episode1(Departure)Chapter13
それから数日が過ぎた。
デッレ・アルピ村の日常は変わらない。
朝になれば畑を耕し。
昼になれば学校へ通い。
夕方になれば家路につく。
何も変わらない。
変わらないはずだった。
だが。
クリスティアンとアンジェリカの間には、目には見えない何かが生まれていた。
以前なら。
クリスティアンが学校であったことを話し。
アンジェリカが笑いながら聞く。
そんな当たり前の光景があった。
だが今は違う。
夕食の席。
「今日の授業はどうだったの?」
アンジェリカが尋ねる。
「普通でした」
クリスティアンが答える。
会話は終わる。
以前ならそこから十分も二十分も続いていたはずなのに。
どちらも話題を探している。
どちらも何かを隠している。
そして。
どちらもそれに気付いていた。
--
数日後。
学校の剣術授業。
生徒達は木刀を持ち、自由模擬戦を行っていた。
クリスティアンは校庭の隅でぼんやりしている。
木刀を肩に担ぎ。
視線はどこか遠い。
頭の中に浮かぶのは。
サンシーロ。
エンツォ。
マウロ。
そしてあの日の歓声。
――ビリンデッリ!!
――ビリンデッリ!!
――ビリンデッリ!!
「……」
気付けばまた考え込んでいた。
その瞬間だった。
「隙ありィィィ!!」
男子生徒が横から飛び出してくる。
木刀を振り上げる。
完全な奇襲。
だが。
クリスティアンの身体が先に動いた。
「ハッ!」
反射。
いや。
本能だった。
視界が研ぎ澄まされる。
身体が勝手に動く。
次の瞬間。
クリスティアンの姿がぶれた。
まるで三人いるように見える。
男子生徒の木刀が空を切った。
「え?」
男子生徒が目を見開く。
その背後には。
既にクリスティアンが回り込んでいた。
木刀が振り抜かれる。
鋭い一閃。
ピタリ。
木刀の先端が男子生徒の首元で止まる。
ほんの指一本分。
あと少しでも動けば直撃だった。
沈黙。
風の音だけが聞こえる。
男子生徒の顔から血の気が引いた。
木刀が手から零れ落ちる。
カラン。
乾いた音。
「な……」
声が震える。
「なんだよ……今の……」
膝が崩れる。
その場にへたり込んだ。
完全に腰が抜けていた。
クリスティアンも我に返る。
「あっ」
慌てて木刀を引く。
「わ、わりぃ!」
しゃがみ込む。
「大丈夫か??」
男子生徒は青い顔のまま何度も頷いた。
「だ、大丈夫……だけど……」
まだ震えている。
周囲では生徒達が騒然としていた。
「見たか今!?」
「消えたよな!?」
「いや分身してた!」
「すげぇ!!」
別の男子生徒が目を輝かせる。
「これが騎士団の技なんだな!」
さらに別の生徒も笑う。
「なんだかもう違う世界の人になっちまったなクリスティアン!」
悪意はない。
皆純粋に感心しているだけだ。
だが。
その一言一言が。
クリスティアンの胸に突き刺さった。
違う世界の人。
その言葉が頭の中で反響する。
違う世界。
サンシーロ。
騎士団。
ロッソ・ネーロ。
ビアンコ・ネーロ。
村。
母。
仲間。
故郷。
どちらが自分の居場所なのか。
わからない。
だからこそ。
その何気ない言葉が痛かった。
クリスティアンは苦笑いを浮かべる。
「そんな大したもんじゃねぇよ」
そう言いながら。
自分でも信じられなかった。
--
同じ頃。
アンジェリカもまた。
別の場所で苦しんでいた。
洗濯物を干していた昼下がり。
快晴だった。
風が心地良い。
近所の女性達も洗濯をしている。
何気ない世間話。
いつもの光景。
「そういえばアンジェリカさん」
近所の婦人が笑顔で声をかける。
「クリスティアンくん凄いですねぇ」
アンジェリカの手が止まる。
「今や村の人気者じゃないですか」
別の女性も頷く。
「本当にねぇ」
「この前なんてうちの子が木刀持って真似してましたよ」
皆楽しそうだ。
誇らしそうですらある。
アンジェリカも微笑む。
「ありがとうございます」
母親としては嬉しい。
本当に嬉しい。
だが。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「やっぱりパオロ様の息子さんよねぇ」
「才能あるわぁ」
「将来が楽しみね」
アンジェリカは洗濯物を干し続ける。
無理やり笑顔を保ちながら。
すると。
一人の女性が何気なく尋ねた。
「やっぱりサンシーロに行くのかしら?」
アンジェリカの指先が止まる。
風が吹く。
白いシーツが揺れる。
女性は気付いていない。
本当に悪気はない。
続ける。
「きっと騎士団に入るんでしょうねぇ」
「うちの息子も見習わせたいわ」
「パオロ様みたいになったら村の誇りだもの」
アンジェリカは笑顔を作る。
慣れた笑顔。
誰も不安にさせない笑顔。
だが。
心臓は強く脈打っていた。
サンシーロ。
騎士団。
その言葉を聞くだけで。
胸が締め付けられる。
あの日の光景が蘇る。
棺。
涙。
パオロ。
そして。
今度はそこにクリスティアンの姿が重なる。
――サンシーロに来ないか。
――君の才能は戦争を終わらせるかもしれない。
マウロの手紙。
何度も読んでしまったあの文面。
燃やすことも。
捨てることも。
出来なかった。
「アンジェリカさん?」
呼ばれて我に返る。
皆がこちらを見ていた。
返事を待っている。
アンジェリカは微笑む。
完璧な笑顔。
誰にも気付かれないように。
「サンシーロ……」
小さく呟く。
そして。
「そうですね」
それしか言えなかった。
その日の夕暮れ。
学校から帰るクリスティアン。
洗濯物を取り込むアンジェリカ。
二人は同じ空を見上げていた。
だが。
見ているものは違った。
クリスティアンは未来を。
アンジェリカは失う恐怖を。
互いを大切に想うが故に。
少しずつ。
少しずつ。
心の距離だけが離れ始めていた。
--
その夜。
食卓には温かなスープと焼きたてのパンが並んでいた。
だが。
部屋の空気はどこか冷たかった。
クリスティアンも。
アンジェリカも。
互いに話したいことがある。
だが。
何をどう話せばいいのかわからない。
そんな日々が続いていた。
「ごちそうさまでした」
クリスティアンが席を立つ。
アンジェリカも小さく頷く。
「お粗末さまでした」
短い会話。
それだけだった。
クリスティアンは壁に立て掛けていた木刀を手に取る。
そして玄関へ向かった。
「ちょっと剣を振ってきます」
いつものことだった。
だが。
その言葉を聞いた瞬間。
アンジェリカの中で何かが切れた。
「これ以上強くなってどこに向かうつもり?」
言ってしまった。
自分でも止められなかった。
クリスティアンの足が止まる。
ゆっくりと振り返る。
「え……?」
困惑した顔。
アンジェリカはハッとする。
慌てて口を押さえた。
「ご、ごめんなさい……!」
首を振る。
「違うの」
「いいの」
必死に笑顔を作る。
「行ってきなさい」
沈黙。
クリスティアンは何も言わない。
数秒。
十数秒。
重苦しい静寂。
やがて。
少年は静かに口を開いた。
「母様……俺」
「嫌!!」
アンジェリカが叫んだ。
クリスティアンが目を見開く。
アンジェリカは震えていた。
「そこから先は聞きたくない!」
声が震える。
呼吸が乱れる。
まるで何かから逃げるように。
「かあ……さま?」
クリスティアンは理解できなかった。
こんな母を見たことがない。
アンジェリカは唇を震わせる。
そして。
とうとう堰を切ったように涙を零した。
「ごめんなさい……」
声にならない。
「ダメなの私……」
胸を押さえる。
「あの日からずっと……」
視線が揺れる。
「棺で横たわるあの人に……」
涙が止まらない。
「あなたの姿が重なってしまって……」
膝が崩れる。
その場に跪いた。
「怖くて……」
絞り出すような声。
「怖くて仕方ないの……!」
クリスティアンは立ち尽くしていた。
初めて知った。
母が抱えていた傷の深さを。
父が亡くなってから七年。
ずっと強く生きてきたと思っていた。
だが違った。
母は今も。
あの日から前へ進めていなかったのだ。
クリスティアンはゆっくり歩く。
アンジェリカの後ろへ回る。
そして。
そっと抱きしめた。
「母様……」
優しい声だった。
アンジェリカが息を呑む。
「母様は」
クリスティアンは微笑む。
「ずっと父様をお慕い続けているのですね」
その抱擁は。
アンジェリカが知る息子のものではなかった。
大きい。
温かい。
力強い。
いつの間に。
こんなにも。
幼い頃は。
抱き上げていた。
転べば抱きしめた。
泣けば胸に抱いた。
それなのに。
今は逆だった。
自分が抱きしめられている。
守られている。
その事実に。
アンジェリカは愕然とした。
「クリスティアン……」
涙が溢れる。
「いつの間にこんなに大きくなったのね……」
肩を震わせる。
「あんなに小さかったのに……」
クリスティアンは微笑んだ。
「はい」
穏やかな声。
「母様のおかげです」
しばらく二人はそのままだった。
静かな時間。
涙も少しずつ落ち着いていく。
やがて。
アンジェリカは決意したように立ち上がった。
「クリスティアン」
「はい?」
「ちょっと待って」
そう言って自室へ向かう。
クリスティアンは首を傾げた。
何だろう。
しばらくすると。
アンジェリカが戻ってくる。
その手には。
一通の手紙。
そして。
一枚の切符。
クリスティアンの顔色が変わった。
「それ……」
アンジェリカは頷く。
震える指で差し出した。
「マウロ・ミッコリさんから」
クリスティアンは受け取る。
そして手紙を読む。
読み進めるほどに目が見開かれていく。
最後まで読み終えた。
唇が震える。
「マウロ……」
小さく呟く。
アンジェリカは俯いた。
「気付いていたの」
静かな声。
「本当はクリスティアンがどうしたいかなんて」
涙が落ちる。
「でも私が臆病だった」
自嘲するように笑う。
「ごめんなさい」
震える声。
「ずっと隠していて」
クリスティアンは切符を見る。
サンシーロ行き。
片道切符。
夢への切符。
胸が熱くなる。
「母様……」
声が震える。
「ごめんなさい」
アンジェリカは首を振った。
「謝らないで」
涙を流しながら笑う。
「男はみんなそう」
優しい声だった。
「夢や目標に触れたら」
遠くを見る。
まるで昔のパオロを思い出すように。
「どこまでも一直線」
涙が零れる。
「女にできることなんて」
微笑む。
「待つだけ、見守るだけよ」
クリスティアンの肩が震えた。
ずっと押し殺していた。
ずっと誤魔化していた。
村を守る。
母を支える。
それは嘘じゃない。
今でも本心だ。
だが。
それ以上に。
心の奥で燃え続けていた願いがあった。
マウロの剣。
エンツォの剣。
父の足跡。
サンシーロ。
世界。
知らない景色。
もっと強くなりたい。
もっと知りたい。
もっと――。
クリスティアンは涙を流した。
子供のように。
嗚咽を漏らしながら。
そして。
胸の奥に閉じ込めていた本音を叫ぶ。
「もっと強くなりたい!!」
涙が止まらない。
「父様が見た世界を見てみたい!!」
震える拳。
「俺は……!」
「俺は……!!」
息を吸う。
そして。
全てを吐き出すように叫んだ。
「サンシーロに行きたいんです!!」
アンジェリカは泣きながら笑った。
その姿は。
かつて旅立つパオロを見送った時と同じだった。
愛しているからこそ。
行かないでほしい。
愛しているからこそ。
送り出さなければならない。
母親とは。
なんて残酷な役目なのだろう。
それでも。
アンジェリカは息子を抱きしめた。
強く。
強く。
そして。
震える声で囁いた。
「行ってらっしゃい」
その一言に。
七年間抱え続けた想いの全てを込めて。




