episode1(Departure)Chapter10
西大陸剣術大会最終日。
コロセウムを埋め尽くした数万人の観客が総立ちとなる中、決勝戦を制したマウロ・ミッコリがゆっくりと壇上へ歩み出た。
割れんばかりの歓声。
『ミッコリ!!』
『マウロ!!』
『騎士団の誇り!!』
発煙筒の煙が空を染める。
巨大な旗がはためく。
その中央に立つ青年の前へ、一人の男が姿を現した。
西大陸現皇帝。
フランチェスコ・マロッタ。
金糸で縁取られた深紅の礼装を纏い、静かな威厳を漂わせている。
コロセウム全体が静まり返った。
マウロは片膝をつく。
頭を垂れる。
皇帝は優勝者だけに与えられる銀と黄金の紋章を手に取った。
そしてマウロの胸元へ授ける。
「マウロ・ミッコリ」
厳かな声が響く。
「汝の勇気と技を称え、西大陸剣術大会優勝者の栄誉をここに与える」
マウロは胸に手を当てた。
「有難き幸せでございます」
静かに頭を下げる。
「これからも我が身朽ちるまで剣を振るうことを誓います」
再び大歓声。
まるで地面そのものが揺れているようだった。
だが。
マウロはふと振り返る。
優勝者の後方には今大会で活躍した若き剣士たちが並んでいた。
準優勝者。
ベスト4。
ベスト8。
未来の騎士団を担う逸材達。
しかし。
そこにいない顔が二つあった。
エンツォ・コッツァ。
そして。
クリスティアン・ビリンデッリ。
エンツォは負傷により棄権。
クリスティアンは二回戦敗退。
大会の規定上、この場に立つ資格はなかった。
マウロは少し寂しそうに微笑む。
「エンツォ……クリスティアン」
誰にも聞こえない声。
「君達の二回戦こそ事実上の決勝戦だった」
視線は遠く。
「この場に君達がいない事を何よりも無念に思う」
それは優勝者としてではなく。
一人の剣士としての本音だった。
--
その日の夜。
クリスティアン達はサンシーロでも評判の高級リストランテへ足を運ぶ。
『ロッソ・ネーロ』
赤と黒を基調とした豪奢な店内。
磨き上げられた銀食器。
煌めくシャンデリア。
普段は正装でなければ入店も許されない格式高い店だった。
店名の『ロッソ・ネーロ』とは若手騎士団部隊の名称から取られている。
そして毎年、西大陸剣術大会期間だけは未来の剣士達を称えるため一般開放されるのだった。
まず運ばれてきたのはアペリティーヴォ。
食欲を刺激するため食前に楽しむ軽い飲み物や前菜文化である。
大人達には黄金色のスプマンテ。
スプマンテとは発泡ワインで、口の中で弾ける繊細な泡が特徴だ。
子供達には果実を使ったノンアルコールカクテル。
そして小皿にはサン・パオロ地方名物のオリーブ。
艶やかな緑色。
噛んだ瞬間。
ぷちりと果肉が弾ける。
濃厚な香りと上品な塩味が口いっぱいに広がった。
上級生が目を丸くする。
「こんなオリーブ初めてだ!」
誰もが頷いた。
ただのオリーブとは思えない。
それほどの美味しさだった。
続いてアンティパスト。
前菜である。
薄く切られた新鮮なヒラメのカルパッチョ。
透き通るような白身。
オリーブオイルと柑橘の香りが重なり、口の中で溶ける。
さらにカポナータ。
昼に食べたトラットリアのものとは別物だった。
野菜の甘み。
酸味。
香草の香り。
全てが計算され尽くしている。
剣術教師が感心する。
「さすがサンシーロのリストランテですな」
ワインを傾ける。
「一般開放の日でもクオリティが違いますね」
次はプリモ・ピアット。
主にパスタやリゾットなどの第一の皿である。
運ばれてきたのはポルチーニ茸のクリームパスタ。
湯気と共に芳醇な香りが立ち昇る。
濃厚なクリーム。
ポルチーニ茸特有の森を思わせる香り。
もちもちの麺。
誰もが無言になる。
引率教師は目を潤ませた。
「生まれて初めてこんなクリームパスタを食べた……」
感動で震えている。
続いてセコンド・ピアット。
肉や魚を中心とした主菜である。
運ばれてきたのはフランキ地方名物。
牛フィレ肉のブルスケッタ。
一般客向けのため量は控えめ。
しかし。
一口食べた瞬間。
全員が固まった。
肉汁。
旨味。
香ばしさ。
柔らかさ。
全てが異次元だった。
「うまっ!!」
「なんだこれ!!」
「噛んだ瞬間消えたぞ!?」
上級生達が騒ぎ出す。
引率教師は感動のあまり椅子にもたれかかった。
さらにコントルノ。
主菜に添えられる付け合わせ料理。
シェフが厳選した季節野菜のサラダが彩り鮮やかに並ぶ。
野菜そのものの甘みが強く、ドレッシングすら主張しない。
続いてフォルマッジョ。
チーズ料理である。
提供されたのは長期熟成されたパルミジャーノ・レッジャーノ。
結晶化した旨味成分が舌の上でほどける。
飲み物との相性も抜群だった。
そして最後。
ドルチェ。
食後の甘味。
運ばれてきたのは本格カッサータ。
リコッタチーズをたっぷり使ったサンシーロ風の逸品。
ナッツ。
ドライフルーツ。
蜂蜜。
爽やかな甘さが広がる。
誰もが幸せそうな顔をしていた。
「最高だ……」
「生きててよかった……」
「もう思い残すことはない……」
そんな声まで聞こえる。
だが。
一人だけ。
クリスティアンだけは違った。
豪華な料理を前にしても。
どこか上の空だった。
フォークを動かしていても視線は遠い。
マウロとエンツォとの出会い。
騎士団の技。
世界の広さ。
頭の中で何度も繰り返されていた。
引率教師が呆れたように言う。
「クリスティアン」
「はい?」
「お前が食いたいと言うから連れてきたのに、ずっとぼーっとしてるじゃないか」
クリスティアンは慌てて笑った。
「あっ、いや……」
頭を掻く。
「もう最高に美味かったんですけど……」
少し考える。
「疲れちゃってるのかな?俺」
無理に戯ける。
引率教師はため息を吐いた。
「全くお前という奴は」
周囲からも笑いが起こる。
だが。
剣術教師だけは何も言わなかった。
ワイングラスを傾けながら静かにクリスティアンを見る。
そして目を細めた。
確信していた。
今日。
サンシーロで。
マウロと出会い。
エンツォと戦い。
世界を知った。
その経験は。
確実に少年の中に種を蒔いた。
まだ本人も気付いていない。
だが。
いつか芽吹く。
村に骨を埋めると言っていた少年の心は。
もう以前と同じではない。
クリスティアン・ビリンデッリの中で。
何かが確かに変わり始めていた。
--
翌朝。
まだ朝靄の残るサンシーロの城門前。
デッレ・アルピ村へ帰る馬車が静かに停まっていた。
馬たちが鼻を鳴らす。
車輪には長旅に備えて新しい油が差されている。
帰路は往路と同じ。
サンシーロからオリンピコ。
オリンピコからタルディーニ。
そしてディターリアを経由してデッレ・アルピ村へ至る約八時間の道のりだった。
引率教師が荷物を確認している。
上級生は昨日食べ過ぎたらしく、既に顔色が悪い。
「うっ……」
腹を押さえる。
「俺、昨日の牛肉をあと三皿はいけると思ったんだけどな……」
剣術教師が呆れる。
「馬鹿者。欲張るからだ」
上級生は遠い目をした。
「でも後悔はありません……人生最高の食事でした……」
クリスティアンは馬車へ乗り込む。
窓際の席。
そして大きく伸びをした。
「ふぁぁぁぁ……」
欠伸が漏れる。
疲労が一気に押し寄せていた。
大会。
エンツォとの激闘。
そして豪華な晩餐。
濃すぎる二日間だった。
馬車がゆっくりと動き始める。
サンシーロの街並みが後ろへ流れていく。
高い城壁。
石造りの建物。
朝から賑わう市場。
昨日まで夢中で見ていた景色だった。
「帰るのが惜しいか?」
剣術教師が隣に腰掛ける。
クリスティアンは少し考えた。
そして首を振る。
「いや」
窓の外を見る。
「母様が待ってますから」
教師は微笑んだ。
「そうか」
クリスティアンはそれ以上何も言わなかった。
だが。
視線はずっとサンシーロへ向いていた。
城門を抜ける。
サンシーロが遠ざかる。
その時だった。
ふと。
コロセウムの歓声が頭の中によみがえる。
――ビリンデッリ!!
――ビリンデッリ!!
――ビリンデッリ!!
胸が少し熱くなる。
父の名を呼ぶ何万人もの声。
マウロの剣。
エンツォの剣。
自分の知らない世界。
クリスティアンは拳を握った。
「なぁ先生」
ぽつりと呟く。
「なんだ?」
「騎士団の奴らって」
少しだけ考える。
「みんなあんなに強いんですか?」
教師は笑った。
「いや」
即答だった。
「エンツォ様もマウロ様も特別だ」
クリスティアンは少し安心した。
「なんだ」
「じゃああの二人が化け物なだけか」
「そうだな」
教師も笑う。
だが。
続く言葉にクリスティアンは固まった。
「ただし」
「騎士団にはあの二人と同格か、それ以上もいる」
「……は?」
教師は楽しそうだった。
「世界は広いぞ」
クリスティアンは絶句した。
エンツォ以上。
マウロ以上。
そんな人間がいるのか。
想像もつかなかった。
馬車はオリンピコへ入る。
大きな街道。
旅人。
商隊。
兵士。
様々な人々が行き交う。
以前なら何も思わなかった。
だが今は違う。
一人一人がどこかへ向かっている。
夢を追う者。
家族を養う者。
戦場へ赴く者。
クリスティアンは窓から眺めながら思う。
(父様もこんな景色を見てたのかな)
昼頃。
タルディーニを通過する。
大きな川沿いの街だ。
河川港には船が並び、荷物を運ぶ人々の声が響いている。
活気に満ちていた。
「すげぇな」
思わず呟く。
村では見られない光景。
教師は何も言わない。
ただ少年の横顔を見ていた。
以前なら。
クリスティアンは興味を示さなかった。
村の外などどうでもいいと言っていた。
だが今は違う。
明らかに。
見る目が変わっていた。
夕方。
ディターリアを抜ける頃には全員疲れ切っていた。
上級生は寝ている。
引率教師も寝ている。
御者の歌声だけが聞こえる。
馬車の揺れ。
車輪の音。
静かな時間。
クリスティアンは空を見上げた。
茜色だった。
ふと。
エンツォの言葉を思い出す。
――サンシーロに来いよ。
――パオロ様みたいになれそうなのに。
そして。
マウロの剣。
あの人間離れした動き。
何度思い返しても理解できない。
「……」
無意識に木刀を握る。
胸がざわつく。
理由はわからない。
ただ。
あの場所へもう一度行きたい。
そう思ってしまった。
やがて。
夕陽の向こうに見慣れた風景が現れる。
森。
畑。
小さな家々。
そして。
デッレ・アルピ村。
クリスティアンの故郷。
「帰ってきたな」
剣術教師が呟く。
クリスティアンも頷いた。
「はい」
その声はいつも通りだった。
だが。
彼自身は気付いていない。
この八時間の帰路でさえ。
心のどこかがサンシーロへ置き去りになっていることを。
英雄パオロ・ビリンデッリの息子。
クリスティアン・ビリンデッリ。
その運命は。
静かに。
しかし確実に動き始めていた。




