episode3(vacation)Chapter14
朝の潮風が二人の間を吹き抜けた。
アウローラはクリスティアンの胸元へ額を預けたまま、小さく鼻をひくつかせる。
「……嫌な女の臭いがする。」
少しだけジトっとした目で見上げる。
クリスティアンは一瞬固まった。
「え……。」
視線が泳ぐ。
「き、気のせいだろ。」
「まぁいいや。」
アウローラは肩をすくめる。
「浮気はアタシがいない間にしろ。」
「おいおい、浮気って……。」
思わず苦笑するクリスティアン。
するとアウローラは人差し指で彼の鼻先をつついた。
「バーカ。」
呆れたような目を向ける。
「一夫多妻制が許されるのは正規軍だけだ。訓練生が調子乗んな。」
「馬鹿野郎。」
クリスティアンは顔をしかめる。
「セリーナさんはそんな関係じゃ……。」
その瞬間。アウローラの片眉がぴくりと動いた。
「……アタシがいつセリーナさんだって言ったよ。」
「……!」
クリスティアンの表情が凍る。
「あっ……。」
慌てて両手で口を押さえた。
アウローラは深いため息をつく。
「ったく……。」
呆れ半分、拗ね半分。
「これだから童貞のクソガキは。」
頬を膨らませながら砂浜へ視線を落とす。
「お前みたいなのが好きそうな女だもんな。」
小石をつま先で転がす。
「まともに相手なんかされねえからやめとけ。」
クリスティアンは困ったように頭を掻いた。
「すまない。」
少し言いにくそうに続ける。
「今日の夜……会うんだ。」
「知ってる。」
アウローラは即答した。
「一丁前にメモを机に置きっぱなしにしやがって。」
「いつの間に!?」
目を丸くするクリスティアン。
アウローラは少しだけ照れ臭そうに笑う。
「だからキスしたんだ。」
遠く海を見つめながら呟く。
「泥棒猫に取られる前に。」
クリスティアンは思わず吹き出した。
「猫のお前が言うな。」
「ふん。」
アウローラは鼻を鳴らす。
「身体はあの女に譲ってやる。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「……でも、キスはアタシが最初だ。」
「お前何言ってんだ……。」
クリスティアンは苦笑する。
「セリーナさんがそんなつもりなわけ……」
「テメェは女を何も解っちゃいねえ!!」
アウローラが遮るように叫んだ。
少しだけ涙を滲ませながら笑う。
「あーあ……。」
空を見上げる。
「死ぬ前に……綺麗なままの身体のクソガキに甘えたかったな。」
クリスティアンは首を横に振る。
「だから違うって。」
「違うもんか!」
思わず声を荒らげるアウローラ。
その瞬間だった。
クリスティアンは彼女の肩へそっと手を添える。
そして迷いを振り払うように静かに顔を寄せ、もう一度そっと唇を重ねた。
短く。
けれど今度は彼自身の意思で。
唇を離すと、そのままアウローラを強く抱き寄せる。
「絶対に死ぬな。」
震える声だった。
「帰ってこい。」
アウローラの瞳から大粒の涙が溢れる。
堪えていたものが一気に崩れ落ちた。
彼の胸へ顔を埋めながら、しゃくり上げる。
「……バカヤロウ。」
それだけ言うのが精一杯だった。
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二人のいる浜辺を見下ろす遊歩道。
街路樹の陰に、一人の男が腕を組んで立っていた。
ケイスケだった。
最初は任務へ送り出すため、アウローラを連れ戻そうと思っていた。
だが。目の前の光景を見て、小さく笑う。
「そろそろ首根っこ捕まえようと思ってたが……。」
帽子を目深に被り直す。
「あと十分だけ許してやるか。」
そう呟くと、二人に気付かれないよう静かに背を預け、波音に耳を傾けた。
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しばらく抱き合ったまま、二人は波の音だけを聞いていた。
やがてアウローラが小さく鼻を鳴らし、クリスティアンの顔を見上げる。
「なぁ。」
「ん?」
「初めてのキスはどんな味だった?」
クリスティアンは少しだけ考えてから真面目な顔で答えた。
「……色んな魚介の味だ。」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「んにゃぁあああああ!!」
バシッ!
アウローラの爪が容赦なくクリスティアンの頬を掠める。
「いてぇっ!」
「バカ!!」
顔を真っ赤にしながらアウローラが叫ぶ。
「そこは『甘酸っぱい』とか言うんだろ普通!!」
クリスティアンは引っ掻き傷を押さえながら呆れたように肩をすくめた。
「あれだけ魚食ってるんだから、そりゃそうだろ。」
「そういう問題じゃねぇぇぇ!」
浜辺にアウローラの叫び声が響き渡る。
その時だった。
ひょい。
「うにゃっ!?」
突然、首根っこを掴まれる。
アウローラの身体が猫のように宙へ持ち上がった。
振り返ると。
そこには青と黒の鎧を身に纏い、戦闘帽子を深く被ったケイスケが立っていた。
もう酒臭さはない。
いつもの豪快な男ではなく、一人の戦士の顔だった。
「ほら捕まえた。」
ケイスケがニヤリと笑う。
「そろそろ出発だぞ、エロにゃんこ。」
「うにゃあああ!!」
アウローラは顔を真っ赤にして両手で自分の顔を隠す。
「オッサン全部見てたのか!?」
「ガハハ。」
ケイスケはわざとらしく首を傾げた。
「何のことだ?」
そしてクリスティアンへ視線を向ける。
ほんの少しだけ。寂しそうに笑って。
「小僧……セリーナを頼むな。」
それだけ言い残すと、アウローラの首根っこを掴んだまま歩き始める。
「うにゃあああ!離せオッサン!」
「暴れるな暴れるな。」
「クソオッサーン!!」
猫のようにもがくアウローラを引きずるようにして、ケイスケは港の方へ歩いていく。
クリスティアンはその背中を見つめた。
拳を強く握る。
「ケイスケさん!!」
声を張り上げる。
「また飲みに行きましょう!!」
目には涙が浮かんでいた。
「……絶対に。」
その言葉に。ケイスケは振り返らなかった。
ただ片手を軽く上げ。
口元だけでニヤリと笑ってみせた。
その背中は朝日に照らされながら、アウローラと共に戦場へ続く道へ消えていった。
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サンシーロ王国、西門
王都から西へ延びる大街道には、昼から人が溢れていた。
だが、その賑わいは祭りのものではない。
出征を見送るために集まった人々だった。
クリスティアンは静かに国境へ続く街道を見つめる。
そこには様々な家族の姿があった。
幼い子どもを抱き締める父。
夫の鎧を何度も撫でる妻。
老いた両親へ深々と頭を下げる騎士。
誰もが笑顔を作ろうとしていた。
それでも。
目には涙が滲んでいる。
風に揺れているのは、白と黒。
そして赤と黒。
ビアンコ・ネーロとロッソ・ネーロを象徴する二色のハンカチだった。
「必ず帰ってきて!」
「無茶だけはしないで!」
「お父さんー!!」
あちこちから涙声が響く。
別れを惜しむ抱擁。
震える手。
笑顔を作ろうとして崩れる表情。
その全てが、戦争という現実を物語っていた。
クリスティアンは胸の奥が締め付けられるような思いで、その光景を見つめていた。
その時だった。
「クリスティアン。」
落ち着いた声が背後から聞こえる。
振り返る。
そこには赤と黒の鎧を纏ったマウロが立っていた。
堂々とした立ち姿。
隊長としての風格を漂わせている。
クリスティアンは反射的に背筋を伸ばえ、右拳を胸へ当てる。
サンシーロ式の敬礼。
「マウロ隊長もご出撃で?」
マウロは静かに首を横へ振った。
「いや。」
クリスティアンの隣へ並び、街道を見つめる。
「我々はビアンコ・ネーロの先輩方の見送りだ。」
少しだけ視線を落とした。
「ゼネラリのような激戦区には、ロッソ・ネーロは派遣されない。」
その声音には、わずかな悔しさが滲んでいた。
自分も戦いたい。
だが、まだその資格はない。
そんな複雑な感情が見え隠れしていた。
その時。
ガラガラガラ……
重い車輪の音が響く。
白と黒の旗を掲げた馬車が、次々と西門を通り抜けていく。
ビアンコ・ネーロ。
正規軍。
王国最精鋭の部隊だった。
兵たちは静かに前だけを見つめている。
家族へ最後まで笑顔を向ける者。
拳を高く掲げる者。
何も言わず目を閉じる者。
それぞれが、それぞれの覚悟を胸に戦場へ向かっていた。
やがて一台の馬車がクリスティアンの前を通る。
「あ……。」
思わず声が漏れた。
「あれは……第二番隊。」
先日、訓練を見学した部隊だった。
窓際にはフェラーラ隊長の姿がある。
いつもの豪快な笑顔はない。
真っ直ぐ前だけを見つめる、その横顔は張り詰めていた。
「フェラーラ隊長……。」
クリスティアンは呟く。
「あんな顔するんだ。」
マウロは静かに頷く。
「ゼネラリは双方にとって重要な拠点だ。」
視線は馬車へ向けたまま。
「一番の激戦区と言ってもいい。」
そして小さく息を吐く。
「神妙な顔にもなるさ。」
その時。
横から明るい声が飛んできた。
「クリスティアンさーん!」
振り向くとベルナルドが手を振りながら駆け寄ってきた。
「クリスティアンさんも見送りに?」
「え、えぇ。」
クリスティアンは頷く。
「仲間を見送りに。」
ベルナルドは嬉しそうに笑った。
「僕も今日は一般の馬車が全部運行停止になったので、ついでに騎士団の出撃を見たくて!」
その無邪気な様子を見て。
マウロは静かにベルナルドへ視線を向けた。
「……この方は?」
どこか冷静で、警戒心を含んだ眼差しだった。
クリスティアンは慌てて説明する。
「昨日、博物館で知り合った一般の方で……。」
マウロはベルナルドへ一礼した。
「失礼。」
穏やかな口調だった。
「出来れば見送りは関係者以外はご遠慮いただきたい。」
一度、周囲で泣きながら別れを惜しむ家族へ視線を向ける。
「黙認はされていますが……。」
そして静かに続けた。
「特に今日は、ご家族を優先したいので。」
ベルナルドは慌てて何度も頷く。
「はい!邪魔にならないところにいますね!」
そう言うと、すぐ離れた場所へ移動していった。
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ベルナルド・パヌッチ。
その仮面の奥で。
ヴィクトール・ナダルは静かにマウロを見つめる。
(あれがサンシーロの未来と言われているマウロ・ミッコリか……。)
僅かに目を細める。
(なるほどな。)
昨日出会った若者とは違う。
周囲への目配り。
警戒心。
立ち居振る舞い。
隊長としての資質が既に備わっている。
(昨日のやつよりは、しっかりしている。)
そして、西へ向かう長い馬車の列を眺め、小さくため息をついた。
(しかし……ジョルディ様も人が悪い。)
内心で苦笑する。
(俺をサンシーロへ派遣していると知りながら、ゼネラリへ総攻撃だなんて。)
肩を竦める。
(……休暇が延びそうだな。)




