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ビリンデッリの血〜東西大陸百年戦記〜  作者: エリカサファイア
episode0(Prologue)

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episode0(Prologue)Chapter5

夕食が終わる頃には、外はすっかり夜の帳に包まれていた。

窓の向こうでは虫の音が響き、暖かなランプの灯りが食卓を優しく照らしている。

パオロは椅子の背にもたれかかり、大きく息を吐いた。

「ふぅ……。」

満足そうな顔だった。


久々の我が家。

久々の妻の料理。

久々の家族団欒。


戦場では決して得られない幸福がそこにあった。


向かいではクリスティアンもお腹をさすりながら幸せそうに笑っている。

「美味しかったぁ……。」


「だろう?」

パオロが胸を張る。

「アンジェリカの料理は都の高級料理店にも負けん。」


「あなたが作ったわけではありませんよ。」

台所から呆れた声が飛んできた。

アンジェリカだった。

洗い桶の前で食器を洗いながらも、その表情はどこか嬉しそうだった。


パオロは肩を竦める。

「細かいことは気にするな。」


「気にします。」


夫婦のやり取りにクリスティアンは笑った。

そして少しだけ表情を引き締める。

「父様。」


「ん?」


「明日……僕の剣を見てもらえますか?」


パオロは意外そうに眉を上げた。

「どうした?」

笑顔のまま尋ねる。

「剣に迷いでもあるのか?」


クリスティアンは首を横に振った。

「いえ。」

少し考えるように言葉を選ぶ。

「そういうわけではありません。」

拳を握った。

「むしろ最近は自信がついてきました。」

その瞳には確かな自負が宿っている。

「だからこそです。」


「ほう?」


「足りないものを知りたいんです。」


静かな言葉だった。

だがその奥には強い向上心があった。


パオロは息子を見つめる。

そして優しく笑った。

「クリスティアンの剣は、クリスティアンの剣だ。」


「……。」


「今はまだそれでいい。」

穏やかな声だった。

「基本や模倣はもっと経験してからでいい。」


クリスティアンは唇を噛む。

納得しきれない顔だった。

「ですが!」

思わず身を乗り出す。

「僕もそろそろ本格的に剣を習いたく存じます!」

その声には熱があった。

「最高の見本がすぐ側にいるのに……。」

言葉が途切れる。

だが気持ちは伝わっていた。


パオロはしばらく黙っていた。

やがてゆっくりと口を開く。

「クリスティアン。」


「はい。」


「俺はな。」

その声はいつになく静かだった。

「君たちの世代が戦場で剣を振るわずに済むように戦っているんだ。」


クリスティアンの表情が固まる。


パオロは続ける。

「今日、学校でお前の剣を見た。」

微笑む。

「驚いたよ。」


「父様……。」


「太刀筋に無垢さがあった。」

まるで宝物を語るようだった。

「純粋で、真っ直ぐで。」

少しだけ目を細める。

「感銘すら覚えた。」


クリスティアンは息を呑んだ。


パオロはそっと息子の頭を撫でる。

「実戦の剣で汚すのが勿体ないと思うくらいにな。」


その言葉にアンジェリカも手を止めた。

洗った皿を布で拭きながら静かに頷く。

彼女もまた同じ願いを抱いていた。

クリスティアンには戦場へ行ってほしくない。

夫のようになってほしくない。

傷だらけになってほしくない。


だが――。

クリスティアンは俯かなかった。

「それでも……。」

震える声だった。

「僕は父様から剣を習いたいです。」

絞り出すように言う。

「父様の剣を知りたい。」


パオロは黙り込んだ。

部屋が静かになる。

ランプの火が小さく揺れる。

数秒。いや、数十秒だったかもしれない。

やがてパオロは小さく笑った。

「参ったな。」

頭を掻く。

「そこまで言われるとな。」

そして息子の頭をぽんと叩いた。

「よし。」


クリスティアンが顔を上げる。


「わかった。」

パオロは笑う。

「一度だけだぞ。」


その瞬間だった。

クリスティアンの顔がぱっと輝く。

「本当ですか!?」

椅子から立ち上がりそうな勢いだった。

「ありがとうござ――」


ガタン。


突然、台所から音が響いた。

全員が振り向く。


アンジェリカだった。

手から木製の皿を落としてしまっていた。

幸い割れてはいない。

「あっ……。」

アンジェリカ自身も驚いている。

「ご、ごめんなさい。」


慌てて屈もうとした瞬間。

クリスティアンが駆け寄った。

「母様!」

皿を拾い上げる。

「大丈夫ですか?」


「え、ええ。」

アンジェリカは皿を受け取った。

「ありがとう。」

少しだけ笑う。

だがその笑顔の奥にある感情を、クリスティアンはまだ知らない。


嬉しさ。

不安。

恐れ。


様々な感情が入り混じっていた。

アンジェリカは静かに息子を見つめる。

そして優しく微笑んだ。

「よかったわね。」


「え?」


「父様から剣を習えて。」

複雑な心境を隠しながら。

母としての笑顔を作る。


クリスティアンは満面の笑みで頷いた。

「はい!」

その返事はあまりにも嬉しそうだった。


アンジェリカは無理矢理に目を細める。

そんな母子のやり取りを――

パオロは黙って見つめていた。

先ほどまでの柔らかな表情はない。


戦場を知る男の顔。

英雄の顔。

そして父親の顔。


息子の願いは叶えたい。

だが同時に、自分がどこへ足を踏み入れさせようとしているのかも理解していた。


ランプの灯りが揺れる。

誰も気付かないまま。

パオロだけが静かに目を伏せた



--



その夜。

ビリンデッリ家は静かな眠りに包まれていた。


まず眠りについていたのはクリスティアンだった。

自室の小さなベッド。

枕元には愛用の木刀が立て掛けられている。

明日、父から剣を教わる。

その期待を胸いっぱいに抱えながら、少年は幸せそうな寝顔を浮かべていた。

「すぅ……すぅ……」

規則正しい寝息。

どんな夢を見ているのか。

口元にはかすかな笑みすら浮かんでいる。

十歳の少年らしい無邪気な寝顔だった。


一方その頃。

夫婦の寝室には柔らかなランプの灯りだけが残されていた。

窓の外からは涼しい夜風が吹き込み、薄いカーテンを静かに揺らしている。

つい先ほどまで聞こえていた他愛もない会話と熱を帯びた嬌声も途切れ、部屋には穏やかな静寂が満ちていた。


ベッドに腰掛けるパオロは少し疲れたように息を吐く。

額には薄く汗が滲み、傷だらけの身体には安堵と疲労が混ざり合っていた。

長い遠征から帰還し、ようやく家族と夫婦の温もりに触れられた一日だった。


そんな夫の傍らで、アンジェリカは寝衣へ着替えていた。

頬にはまだわずかな紅潮が残り、乱れた長い髪を整えながら静かに紐を結ぶ。

だがその表情はどこか晴れない。


パオロはしばらく妻を見つめていた。

そして苦笑する。

「浮かない顔だな。」

ベッドから立ち上がり、ゆっくりとアンジェリカに近づく。

「誰よりも君を見てきた俺ならわかる。」

そして背後から優しく抱きしめる。


アンジェリカは抵抗しなかった。

ただ小さく目を閉じる。

しばしの沈黙。

やがて彼女が呟いた。

「ならば。」

少し寂しそうな声だった。

「その理由も分かりますよね。」


パオロは苦笑する。

「ああ。」

抱きしめる腕に少しだけ力が入る。

「君は嫌だろうな。」

言葉を選びながら続けた。

「クリスティアンに剣を教えるのは。」


アンジェリカは窓の外へ目を向けた。

月明かりが差し込んでいる。

「気にしないでください。」

そう言ったものの、その声には僅かな震えがあった。

「あなたに嫁いでから。」

小さく微笑む。

「男子が生まれた時点で覚悟の上です。」


その言葉にパオロは目を伏せた。

「俺も嫌さ。」

本音だった。

「クリスティアンには平和に過ごしてほしい。」

戦場の記憶が脳裏をよぎる。


血。

叫び声。

仲間たちの死。

失われていく命。


「……あんな思いをするのは俺で最後にしなきゃいけない。」

静かな声だった。

「だがクリスティアンも男だ。」

遠くを見るような目になる。

「ああも男としての成長と決意を見せられると――」


その時だった。


アンジェリカが振り返る。

いつになく強い眼差しだった。

「ですが。」


パオロが言葉を止める。


「クリスティアンはまだ子供です。」

その声には母親としての想いが込められていた。

「そこはお忘れなく。」


パオロはしばらく何も言わなかった。

やがて小さく笑う。

「敵わないな。」

そして妻の頬へそっと手を添えた。

「君は本当に最高の母親だ。」

優しい声だった。

「誇りに思う。」


アンジェリカの表情が少しだけ和らぐ。


パオロは額へ軽く口づけた。

「おやすみ。」


アンジェリカも微笑む。

「おやすみなさいませ。」


二人は並んでベッドへ入る。

パオロは自然と妻の手を握った。

アンジェリカもその手を握り返す。

言葉はもういらなかった。

長い戦争の中で。

幾度となく生き別れを覚悟しながらも。

二人はこうして同じ夜を迎えている。

それだけで十分だった。


やがてランプの灯りが消える。

静かな寝室に聞こえるのは、二人の穏やかな寝息だけだった。

明日もまた、新しい一日が始まる。

クリスティアンの未来を乗せながら――。

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