episode2(SanSiro)Chapter5
朝日が弓術教室の窓から差し込み、木造の訓練場を淡く照らしていた。
肩の治療を終えたクリスティアンは、深呼吸を一つして静かに扉を開ける。
ギィ……
「失礼します!」
教室へ足を踏み入れた瞬間、思わず言葉を失った。
そこにいたのは十数名の育成部生たち。
しかし、その誰もが満身創痍だった。
腕には包帯。
額には大きな青あざ。
指先は革手袋越しでも分かるほど豆が潰れ、血が滲んでいる。
肩に湿布を貼っている者。
手首を固定している者。
中には足を引きずりながら、それでも黙々と弓を組み立てている少年までいた。
誰一人として弱音を吐かない。
誰一人として愚痴も言わない。
ただ静かに、自分の弓と向き合っている。
クリスティアンはその光景を見つめた。
(……これが。数日後の俺の姿か。)
昨日までは剣だけを信じて生きてきた。
そんな自分が、この世界ではようやく入り口に立っただけなのだ。
ゆっくり拳を握る。
(逃げない。一ヶ月だけでも……やり抜いてみせる。)
覚悟を決めた、その時だった。
ヒュッ――
「おら。」
ボゴッ!!
「うわっ!」
何かが勢いよく胸にぶつかり、クリスティアンは慌てて受け止める。
見れば、それは一本の弓だった。
だが…
弦は途中で切れ、木材はあちこち傷だらけ。
握り革も擦り切れ、見るからに使い古されている。
クリスティアンは首を傾げた。
「……これは?」
教壇に腕を組んで立つセバスティアーノが鼻で笑う。
「お前の弓だ。」
「先日、泣きながら故郷へ逃げ帰った奴が使ってたお古だ。」
冷たく言い放つ。
「ちょうどいいだろう?」
教室のあちこちから、小さな笑い声が漏れる。
「クスクス……」
「よりによってあの弓かよ……」
「初日から終わってんな……」
その瞬間だった。
「何笑ってんだァ!!」
セバスティアーノの怒号が教室を震わせる。
全員が肩を震わせた。
「テメェらに人を笑う余裕があると思うなよ!!」
「は、はいっ!!」
一瞬で笑いは消えた。
誰も顔を上げない。
セバスティアーノは教室全体を睨み回し、さらに怒鳴る。
「いいか!!」
「毎日口酸っぱく言っているが、育成部のテメェらはロッソ・ネーロを名乗る資格なんかねぇ!!」
教室中が静まり返る。
「戦場は激化している。」
「本来なら未成年のお前らの手すら借りたいほど人手不足だ!」
拳で教壇を叩く。
ドン!!
「それでも戦力外と見なされていることを恥と思え!!」
「お前らはまだ兵士ですらない!ただの荷物だ!!」
誰も反論しない。
悔しそうに拳を握る者もいた。
クリスティアンは手元の弓を見つめた。
そして一歩前へ出る。
「バレージ教官。……この弓は、このままでは使えませんが?」
セバスティアーノは即答する。
「そうだ。じゃあどうしたらいい?」
クリスティアンは戸惑った。
「え……?」
「弓を交換するしか――」
ゴッ!!
「ぐあっ!」
言い終える前に拳が頬へ突き刺さる。
吹き飛ばされ、床を転がる。
「戦場で!!」
セバスティアーノは胸ぐらを掴み、そのまま持ち上げた。
「貴様みたいな最底辺にスペアの弓があると思うなよ!!」
クリスティアンは苦しそうに息を吐く。
「……では……どうすれば……」
セバスティアーノはゆっくり手を離した。
「手段は問わん。」
床へ古びた弓を投げ捨てる。
「使えるようにしてから、貴様は授業に参加しろ。」
それだけ言うと踵を返し、教室全体へ怒鳴り散らした。
「オラァ!!」
「テメェらは授業開始だ!!さっさと朝の射的を済ませろォ!!」
「はいッ!!」
生徒たちは一斉に的へ向かい、訓練を始める。
教室には次々と弓を引く音が響き始めた。
パシュッ!
パシュッ!
パシュッ!
その中で、クリスティアンだけが取り残される。
床に落ちたボロボロの弓を拾い上げ、切れた弦を見つめた。
「……弓なんか。」
苦笑しながら呟く。
「触ったこともねぇよ……。」
どう結べばいいのか。
どう修理するのか。
何一つ分からない。
弓を握る手は剣よりもずっと頼りなく見えた。
「……どうしたらいいんだ。」
床に落ちた古びた弓を見つめながら、クリスティアンはゆっくりと立ち上がった。
切れた弦。
ひび割れた弓身。
擦り切れた握り革。
どう見ても使い物には見えない。
だが…
クリスティアンはセバスティアーノの言葉を思い返していた。
『手段は問わん。』
『使えるようにしてから貴様は授業に参加しろ。』
その瞬間、口元が僅かに上がる。
「……手段は問わない、と言ったな。」
そう呟くと、弓を抱えたまま勢いよく教室を飛び出した。
「お、おい?」
何人かの訓練生が振り返る。
しかしクリスティアンは止まらない。
廊下を全力で駆け抜ける。
まず向かったのは、育成部の工具室だった。
棚一面に並ぶ木工道具。
小刀、鉋、やすり、木槌、革細工用の針と糸、接着剤、予備の弦、砥石……。
管理担当の老人が驚いた顔で見上げる。
「お、おい坊主。何をそんな慌て――」
「弓を修理したいんです!」
老人は一瞬目を丸くしたあと、無言で工具を指差した。
「……壊すなよ。」
「ありがとうございます!」
クリスティアンは必要そうな道具を抱え上げると、再び走り出した。
次に飛び込んだのは図書室だった。
静まり返る室内。
本棚には戦術書や魔術書だけでなく、武具の整備や兵站に関する専門書も並んでいる。
クリスティアンは必死に本棚を探した。
「弓……弓……。あった!」
『弓の基礎構造と整備法』
分厚い一冊を机へ広げる。
「まずは弦の張り方……。」
「握り革の交換……。」
「ひび割れには木工用接着剤……。」
ページをめくる手は震えていた。
何も知らない。
何も分からない。
それでも、一つずつ読み進めていく。
「……なるほど。」
「そうやるのか。」
本を読み。
工具を握り。
また本を読み。
少しずつ修理を進めていく。
しかし現実は甘くない。
「痛っ!」
やすりで指先を削る。
「うわっ!」
張ったばかりの弦が外れ、頬を叩く。
革を縫えば針が刺さり。
接着剤は手につく。
木を削れば棘が刺さる。
昼頃には両手は傷だらけだった。
掌には新しい切り傷。
指先は血で赤く染まる。
それでも止まらない。
本を読む。
削る。
結ぶ。
失敗する。
やり直す。
また失敗する。
何度も何度も繰り返した。
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気付けば五時間が過ぎていた。
窓から差し込む光はすっかり高くなっている。
クリスティアンは最後に弦をゆっくり引いた。
ギリ……
弓は軋みながらも、しっかりと張力を保っていた。
見た目は相変わらずボロボロだ。
新品には程遠い。
だが、矢を放つことだけはできそうだった。
クリスティアンは疲れ切った笑みを浮かべる。
「……きっと。まだまだ足りてないんだろうが。」
ボロボロになった両手を見つめる。
血と木屑と接着剤で汚れている。
それでも、その弓を大事そうに抱えた。
「授業に参加できないよりマシだ。」
静かに立ち上がる。
本を元の場所へ戻し、工具も丁寧に返却する。
「ありがとうございました!」
管理係へ深々と頭を下げると、そのまま廊下へ飛び出した。
「遅れた分は取り返す!!」
再びサンシーロの廊下を全力で駆け抜ける。
傷だらけの両手で、修理したばかりの弓をしっかりと握り締めながら。
その姿はまだ未熟だった。
だが、自ら考え、自ら学び、自ら道を切り開こうとするその一歩は、昨日までのクリスティアンにはなかった確かな成長の証だった。




