episode0(Prologue)Chapter3
静かな寝室に、慌ただしい足音が近づいてきた。
バタン、と玄関の扉が開く。
「奥様! お待たせしました!」
先ほどの青年だった。
息を切らしながら部屋へ飛び込んでくる。
「神官様、こちらです!!」
その後ろから、一人の初老の男性がゆっくりと姿を現した。
白い法衣。
年季の入った杖。
長い年月を感じさせる穏やかな瞳。
デッレ・アルピ村唯一の神官――ダミアーノ・スキラッチである。
寝台のパオロを見るなり、神官は感心したように頷いた。
「ほぉ……。」
傷口を確認する。
包帯の巻き方。
消毒の具合。
止血の状態。
どれも完璧だった。
「これはこれは。」
ダミアーノは柔らかく笑った。
「相変わらず見事な応急処置ですな、アンジェリカ婦人。」
アンジェリカは軽く頭を下げる。
「恐れ入ります。」
「おかげで今回も魔力消費が少なく済みそうです。」
神官は満足そうに言った。
その言葉に青年が首を傾げる。
「お知り合いなんですか?」
アンジェリカは思わず苦笑した。
「主人が帰宅する度にお世話になっていますの。」
青年はぽかんとする。
「え?」
「村で唯一の神官様ですけれど。」
アンジェリカはダミアーノを見ながら微笑んだ。
「腕は確かですわ。」
「ふぉっふぉっふぉ。」
ダミアーノは照れ臭そうに笑った。
「褒めても何も出ませんぞ。」
そう言いながら寝台の傍へ歩み寄り、右手をゆっくりと掲げた。
「では始めますかな。」
掌から暖かな光が溢れ出す。
淡い金色の輝きの光はパオロの全身を包み込み、傷口へ浸透していく。
裂けた肉が閉じる。
腫れが引いていく。
苦しげだった呼吸も徐々に落ち着きを取り戻した。
青年は思わず息を呑んだ。
「す、すげぇ……。」
何度見ても神官の奇跡は不思議だった。
やがて光が収まる。
ダミアーノは額の汗を拭った。
「これで一安心ですな。」
アンジェリカは深々と頭を下げた。
「いつも申し訳ありません。」
そして優しく微笑む。
「今回もありがとうございます、ダミアーノ神官様。」
「いえいえ。」
神官は杖を鳴らした。
「パオロ様は村の英雄。」
さらにアンジェリカへ視線を向ける。
「そしてアンジェリカ婦人は村のアイドルですからな。」
青年が吹き出しそうになる。
ダミアーノは真顔で続けた。
「このくらい働かなければ、わしが村から追い出されてしまいますぞ。」
アンジェリカは思わず手を口元に当てた。
「まぁ。」
その時だった。
玄関の方から元気な声が響いた。
「母様、ただいま!」
続いて慌ただしい足音が響く。
「父様は!?」
クリスティアンだった。
その後ろにはディメトリオもいる。
二人は勢いよく部屋へ飛び込んできた。
そしてダミアーノの姿を見つける。
「あっ。」
ディメトリオが少しだけ顔を引きつらせた。
「ダミアーノ神官……。」
神官学校を抜け出してきた後ろめたさがあるのだろう。
ダミアーノはニヤリと笑った。
「ふぉっふぉっふぉ。」
杖を軽く振る。
「まぁ、パオロ様の帰省日くらいは多少のサボりも大目に見ましょうかの。」
ディメトリオはほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます……。」
その様子を見てクリスティアンが笑う。
だがすぐに見知らぬ青年へ目を向けた。
「母様。」
「はい?」
「この人は?」
クリスティアンは青年を指差した。
すると青年の表情が固まる。
「え……?」
クリスティアンを見る。
もう一度見る。
そしてアンジェリカを見る。
「こ……。」
声が震えていた。
「こんな大きな子供がいたのか……。」
肩を落とす。
目に見えて落胆していた。
アンジェリカは全てを察して苦笑した。
「父様が道中で倒れてしまわれてね。」
青年へ視線を向ける。
「この方が運ぶのを手伝ってくださったのよ。」
クリスティアンは驚いて寝台を見る。
「えぇっ!?」
目を見開いた。
「学校ではあんなに元気だったのに!?父様、あの後に倒れられたんですか!?」
アンジェリカは優しく息子の頭を撫でた。
「そうよ。」
クリスティアンの金髪を整える。
「民衆の前では弱い姿を見せない。」
穏やかな声だった。
「それがサンシーロ騎士団の務め。」
そして眠るパオロへ視線を向ける。
「『白銀の騎士』と呼ばれる父様なら、なおさらね。」
クリスティアンは黙って父の寝顔を見つめた。
つい先ほどまで笑っていた英雄。
だが今は傷だらけの一人の男だった。
その姿を見て、少年の胸には言葉にできない感情が静かに芽生え始めていた。
クリスティアンは寝台で眠る父を見つめていた。
傷だらけの身体。
無理をしてまで村人たちの前では平然としていた姿。
その背中を思い出しながら、小さく呟く。
「そうか……。」
拳を握る。
「剣士になるには決して弱さを見せてはならない。」
真っ直ぐな瞳が父へ向けられる。
「肝に銘じます、父様……。」
その言葉を聞いたアンジェリカの表情がわずかに曇った。
優しく息子を見つめる。
だが何も言わない。
誇らしさと不安。
その両方が胸の中でせめぎ合っていた。
そんな空気を察したのか、ディメトリオがクリスティアンの肩を軽く叩いた。
「心配するなよ。」
クリスティアンが振り向く。
ディメトリオはにっと笑った。
「お前が傷ついても俺がすぐに治してやる。」
「ディメトリオ……。」
少しだけ空気が和らぐ。
しかしその直後。
「ほっほっほ。」
ダミアーノが杖を突きながら笑った。
「ならばまずは体力を鍛えて魔力をもっと増やさねばなりませんな。」
ディメトリオの顔が引きつる。
嫌な予感しかしなかった。
ダミアーノは続ける。
「剣士は常に傷つくもの。様々な魔法を使えても、一日に一度しか使えないのでは意味がありませんぞ。」
ディメトリオの顔色がみるみる青くなる。
「げぇぇぇ……。」
肩を落とした。
「明日からまた走り込みですかぁ……?」
「当然です。」
即答だった。
「神官といえど身体は鍛えなければなりません。」
ダミアーノは杖を軽く振る。
「時には杖で殴って戦わねばならないこともありますからな。」
「神官って何なんですか……。」
ディメトリオは本気で泣きそうな顔になる。
クリスティアンは思わず吹き出した。
「へへっ!」
腕を組む。
「俺が走り込みに付き合ってやるよ。」
「いらない。」
即答だった。
「お前について行ったら死ぬ。」
部屋に笑いが広がる。
その時だった。
寝台の上でパオロの指先が微かに動いた。
ピクリ。
続いて胸が大きく上下する。
「ごほっ!」
皆が振り向く。
「ごほっ、ごほっ!」
パオロが苦しそうに咳き込んだ。
アンジェリカが立ち上がる。
ダミアーノは穏やかに微笑んだ。
「これはこれは。」
杖を握り直す。
「お目覚めですかな。」
ゆっくりとパオロの瞼が開く。
焦点の合わない目が天井を見上げた。
「ここは……。」
掠れた声。
しばらくして周囲を見回す。
「……家か?」
アンジェリカがそっと近づいた。
そして優しく微笑む。
「あなた。」
その声だけで安心できるような響きだった。
「お帰りなさいませ。」
パオロは数秒きょとんとした後、全てを思い出したらしい。
「あっちゃー……。」
思わず頭を掻く。
「また道中で倒れちまったか。」
困ったように笑った。
「クリスティアンの学校までは持たせたんだがなぁ。」
「無茶ばかりなさるからです。」
アンジェリカは呆れながらもどこか嬉しそうだった。
そして青年の方へ視線を向ける。
「この方が運んでくださったのですよ。」
青年は突然注目されて背筋を伸ばした。
パオロもそちらを見る。
「おや。」
身体を少し起こした。
「便箋配達さんですか。」
深々と頭を下げる。
「仕事中でしょうに申し訳ない。助かりました。」
青年は慌てて両手を振った。
「い、いえ!そんな!」
顔が真っ赤になる。
「まさかパオロ様のような方からそんなお言葉をいただけるなんて……。」
パオロは苦笑した。
そして懐を探る。
取り出したのは一枚の銀貨だった。
アンジェリカへ差し出す。
「お礼を。」
「承知しました。」
アンジェリカは銀貨を受け取る。そして青年の前へ歩み寄った。
「本当にありがとうございました。」
そう言いながら、両手で青年の手を包み込むように銀貨を渡す。
「どうぞお受け取りください。」
青年の身体が硬直した。
柔らかな手。
近くで見る整った顔立ち。
ほのかに香る石鹸の匂い。
頭の中が真っ白になる。
「あっ……。」
口がぱくぱく動く。
「あ、ありがとうございます!!」
勢いよく頭を下げた。
「で、では私はこれにて失礼致します!!」
誰も止める間もなく。
青年は逃げるように家を飛び出していった。
ドタドタドタドタ――!
勢いよく遠ざかる足音。
しばしの沈黙。
パオロは首を傾げた。
「どうしたんだ彼は?」
アンジェリカも首を傾げる。
「さぁ?」
そう言って微笑んだ。
そのやり取りを見ていたスキラッチはニヤニヤしていたが、余計なことは言わなかった。
ディメトリオは何となく察した。
クリスティアンだけは最後まで本当に分かっていなかった。




