episode4(ambush)Chapter5
教会の中は静まり返っていた。
泣き疲れたアウローラは祭壇の前に座り込み、ぼんやりと床を見つめている。
ダミアーノ神官は深く息を吐いた。
「……暫くは心のケアが必要ですね。」
穏やかな声だった。
しかし、その表情には僅かな苦悩が浮かんでいる。
「命は取り留めましたが、心の傷はそう簡単には癒えません。」
白い髭を撫でながら苦笑する。
「しかし私は小さな教会に住む身……。」
ぽりぽりと頭を掻いた。
「もう高齢でございますし。」
視線をアウローラへ向ける。
「動物の猫ならともかく、獣人で……しかも娘さんとなると、私では十分なお世話は難しいでしょう。」
村人たちも顔を見合わせる。
誰も悪意はない。
だが、どう接すればいいのか分からないのだ。
その時だった。
「私が連れて帰ります。」
凛とした声が教会に響いた。
皆が振り向く。
アンジェリカだった。
彼女は穏やかに微笑みながら続ける。
「幸い主人の部屋と子供の部屋が空いています。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「獣人さんはサンシーロで暮らしていた頃、お隣さんでしたし……。」
懐かしむように目を細めた。
「子供の頃には猫ちゃんも飼っていましたので。」
その言葉には、不思議と人を安心させる温かさがあった。
ダミアーノ神官の表情がぱっと明るくなる。
「これは心強い。」
胸に手を当て、深々と頭を下げた。
「ではアンジェリカ婦人。」
穏やかに微笑む。
「よろしくお願いいたします。」
「はい。」
アンジェリカも優しく頭を下げ返した。
そしてゆっくりとアウローラの前へしゃがみ込む。
警戒させないように。
目線を合わせながら、柔らかく微笑む。
「さぁ、猫ちゃん。」
優しく両腕を広げる。
「怖がらなくていいわよ。」
その声音は、まるで母親が幼い子供へ語り掛けるようだった。
「帰りましょう。」
アンジェリカはそっとアウローラを抱きしめた。
温かかった。
優しい石鹸の香り。
柔らかな体温。
胸に耳を当てると、ゆっくりとした鼓動が聞こえる。
アウローラは驚いたように目を瞬かせた。
「……なんでだろう。」
小さく呟く。
「物凄く落ち着く……。」
張り詰めていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
涙も。
震えも。
いつの間にか止まっていた。
アンジェリカは何も言わず、ただ優しく背中を撫で続ける。
その温もりに包まれながら。
アウローラはゆっくりと瞼を閉じた。
まるで母猫に抱かれた子猫のように。
安心しきった表情で、アンジェリカの胸の中で静かな寝息を立て始めた。
アンジェリカはその小さな身体をそっと抱き直し、慈しむように微笑んだ。
「もう大丈夫。」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
「ゆっくり休みなさい。」
教会へ差し込む午後の柔らかな陽光が、一人の母と、一匹の迷い猫のような少女を静かに照らしていた。
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柔らかな陽射しが、窓から差し込んでいた。
ベッドの上では、アウローラが穏やかな寝息を立てている。
夢の中だった。
そこには戦場も、血も、悲鳴もない。
石畳の広場。
海風の吹くサンシーロ。
隣には、少し照れくさそうに笑うクリスティアンがいた。
「ほら、アウローラ」
「ん?」
「今日は何食べる?」
「全部!」
「全部って……」
呆れながら笑うクリスティアン。
アウローラも尻尾をぶんぶん振る。
「今日はデートなんだから遠慮しねぇ!」
「はいはい」
二人は笑いながら並んで歩く。
屋台で魚を買い。
パンを分け合い。
市場を歩き。
海を眺める。
ただそれだけなのに。
幸せだった。
夢の中のアウローラは自然と笑っていた。
そして。
眠ったまま、小さく呟く。
「……うにゃあ……」
口元が緩む。
「……クソガキの匂い……」
寝言だった。
その頃。
部屋の隣では、アンジェリカが小さな台所に立っていた。
鍋の中では、トマトソースがことことと優しい音を立てている。
玉ねぎを炒める甘い香り。
オリーブオイルの香り。
湯気と共に広がる完熟トマトの温かな匂い。
「昨日から何も食べてないのでしょうね」
アンジェリカは独り言のように微笑む。
「まずは胃に優しいものを……」
木べらでゆっくり鍋を混ぜる。
家庭の匂い。
それは戦場とはあまりにも縁遠い香りだった。
その香りが。
眠る猫獣人の鼻先へ届く。
ぴくっ。
耳が動く。
もう一度。
くん。
くん。
トマト。
温かいパン。
煮込まれた野菜。
食欲を刺激する香り。
そして。
「……にゃ!!」
アウローラが勢いよく飛び起きた。
「!?」
呼吸を乱しながら周囲を見回す。
その物音にアンジェリカが慌てて部屋へ入ってくる。
「あら?どうしたの?」
ベッドの傍へ駆け寄り、優しく背中をさする。
「大丈夫?」
その瞬間。
ぐぅぅぅぅぅ……
部屋中に響くほど盛大な腹の虫が鳴いた。
「…………」
アウローラは固まる。
数秒後。
「にゃぁぁぁぁ……」
顔を真っ赤に染めると、慌ててシーツを頭まで被った。
「み、見るなぁ……」
恥ずかしさで耳まで赤い。
アンジェリカは思わず口元へ手を添えた。
「あらあら」
優しく笑う。
「お腹が空いてるのね。」
シーツ越しに頭をそっと撫でる。
「今食べる物を作ってるから、もう少しだけ待っててね。」
その声は母親そのものだった。
シーツの中。
アウローラは小さく鼻を鳴らす。
くん。
くん。
「…………」
もう一度嗅ぐ。
くん。
「……間違いない」
小さく呟く。
「クソガキの匂い。」
目を丸くする。
シーツへ顔を埋め、何度も匂いを確かめた。
「でも……」
不思議そうに首を傾げる。
「どうして?」
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「出来たわよ」
アンジェリカが優しく声をかける。
食卓の中央には、大きな鉄鍋がどんと置かれていた。
鍋いっぱいに煮込まれたミネストローネ。
真っ赤な完熟トマトをじっくり煮崩し、玉ねぎ、人参、じゃがいも、セロリ、白いんげん豆、キャベツが惜しみなく入っている。
野菜は形を残しながらも柔らかく煮込まれ、木杓子で混ぜるたびに甘く優しい湯気が立ち上った。
仕上げに散らされた香草と、溶け始めたチーズがゆっくりとスープへ溶け込み、部屋中を包み込むような温かな香りを漂わせる。
隣には焼きたての丸パン。
こんがりと狐色に焼き上がった表面は薄く香ばしく、指で軽く押すだけでふわりと弾む。
割れば真っ白な湯気が立ち上り、小麦の甘い香りが鼻をくすぐった。
「いっぱい作ったから遠慮しないでね」
アンジェリカはそう微笑み、木椀へたっぷりとミネストローネを注ぐ。
野菜がごろごろと音を立てて器へ落ち、最後に黄金色のオリーブオイルを一筋垂らした。
湯気がふわりと立ち上る。
アウローラの耳がぴくりと動いた。
「にゃ……」
鼻がひくひくと震える。
香りだけで唾が込み上げる。
トマトの優しい酸味。
煮込まれた野菜の甘み。
焼きたてのパンの香ばしい匂い。
戦場で嗅いできた血と火薬の臭いとは、あまりにも違う。
生きている者だけが囲める食卓の匂いだった。
「いただきます」
アンジェリカが手を合わせる。
アウローラは器を見つめたまま、ごくりと喉を鳴らした。
その瞳には、涙が滲んでいた。




