episode3(vacation)Chapter20
セリーナは銀のスプーンをそっと持ち上げ、優しく微笑んだ。
「ほら。食べてみて」
「は、はい」
クリスティアンは少し緊張した面持ちで、リモーネのジェラートをひとさじ掬う。
淡い黄色のジェラートが舌の上でゆっくりとほどけた。
まず広がったのは、搾りたてのレモン果汁の瑞々しい酸味。
しかし酸っぱいだけではない。
その奥から、細かく刻まれたレモンピールのほろ苦さと爽やかな香りがふわりと鼻へ抜け、ミルクの柔らかな甘みが全体を優しく包み込む。
後味は驚くほど軽やかで、夜風のような清涼感だけが口の中に残った。
思わずもう一口運びたくなる。
そんな上品な味だった。
クリスティアンは思わず目を細める。
「あっ……美味しい」
照れたように呟く。
その反応を見て、セリーナは嬉しそうに目を細めた。
「でしょ」
今度は自分のノッチョラを一口。
香ばしく焙煎されたヘーゼルナッツの豊かな香りが漂い、幸せそうに頬を緩める。
「やっぱり、ここのジェラートは最高ね」
クリスティアンはセリーナを見つめながら小さく笑った。
「セリーナさんって……こういうお店、本当に似合いますね」
「そう?」
「はい。なんというか……」
言葉を探す。
「映画の中の人みたいです」
セリーナはくすっと笑った。
「ふふっ。そんなこと初めて言われたわ」
「ほ、本当です!」
慌てるクリスティアン。
「俺、嘘は苦手なんです」
「知ってる」
セリーナは優しく微笑む。
「だからいいの」
店の窓から夜の街を眺める。
石畳を歩く恋人たち。
街灯に照らされる噴水。
夜風がレースのカーテンを静かに揺らした。
しばらく沈黙が続く。
不思議と気まずさはなかった。
セリーナがエスプレッソを一口飲み、ふと呟く。
「ねぇ、クリスティアンくん」
「はい」
「今日は楽しかった?」
クリスティアンは少し考えてから笑った。
「正直……今まで生きてきた中で一番緊張しました」
「ふふっ」
「でも」
彼は真っ直ぐセリーナを見る。
「一番楽しい一日でもありました」
その一言に、セリーナの表情が少しだけ柔らかくなる。
「そんなこと言われたら……」
小さく息をつく。
「また誘いたくなっちゃうじゃない」
クリスティアンは驚いて顔を上げた。
「えっ?」
「迷惑だった?」
「い、いえ!」
勢いよく首を振る。
「むしろ……ぜひ」
声が少し裏返る。
「また一緒に来たいです」
セリーナはその様子が可笑しくて、肩を震わせながら笑った。
「うふふ……本当に素直ね」
彼女はテーブルの上で、そっとクリスティアンの手の甲へ自分の指先を重ねる。
一瞬だけ。触れるか触れないかほどの距離。
「そういうところ……」
優しい眼差しで見つめる。
「パオロ様には、あまり似ていないわ」
「え?」
「あなたはあなた」
静かに微笑む。
「だから私は、クリスティアンくんと話していて楽しいの」
その言葉に、クリスティアンの胸はどくりと高鳴った。
父の面影ではなく。
“自分自身”を見てくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
照れ隠しのようにジェラートをもう一口頬張る。
するとセリーナが悪戯っぽく笑う。
「そんなに急いで食べたら頭がキーンってなるわよ?」
「そんなこと…」
言い終わる前だった。
「っ……!」
クリスティアンは額を押さえた。
「いたっ……」
セリーナは堪えきれず吹き出す。
「あははっ!」
上品だった彼女が、年相応の少女のように笑っていた。
「だから言ったのに」
クリスティアンも苦笑する。
「面目ないです」
「うふふ……」
セリーナは嬉しそうに微笑む。
「今日は、いっぱい笑わせてもらったわ」
夜はまだ静かに更けていく。
甘いジェラートの余韻と、香り高いエスプレッソ。
そして二人の穏やかな笑い声だけが、閉店間際の店内に優しく響いていた。
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夜のサンシーロ広場。
石畳は街灯の柔らかな橙色に照らされ、噴水の水音が静かに響いている。
昼間の喧騒とは違い、今は恋人たちの穏やかな笑い声が夜風に溶けていた。
店を出た二人は、ゆっくりと並んで歩く。
すると、セリーナが再び自然な仕草でクリスティアンの腕へ自分の腕を絡ませた。
豊かな髪が肩をかすめ、甘いベリーの香りがふわりと漂う。
クリスティアンは一瞬身体を強張らせた。
「……あ、あの、セリーナさん」
「なあに?」
「さっきから……あ……当たってます」
耳まで真っ赤に染めながら、小さな声で言う。
セリーナは歩みを止めず、そのまま彼の耳元へ唇を寄せた。
「当ててるのよ」
吐息と一緒に囁かれた一言。
「っ……!」
クリスティアンの顔は一気に真っ赤になる。
耳も首筋も熱くなり、視線を合わせることさえできない。
そんな反応が可笑しくてたまらないというように、セリーナは肩を震わせた。
「うふふふ……」
そして堪えきれず笑う。
「そんなに真っ赤になることないじゃない」
クリスティアンは口をぱくぱくさせるばかりだった。
「そ、それは……無理ですよ……」
セリーナはくすりと笑いながら前方を指差す。
「あそこに座りましょ」
視線の先には、噴水を囲むように並ぶ白いベンチがあった。
「は、はい!」
慌てて歩幅を合わせ、クリスティアンはそっと彼女をエスコートする。
二人が腰を下ろすと、周囲には思い思いに寄り添う恋人たちの姿が広がっていた。
肩を寄せ合う者。
笑い合う者。
静かに夜景を眺める者。
どのベンチにも、小さな幸せが灯っているようだった。
セリーナはその光景を優しく見渡しながら微笑む。
「ここはね。若者のデートの定番スポットよ。」
少しだけ照れくさそうに笑って続ける。
「まぁ、私が来るには少し歳を重ねちゃったけど……クリスティアンくんが相手なら違和感ないわ」
そう言って、彼の手をそっと包み込む。
柔らかく温かな手だった。
クリスティアンは心臓が跳ねるのを感じた。
「そ……そうなんですね……」
周囲を見渡しながら呟く。
「みんな……大胆ですね」
セリーナは楽しそうに笑う。
「あら?」
「デートスポットでハグやキスなんて当たり前よ。」
「大胆でもなんでもないわ」
クリスティアンは思わず視線を逸らした。
「そ、そういうものなんですか……」
「ええ。」
セリーナは優しく頷く。
「ここで少しずつ距離を縮めて、お互いをもっと知っていくの。」
「そうやって恋人になっていく人たちも多いのよ。」
彼女はそう言いながら、そっとクリスティアンの頬へ手を添えた。
指先は驚くほど優しかった。
「サンシーロでは、恋も人生の大切な時間だから。」
クリスティアンは何も言えなかった。
胸の鼓動だけが、やけに大きく響いている。
その反応を見つめていたセリーナは、ふっと吹き出す。
「くすっ」
そして。
「あはははは!」
夜の広場に、鈴のような笑い声が響いた。
クリスティアンは目を丸くする。
「え……え……?」
「ど、どうしました?」
セリーナは笑いながら目元を指で拭う。
「だって、おかしくて。」
「せっかく整ったお顔なのに、緊張で全部台無しなんだもの。」
クリスティアンはさらに赤くなる。
「そ、そんな……」
セリーナは愛おしそうに彼を見つめ、前髪を指先でそっと整えた。
「大丈夫。」
「私が治してあげる。」
そう囁くと、彼女はゆっくりと距離を縮める。
クリスティアンは息を呑み、その場で固まった。
セリーナは彼の反応を確かめるように微笑み、そっと唇を重ねた。
それは短く、優しく、夜風のように穏やかな口づけだった。
唇が離れると、セリーナは額を軽く寄せ、照れ笑いを浮かべる。
「ふふ……これで少しは緊張、ほぐれたかしら?」
クリスティアンは言葉にならず、ただ顔を真っ赤にしたまま小さく頷いた。
その様子を見たセリーナは、どこか懐かしむように、そして嬉しそうに微笑む。
2度目のキスは、太陽の匂いと魚介の味ではなく、甘いベリーの香りと濃いヘーゼルナッツの甘い味がした。




