episode1(Departure)Chapter12
ディメトリオと別れたクリスティアンは、一人で家路を歩いていた。
夕陽はすっかり傾き、デッレ・アルピ村は茜色に染まっている。
煙突から立ち昇る夕餉の煙。
家々から聞こえる笑い声。
見慣れた故郷の景色。
本来なら心が落ち着くはずだった。
だが今日は違った。
頭の中にはサンシーロの光景ばかりが浮かんでいる。
コロセウム。
歓声。
マウロ。
エンツォ。
そして――。
「サンシーロに来いよ」
あの言葉。
気付けば何度も思い返していた。
クリスティアンは頭を振る。
「何考えてんだ俺」
小さく呟く。
「村に残るって決めただろ」
そう言い聞かせるように。
やがて自宅が見えてきた。
木造の小さな家。
決して豪華ではない。
だが。
クリスティアンにとって世界で一番落ち着く場所だった。
玄関の前まで来る。
深呼吸を一つ。
そして扉を開けた。
「ただいま戻りました!」
元気よく声を上げる。
すると奥から足音が聞こえてきた。
「お帰りなさい」
アンジェリカだった。
柔らかな笑みを浮かべている。
昔に比べ目尻には少し皺が増えた。
それでも美しい。
クリスティアンはそう思った。
アンジェリカはエプロンで手を拭きながら言った。
「サンシーロから帰った日は先生のご自宅に泊まったと聞いたけど」
少し心配そうな顔。
「ご迷惑はおかけしてない?」
クリスティアンは苦笑する。
「もちろんです!」
胸を張る。
だがすぐに肩を竦めた。
「……疲れてすぐ寝てしまいました」
そして舌を出して笑った。
アンジェリカも思わず吹き出す。
「まぁ」
「それは仕方ないわね」
居間へ入る。
テーブルには湯気の立つエスプレッソ。
そして焼きたてのクッキーが並べられた。
バターの香りが漂う。
クリスティアンの顔が明るくなる。
「おぉ!」
アンジェリカは微笑みながら椅子に腰掛けた。
「それで」
エスプレッソを一口飲む。
「サンシーロは楽しかった?」
その質問を待っていたかのようだった。
クリスティアンの目が輝く。
「楽しかったなんてもんじゃありません!」
身を乗り出す。
「初めての都会は全てが新鮮でした!」
アンジェリカが少し目を丸くする。
クリスティアンは止まらない。
「見るものも!」
「聞くものも!」
「食べるものも!」
両手を広げる。
「全部凄かったんです!」
「街は大きいし!」
「人も多いし!」
「料理は信じられないくらい美味しいし!」
興奮したまま続ける。
「それに何より――」
少しだけ声が小さくなる。
「全部……父様も体感したものなんだなって」
アンジェリカの手が止まった。
クリスティアンは気付かない。
夢中だった。
「父様もあのコロセウムを見たのかなとか!」
「同じ道を歩いたのかなとか!」
「同じ景色を見たのかなとか!」
話は尽きない。
アンジェリカは静かにエスプレッソを口へ運ぶ。
そして微笑んだ。
「そう」
優しい声だった。
「良かったじゃない」
少しだけ視線を伏せる。
「父様も過ごした土地にタダで行けて」
冗談めかして言う。
クリスティアンも笑った。
「ははは」
アンジェリカは続ける。
「それで?」
何気ない調子で尋ねる。
「試合は見学だったんでしょ?」
クッキーを一つ摘まむ。
「先輩は少しは見せ場はあったの?」
クリスティアンは一瞬だけ固まった。
「あー……」
頭を掻く。
「それがですね」
少し照れ臭そうに笑う。
「私が代理で出場して」
アンジェリカの動きが止まる。
「一回戦を勝ってしまいました」
「え……?」
思わず漏れた。
アンジェリカの手が震える。
持っていたエスプレッソのカップが小さく音を立てた。
クリスティアンは気付いていない。
「いやー」
照れ笑い。
「自分でもびっくりしましたよ」
「まさか勝てるとは思わなくて」
アンジェリカは何も言えなかった。
ただ見つめる。
息子を。
クリスティアンは話を続ける。
「二回戦は騎士団の人間に負けましたけど」
笑う。
「その人からサンシーロに来ないかって誘われたり」
アンジェリカの指先がぴくりと震えた。
「父様のお弟子さんにも会えたり」
嬉しそうだ。
「それに――」
そこから先も。
マウロの話。
エンツォの話。
コロセウムの話。
リストランテの話。
次々と語られていく。
だが。
アンジェリカには。
もう何も聞こえていなかった。
耳に残ったのはたった二つ。
『一回戦を勝った』
そして。
『サンシーロに来ないかと誘われた』
その二つだけ。
胸の奥が締め付けられる。
呼吸が浅くなる。
目の前では息子が楽しそうに笑っている。
パオロによく似た笑顔。
若い頃のあの人と。
あまりにも似ている。
――父様も体感したものなんだなって。
先ほどの言葉が頭を巡る。
アンジェリカは俯いた。
カップを持つ手が僅かに震えている。
息子はまだ気付いていない。
楽しそうに話し続けている。
だが。
母親だけは理解していた。
サンシーロへ行ったことで。
この子の中で何かが変わり始めていることを。
そして。
その変化が。
自分が何より恐れていた方向へ向かっていることを。
アンジェリカは静かに微笑んだ。
息子に悟られないように。
必死に。
--
その夜。
デッレ・アルピ村は深い静寂に包まれていた。
窓の外では虫の声だけが聞こえる。
クリスティアンは既に寝息を立てている頃だろう。
だが。
アンジェリカは眠れなかった。
寝室の片隅。
小さな棚の上に飾られた一枚の遺影。
彼女はそれを両手で抱き寄せていた。
パオロ・ビリンデッリ。
愛した夫。
アンジェリカは写真を胸に抱きながら静かに呟く。
「ねぇ、あなた……」
月明かりが差し込む。
「こんな時……あなたがいたら」
少しだけ目を伏せる。
「あの子になんて言ったのかしら」
返事はない。
当たり前だ。
もう何年も前から。
返事など返ってこない。
だが。
その瞬間だった。
脳裏に。
あの日の光景が蘇る。
血の臭い。
泣き叫ぶ人々。
運ばれてきた棺。
そして。
静かに横たわるパオロの姿。
まるで昨日のことのように。
鮮明に。
鮮烈に。
アンジェリカの呼吸が止まる。
「っ……!」
胸を押さえる。
呼吸が浅くなる。
心臓が嫌な音を立てた。
「はぁ……」
「はぁ……」
震える肩。
指先が冷たい。
何年経っても慣れない。
どれだけ時間が過ぎても。
あの日だけは忘れられない。
アンジェリカは必死に呼吸を整えようとした。
ゆっくり。
ゆっくり。
何度も。
何度も。
そして。
ようやく声を絞り出す。
「私は……」
唇が震える。
「本当は」
遺影を抱き締める力が強くなる。
「あの子に剣士になんかなって欲しくないんです」
涙が零れた。
「騎士団なんてもってのほか!」
感情が漏れる。
「あなたを奪った場所なのよ……!」
誰もいない部屋。
それでも声を殺した。
息子に聞かれないように。
しばらくして。
ようやく呼吸が落ち着いてくる。
アンジェリカは目元を拭った。
そして自嘲気味に笑う。
「本当に……」
小さな声。
「最低ね」
遺影を見る。
優しく微笑むパオロ。
昔と変わらない笑顔。
「息子の夢を応援出来ないなんて……」
視線を落とす。
「最低の母親だわ」
そう呟くと。
アンジェリカは遺影を棚へ戻した。
写真を伏せることは出来なかった。
代わりに軽く撫でる。
そして。
重い足取りでベッドへ向かった。
翌朝。
いつも通りの朝が始まる。
クリスティアンは元気いっぱいだった。
「行ってきます!」
「気を付けてね」
アンジェリカは笑顔で送り出す。
少年は手を振りながら学校へ向かった。
その背中が見えなくなるまで見送る。
そして。
静かに息を吐いた。
--
しばらくして。
家の外から声が聞こえる。
「アンジェリカ婦人ー!」
聞き慣れた声だった。
アンジェリカが扉を開く。
そこには便箋配達の男が立っていた。
大きな鞄を肩から提げている。
男はいつものように満面の笑みを浮かべた。
「アンジェリカ婦人!」
「今日もお美しいですね!」
アンジェリカは苦笑する。
「うふふ」
首を傾げる。
「主人を運んでくれて以来、いつもお世辞をありがとうございます」
「いやいや本心ですよ!」
男は胸を張った。
渡された便箋を見る。
差出人。
そこに書かれていた名前を見た瞬間。
アンジェリカの表情が僅かに固まる。
『マウロ・ミッコリ』
クリスティアンが何度も口にしていた名前だった。
サンシーロ騎士団。
パオロの弟子。
アンジェリカの胸がざわつく。
「アンジェリカ婦人……?」
配達人が不安そうな顔をした。
「どうかなさいました?」
アンジェリカは我に返る。
「あらあら」
すぐに微笑みを作る。
「ごめんなさい」
「なんでもないの」
いつもの優しい笑顔。
「いつもありがとうございます」
配達人は安心したように笑った。
「それでは!」
そして去っていく。
扉が閉まる。
家の中にはアンジェリカ一人。
静寂。
彼女は便箋を見つめた。
嫌な予感がする。
だが。
開かずにはいられなかった。
封を切る。
中から一枚の手紙。
そして。
一枚の馬車の切符が落ちた。
サンシーロ行きの片道切符。
アンジェリカの顔色が変わる。
震える手で手紙を読む。
そこには丁寧な文字でこう記されていた。
--
クリスティアン。
君の剣が忘れられない。
我が師パオロ先生の剣を彷彿とさせる切れ味を思い出す度に、君が『ロッソ・ネーロ』の一員であればと思いを馳せずにはいられない。
頼む。考え直してくれ。
君の才能はエンツォやこの僕と共に立ち回ることで、この戦争すら終わらせる可能性を秘めているんだ。
再びサンシーロで会える日を待っている。
マウロ・ミッコリ
--
読み終えた瞬間。
アンジェリカの手が激しく震えた。
紙が音を立てる。
目の前が滲む。
片道切符。
ロッソ・ネーロ。
戦争を終わらせる才能。
再びサンシーロで会える日を待っている。
その一文一文が。
彼女にはまるで。
息子を遠くへ連れ去ろうとしているように見えた。
「勝手なことを……」
震える声。
「勝手なことを言わないで!!」
思わず叫んでいた。
誰もいない家に声が響く。
手紙がくしゃりと握り潰される。
瞳には涙。
怒りなのか。
恐怖なのか。
自分でもわからない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
アンジェリカは。
誰よりも。
クリスティアンを愛していた。
だからこそ。
再びサンシーロへ向かう未来が。
何よりも恐ろしかった。




