episode2(SanSiro)Chapter9
夕暮れ。
育成部の実戦演習場には、重苦しい空気だけが漂っていた。
何度倒されても立ち上がり、何度仲間の連携を乱しても必死に食らいついたクリスティアン。
その代償はあまりにも大きかった。
制服は泥だらけ。
頬は腫れ、唇は切れ、腕や脚には無数の打撲。
肩の古傷も再び開き、滲んだ血が服を赤く染めている。
それでも彼は木弓を握ったまま立っていた。
「……今日の実戦演習、終了。」
セバスティアーノ・バレージが淡々と告げる。
その瞬間だった。
「おい。」
一人の訓練生がクリスティアンの胸ぐらを掴む。
「てめぇのせいで何回負けたと思ってんだ。」
別の訓練生も歩み寄る。
「矢だけ当てても意味ねぇんだよ!」
「立ち回りがゴミなんだよ!」
「何がパオロ・ビリンデッリの息子だ!」
「親の名前だけでここにいる役立たずが!」
囲まれる。
十人近い育成部の生徒たち。
誰も笑ってはいない。
本気で怒っていた。
「す、すまない……。」
クリスティアンは頭を下げる。
「謝って済むなら苦労しねぇ!」
ドゴォッ!!
拳が腹へめり込む。
「ぐっ……!」
さらに横から蹴り。
ガンッ!!
身体が地面を転がる。
「立てよ!」
「お前のせいで俺まで評価が下がるんだ!」
「ふざけんな!」
ドガッ!!
バキッ!!
腹。
背中。
肩。
脚。
容赦なく拳と蹴りが降り注ぐ。
クリスティアンは腕で頭を庇うことしかできない。
「やめ……。」
言葉にならない。
呼吸すら苦しい。
それでも攻撃は止まらなかった。
「才能があるなら一人で勝てよ!」
「足引っ張るくらいなら辞めろ!」
「故郷へ帰れ!」
ゴンッ!!
木弓で背中を叩かれる。
その衝撃で地面に這いつくばる。
血の味が口いっぱいに広がった。
少し離れた場所。
セバスティアーノ・バレージは壁にもたれかかり、煙草に火をつける。
シュッ……
紫煙が静かに空へ昇っていく。
その光景を見ても、止めようとはしない。
ただ黙って煙を吐く。
周囲の教官たちも何も言わない。
訓練場には殴打音だけが響いていた。
クリスティアンは何度も地面へ倒れる。
それでも、
震える腕を地面につき、
また立とうとする。
「まだ立つのかよ!」
ドゴォッ!!
再び蹴り飛ばされる。
泥の上を何メートルも転がった。
視界が揺れる。
耳鳴りがする。
それでも
「……まだ……終わって……ない……。」
震える声で呟く。
その言葉に一瞬、生徒たちの動きが止まる。
だがすぐに怒号が飛ぶ。
「意地張ってんじゃねぇ!」
「現実見ろ!」
再び拳が振り下ろされようとした、その時。
「……今日はそこまでだ。」
セバスティアーノが短く言う。
その一言だけで、生徒たちは拳を止めた。
誰一人反論しない。
育成部では教官の命令は絶対だった。
「チッ……。」
「明日はもっと動けよ。」
「次も邪魔したら容赦しねぇ。」
吐き捨てるように言い、生徒たちは去っていく。
演習場には、
泥だらけで倒れるクリスティアンと、
煙草を吸うセバスティアーノだけが残った。
セバスティアーノは煙草を灰皿へ押し付け、静かにクリスティアンへ目を向ける。
(……さぁ。ここの雑魚共に潰されるか。)
(それとも乗り越えるか。どうだ?)
(ビリンデッリ家の跡取り。)
クリスティアンは血を吐きながらも、
震える腕で地面を押し、
ゆっくりと立ち上がった。
その姿を見たセバスティアーノの口元が、ほんのわずかに吊り上がる。
「……いい目だ。」
その声は、クリスティアンには届かなかった。
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一日の訓練を終えたサンシーロの街は、仕事帰りの騎士や職人たちで賑わっていた。
しかし、その人波の中を歩くクリスティアンだけは、肩を落としていた。
制服は泥まみれ。
頬は赤黒く腫れ、口元には乾いた血。
腕にも脚にも打撲の痕が無数に残り、歩くたびに全身が悲鳴を上げる。
「……。」
俯いたまま寮へ向かう。
その時だった。
「おい!クリスティアン!」
聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、訓練帰りのエンツォ・コッツァが歩いてくる。
「どうしたその身体は?」
クリスティアンは少し笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「……俺が悪いんだ。」
震える声が漏れる。
「俺が何も出来ないから……。」
その一言で十分だった。
エンツォは何も聞かなかった。
顔の傷。
泥まみれの制服。
赤く腫れた拳。
その全てを見れば、何があったかなど容易に想像できた。
「……そうか。」
少しだけ空を見上げる。
そしていつもの不敵な笑みを浮かべた。
「行こうぜ。」
「え?」
「今日はうるせぇマウロもビアンコ・ネーロの付き添いで不在だ。」
親指で酒場を指差す。
「あそこなら少しくらい愚痴ってもバレねぇ。」
クリスティアンは思わず吹き出した。
「……ありがとう。」
二人は並んで酒場へ入っていった。
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「おう、また来たか。」
カウンターの向こうでマスターが二人を見る。
何も言わずに冷えたグラスを二つ並べた。
トン。
中身はもちろんオレンジジュースだった。
エンツォは顔をしかめる。
「またジュースかよ。」
マスターは鼻で笑う。
「酒の味も知らねぇガキが調子に乗るんじゃねえ。」
「ちぇっ。」
「あと十年早ぇ。」
「長ぇよ。」
二人のやり取りに、店内から笑いが起こる。
クリスティアンも少しだけ肩の力が抜けた。
エンツォはジュースを一口飲む。
「で、どうだ育成部は?」
苦笑しながら続ける。
「クズばかりだろ。」
クリスティアンはグラスを見つめたまま答えた。
「……でも俺は。」
「育成部ですら足を引っ張ってばかりで……。」
「今日も実戦で何度も失敗して。」
「みんなに迷惑掛けて。」
「終わった後も……。」
そこまで言って口を閉じる。
エンツォは最後まで聞かなかった。
聞く必要もなかった。
「そんなもん。」
ジュースを飲み干しながら言う。
「引っ張れねぇリーダーが悪いんだ。」
クリスティアンが顔を上げる。
「え?」
「新人一人まとめられねぇ連中が未熟なんだよ。」
「戦場なんて弱い奴もいれば強い奴もいる。」
「そいつら全員動かして勝たせるのがリーダーってもんだ。」
「だから気にするな。」
その言葉は、クリスティアンの胸に少しだけ温かく響いた。
「……ありがとう。」
「でもこのままじゃ。」
クリスティアンは拳を握る。
「いつまでも育成部から抜け出せない。」
「俺は父様みたいな剣士になるためにここへ来たのに……。」
エンツォは少し考えたあと、ニヤリと笑った。
「なら目標を変えろ。」
「目標?」
「ああ。」
エンツォは壁に掛かった地図を指差す。
「カンプノウ騎士団には『ブラウグラナ』って部隊がある。」
「後方支援と射撃専門の精鋭部隊だ。」
「その中でも飛び抜けてる奴がいる。」
「ヴィクトール・ナダル。」
クリスティアンは首を傾げる。
「ナダル……。」
「19歳でまだ隊員だが、あいつ一人で戦況をひっくり返す化け物だ。」
エンツォの表情が真剣になる。
「剣じゃねぇ。」
「弓だけで敵の指揮官を抜く。」
「味方が危なくなれば数百メートル先から援護する。」
「一射で流れを変える。」
「戦場じゃ”見えない死神”なんて呼ばれてる。」
クリスティアンは思わず息を呑む。
「そんな奴が……。」
「いる。」
エンツォは頷く。
「だからお前はまずナダルを目指せ。」
「剣士になれねぇなんて誰も言ってねぇ。」
「今のお前に必要なのは、弓兵として一流になることだ。」
「弓を極めりゃ視野も立ち回りも身に付く。」
「全部、剣にも繋がる。」
クリスティアンは静かにグラスを握り締めた。
「……弓を。」
「そうだ。」
「悔しいだろうが今はそれがお前の道だ。」
エンツォは笑う。
「遠回りに見えて、一番近道かもしれねぇぞ。」
クリスティアンはゆっくりと頷いた。
「……まずはナダル。」
その名前を胸の中で繰り返す。
父パオロを目標にするには、まだ遠すぎる。
ならばまずは届くかもしれない目標へ。
クリスティアンの瞳に、再び小さな闘志の火が灯り始めていた。




