episode3(vacation)Chapter13
サンシーロ市場。
早朝だというのに、港に隣接する屋台食堂「フリアニ」はいつも以上の賑わいを見せていた。
だが。昨日とは空気が違う。
笑い声は少ない。
代わりに響くのは、皿を打つフォークの音と、料理を掻き込む音ばかりだった。
市場中に漂う潮の香り。
炭火で焼かれる魚介の香ばしい匂い。
熱気に包まれた屋台の中で、猫獣人たちは誰もが無言で皿を平らげている。
まるで――最後の晩餐ならぬ、最後の朝食であるかのように。
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「ほらよ!」
大将が神妙な表情で大皿を二人の前へ並べた。
薄く切られた真鯛とタコのカルパッチョ。
朝揚がりの魚だけを使った一皿で、透き通るような身にオリーブオイルが艶を与え、刻んだ香草と柑橘の香りがふわりと立ち上る。
続いて運ばれてきたのはヒラメのボレート。
新鮮なヒラメを香味野菜や白ワインと共にじっくり煮込んだ料理で、身は箸を入れただけでほろりと崩れるほど柔らかい。
さらに。
大皿いっぱいのスパゲッティ・アッラ・ペスカトーラ。
タラ、スズキ、ムール貝、海老を惜しげもなく使った港町自慢の漁師風パスタだ。
魚介から溶け出した旨味がトマトソースへ溶け込み、湯気と共に濃厚な潮の香りが立ち昇る。
しかし。今のアウローラに笑顔はない。
「いただきます」
その一言と同時に、フォークが止まらない。
カルパッチョを飲み込む。
ボレートを頬張る。
ペスカトーラを巻き取る。
噛む。
飲む。
また掴む。
まるで誰かに奪われる前に食べ切ろうとするかのような勢いだった。
夢中だった。
味わうというより。
身体へ刻み込むように食べ続けていた。
その姿は食事というより、生きるための儀式にも見えた。
一方クリスティアンの前には、真っ黒なパスタが置かれていた。
「これは……?」
「スパゲッティ・アル・ネロ・ディ・セッピアだ。」
大将が笑う。
「イカ墨を使った港町名物よ。」
イカ墨の濃厚な旨味をソースに仕立てた漆黒のスパゲッティ。
見た目こそ真っ黒だが、口へ運べば磯の香りとほのかな甘み、凝縮された魚介のコクが広がる一品だった。
クリスティアンは感心しながらフォークを回す。
「美味いな……。」
そして隣を見る。
アウローラはまだ必死にペスカトーラを口へ運んでいた。
「そんなにガッつくと喉に詰まるぞ。」
ぽつりと言った瞬間だった。
「んぐっ……!」
アウローラの肩が震えた。
「げほっ!げほっ!」
案の定、パスタを喉へ詰まらせてしまう。
「ほら言わんこっちゃない。」
クリスティアンは苦笑しながら炭酸水をグラスへ注ぎ、差し出した。
アウローラは無言で受け取り、一気に飲み干す。
「ぷはぁ……。」
ようやく息を整えると、礼も言わず再び料理へ向かった。
クリスティアンは店内を見回した。
「昨日より猫獣人が大量だな……。」
市場の席という席に猫獣人たちが座っている。
誰もが魚料理ばかり注文していた。
焼き魚。
カルパッチョ。
貝料理。
海老料理。
そして全員が。無言で。夢中になって食べている。
アウローラも返事をしない。
ただ黙々とフォークを動かしていた。
「……よく食うな。」
その呟きだけが静かに零れる。
その時。大将が皿を一枚持ってきた。
「サービスだ、猫娘。」
揚げたてのタコのフリット。
衣は黄金色に揚がり、湯気が立っている。
アウローラは何も言わない。
ただ塩を大量に振りかける。
そして。熱さも構わず口へ放り込んだ。
噛む。
飲み込む。
また掴む。
その手は一瞬たりとも止まらない。
クリスティアンはもう一度店内を見渡した。
どの卓も同じだった。
猫獣人たちは笑っていない。
談笑もしない。
ただ。
最後の朝食を惜しむように。
最後に魚の味を身体へ刻み込むように。
必死に食べ続けていた。
その光景を見て。
クリスティアンは静かに呟く。
「……これがネラッズーロの戦場前か。」
アウローラのフォークが止まる。
小さく息を吐き。
ようやく口を開いた。
「戦場はゼネラリなんだ……。」
視線は皿へ落ちたまま。
「魚なんか食えねえ。」
少し笑う。寂しそうに。
「これが最後の魚かもしれねえ。」
クリスティアンも言葉を失う。
「激戦区だよな……。」
アウローラは静かに頷いた。
「アタシらネラッズーロは……なんだかんだ弾除けだ。」
苦笑する。
「激戦区にしか連れて行かれねえよ。」
重い沈黙が流れる。
市場の喧騒だけが遠く響いていた。
やがて。クリスティアンが静かに言う。
「帰ってこいよ。」
アウローラは少しだけ目を閉じた。
そして。力なく笑う。
「約束は出来ねえ……。」
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食事を終えた二人は、市場の喧騒を離れ、朝の静かな浜辺へ戻ってきた。
波は穏やかに寄せては返し、潮風だけが二人の間を通り抜けていく。
アウローラは何も言わず、クリスティアンの隣へ腰を下ろした。
そして。昨日と同じように、小さく身体を丸めると、そのままクリスティアンの膝へ頭を預けた。
「……。」
何も話さない。
クリスティアンも何も聞かなかった。
ただ、猫獣人特有の柔らかな髪をゆっくりと撫でる。
耳の付け根から背中へ。
優しく何度も。
やがて小さく息を吐き、
「……そろそろ鎧に着替えないと遅刻するぞ。」
静かにそう告げた。
その言葉を聞いた瞬間だった。
「……うっ。」
アウローラの肩が震える。
「うぅ……。」
堪えていた涙がぽろぽろと零れ落ちた。
クリスティアンは手を止める。
アウローラは顔を隠したまま嗚咽を漏らした。
「死にたくねえよ……。」
震える声。
「今回は……今までの戦場とは訳が違ぇ……。」
クリスティアンは遠く水平線を見つめる。
「ジョルディ・バケーロ率いる『ロス・ブランコス』第七番隊……。」
静かに呟く。
「若き頃、父様を亡き者にするきっかけを作った天才剣士率いる……カンプノウ騎士団でも、最も生存者を許さない部隊。」
その名だけで、空気が重くなる。
アウローラは堪えきれず、クリスティアンへしがみつくように抱きついた。
服をぎゅっと掴み、震える声で言う。
「なぁ……。」
少し顔を上げる。
「勇気をくれ。」
「勇気……?」
クリスティアンは意味が分からず首を傾げる。
するとアウローラは涙目のまま頬を赤くし、
「いちいち説明させんな……童貞。」
少しだけ苛立ったように眉を寄せる。
「一つしかねえだろ。」
クリスティアンの顔が一気に赤く染まる。
「だ……だが。しかし……。」
言葉にならない。
心臓だけが激しく鼓動する。
アウローラはそんな彼を見つめると、小さく苦笑した。
「相変わらず鈍いな……。」
そう呟くと、自分からそっと距離を詰める。
そして。
クリスティアンの返事を待つ代わりに、静かに唇を重ねた。
不意を突かれたクリスティアンは目を見開く。
「……!」
アウローラはそのまま少しだけ長く唇を重ね続ける。
潮風だけが二人の間を吹き抜けていった。
やがて静かに離れると、アウローラは照れ隠しのように鼻をすすり、小さく笑う。
「……これで少しは頑張れそうだ。」
涙で濡れた瞳には、ほんの少しだけ先ほどまでにはなかった強さが宿っていた。
クリスティアンは顔を真っ赤にしたまま固まっている。
何も言えない。
何を言えばいいのかも分からない。
ただ、去っていく波の音だけが、二人の沈黙を優しく包んでいた。




