episode4(ambush)Chapter6
アウローラは食卓の前で、まだ少しだけ身を固くしていた。
目の前には湯気を立てるミネストローネ。
そして焼きたての丸パン。
「……いただきます。」
小さく呟き、木匙でスープをすくう。
恐る恐る口へ運んだ。
その瞬間だった。
「……!」
目が大きく見開かれる。
完熟トマトのやさしい甘酸っぱさが舌いっぱいに広がる。
じっくり炒められた玉ねぎはとろけるほど甘く、人参やじゃがいもはほろりと崩れ、セロリの爽やかな香りが後味を引き締める。
白いんげん豆はほくほくと柔らかく、野菜から溶け出した旨味がスープ全体へ溶け込み、一口飲むたび身体の芯まで温かさが染み渡っていく。
馬車で口にした乾いたレーションとはまるで違う。
命を繋ぐための食事ではない。
誰かを想って作られた食事だった。
アウローラは震える手で丸パンを手に取る。
半分に割ると、ふわりと白い湯気が立ち上った。
小麦の甘い香り。
外側は香ばしく薄く焼け、中は雲のようにふんわりとしている。
スープへ浸して頬張る。
パンがミネストローネをたっぷり吸い込み、トマトの旨味とオリーブオイルの香りがじゅわっと口の中へ溢れた。
「……おいしい。」
思わず零れた声は、震えていた。
もう一口。
また一口。
止まらない。
気付けば夢中で匙を動かしていた。
「はむっ……はむっ……!」
パンをちぎり、スープへ浸し、頬張る。
空っぽだった胃が、温もりで満たされていく。
「んぐっ……!」
勢い余って喉へ詰まらせる。
「けほっ! けほっ!」
アンジェリカは慌てることなく席を立ち、優しく背中をさすった。
「ほらほら、慌てなくていいのよ。」
穏やかに笑う。
「たくさんあるから。」
その一言だけで、アウローラの肩から力が抜けた。
涙がぽたりと器へ落ちる。
「アタシ……。」
声が震える。
「アタシ、生きてるんだ……。」
唇を噛み締める。
「みんな死んじまったけど……。」
ぽろぽろと涙が止まらない。
「……あいつとの約束は守れた。」
生きて帰れ。
そう言ってくれた人たちの顔が浮かぶ。
ケイスケ。
ファヴァッリ。
仲間たち。
そしてクリスティアン。
アンジェリカはそっとアウローラの肩へ手を置いた。
「そうよ。」
優しく微笑む。
「あなたは生きてる。」
その瞳は母親そのものだった。
「よく頑張ったわね。」
アウローラはまた泣いた。
今度は安堵の涙だった。
アンジェリカは優しく尋ねる。
「私はアンジェリカ。」
少し首を傾げる。
「あなたは?」
アウローラは耳を伏せ、小さく俯いた。
「あ……。」
照れ臭そうにもじもじする。
「アウローラ……だ。」
「アウローラちゃんね。」
アンジェリカは嬉しそうに名前を繰り返した。
その呼び方だけで胸が熱くなる。
アウローラは困ったように頭を掻いた。
「すまねえ……。」
視線を合わせられない。
「アタシ、子供の頃には一人だったから。」
ぽつりと漏らす。
「アンタみたいな優しい人と、どう接したらいいかわからないんだ。」
その言葉に、アンジェリカは少しだけ目を潤ませた。
そして、そっと猫耳の間へ手を伸ばし、優しく頭を撫でる。
「なら。」
穏やかに微笑んだ。
「私のことを母親だと思って。」
アウローラが顔を上げる。
アンジェリカは少し寂しそうに笑った。
「ちょうど主人は亡くなって、息子は家を出て行ってね。」
遠くを見るように呟く。
「寂しいなって思ってたところなのよ。」
その言葉を聞いた瞬間。
アウローラの中で何かが切れた。
「……母親。」
その響きを何度も確かめる。
「ママ……。」
次の瞬間。
椅子を降りてアンジェリカへ飛び付いた。
ぎゅっと抱き締める。
子供のように。
堰を切ったように泣き出した。
「アタシ怖かった……!」
肩を震わせる。
「もう生きて帰れないと思った……!」
アンジェリカは何も言わなかった。
ただ、娘をあやす母親のように優しく抱き返し、その背中を何度も何度も撫で続けた。
「もう大丈夫。」
静かな声が耳元で響く。
「ここにはあなたを傷付ける人はいないわ。」
その温もりの中で。
アウローラは、生まれて初めて「母親」の胸で泣いた。
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鍋の底まで、きれいだった。
最後の一口のミネストローネを飲み干し、焼きたてのパンで皿をぬぐうようにして食べ終える。
アウローラはしばらく呆然と空になった器を見つめていた。
「……なくなっちまった」
自分でも信じられないほど食べていた。
アンジェリカは目を丸くしたあと、くすりと微笑む。
「すごーい」
空っぽになった大鍋を覗き込みながら嬉しそうに笑う。
「この鍋が一気になくなるなんて……あの人とクリスティアンがいた頃みたい」
その一言だった。
アウローラの耳がぴくりと立つ。
「クリスティアン!!??」
勢いよく立ち上がった。
アンジェリカは目をぱちくりさせる。
「ん? どうかした?」
アウローラは無言で近付く。
そして。
すんすん。
アンジェリカの肩へ顔を寄せ、猫のように匂いを嗅ぎ始めた。
「え、え?」
アンジェリカは困ったように笑う。
アウローラは真剣な顔のまま何度も匂いを確かめる。
「やっぱりだ……」
ぽつりと呟く。
「ママ……もしかしてクリスティアン・ビリンデッリのママなのか?」
アンジェリカは目を見開いた。
「あら?」
思わず口元へ手を当てる。
「あの子の知り合いだったの?」
今度はアンジェリカが驚く番だった。
まさか辺境の村で保護した猫獣人の娘が、息子の知り合いとは思いもしなかった。
「まぁまぁ」
楽しそうに笑い始める。
「あの子ったら……剣一筋なんて言ってたのに、こんな可愛い子と知り合いになってたのね」
その言葉に。
アウローラの脳裏へ、ある光景が蘇る。
浜辺。
泣きながら抱き締めたクリスティアン。
そして。
自分から奪った――あの深い口づけ。
「~~~~っ!!」
耳まで真っ赤になる。
尻尾がぼんっと膨らんだ。
「べ、別にそんな関係じゃねぇし!」
慌てて顔を背ける。
そして思い出してしまった。
クリスティアンは今頃セリーナと……。
「クソガ……」
言いかけて。
アンジェリカの前では慌てて言い直す。
「く、クリスティアンなら今頃、水商売の女と乳繰り合ってるから!」
ぷいっと横を向く。
「もうあんな奴知らない!」
頬を膨らませる。
アンジェリカは一瞬固まった。
「まぁ!」
両手で頬を押さえる。
「あの子ったら!」
呆れたように天井を見上げる。
「何しにサンシーロへ行ったのかしら!?」
アウローラは思わず吹き出した。
「だろ?」
身を乗り出す。
「ママ! あいつったら訓練生のくせに休暇まで貰いやがって!」
拳を握る。
「普段『父様! 父様!』ってうるさいくせによ!」
さらに身振り手振りが大きくなる。
「信じられねぇよな!!」
アンジェリカはその様子を見つめ――。
ふふっ、と肩を震わせた。
「うふふ……」
やがて堪え切れず。
「あははははっ!」
家中に笑い声が響いた。
アウローラもつられて笑ってしまう。
しばらく二人で笑い続けたあと。
アンジェリカは優しい眼差しを向けた。
「そうなんだ……」
どこか安心したように微笑む。
「ねぇ、アウローラ」
そっと手を握る。
「あの子の話……もっと聞かせて?」
アウローラの猫耳がぴんと立つ。
満面の笑みになった。
「うん!」
その返事は、とても明るかった。
そして心の中で、小さく思う。
(あいつがマザコンなのも……)
アンジェリカの柔らかな笑顔を見る。
優しく頭を撫でてくれた温もりを思い出す。
(こりゃ仕方ねぇな)
自然と笑みが零れた。
そしてもう一つ。
(それに……)
アンジェリカの横顔を眺める。
(ママって……セリーナさんに少し似てるな)
そんなことを考えながら。
アウローラは初めて戦場の悪夢を忘れ、穏やかな笑顔を浮かべた。




