅にある食糧庫の脇。
壁に立て掛けられている、自分の愛剣。
ゼネラリへ出撃する時も。
クリスティアンと稽古した時も。
ずっと共に戦ってきた相棒だった。
「頼む……!」
柄を掴み、勢いよく持ち上げる。
だが。その瞬間。
「……あ。」
刀身が途中からぐらりと傾いた。
深々と刻まれた亀裂。
刃は何カ所も欠け、刃先は完全に折れ曲がっている。
ジョルディ・バケーロに脇腹を貫かれた際に粗悪な剣はその魔力と風圧でボロボロになっていた。
柄の革紐も焼け焦げ、鍔も歪み、もはや剣としての役目は果たせない。
アウローラは唇を噛み締める。
「そんな……。」
試しに軽く振ってみる。
パキッ。
乾いた音を立て、刃の先端が床へ転がった。
完全に終わっていた。
「うにゃあああ!!」
思わず頭を抱える。
耳がしゅんと垂れ下がった。
「流石のアタシでも……」
折れた剣を見つめながら情けない声を漏らす。
「素手とダガーでラピュータはキツイぜ……。」
腰には予備のダガーが一本あるだけ。
人間相手なら十分戦える。
だがラピュータは違う。
群れで襲い掛かり、鋭い爪と牙で獲物を引き裂くDランク魔獣。
一頭ならともかく、複数相手に短剣だけで挑むのは自殺行為だった。
「くそっ……。」
悔しそうに折れた剣を握り締める。
「あいつとの約束守ったばっかりなのによ……。」
視線を落とす。
「こんな所で死ぬわけにはいかねぇんだ。」
それでも。
アウローラはゆっくりと腰のダガーへ手を伸ばした。
武器がなければ、あるもので戦う。
それが傭兵として生きてきた彼女の流儀だった。




