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ビリンデッリの血〜東西大陸百年戦記〜  作者: エリカサファイア
episode1(Departure)

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episode1(Departure)Chapter7

エンツォが去った直後だった。

再びコロセウムが揺れる。

先ほどとはまた違う歓声。

いや。

さらに大きい。


『ミッコリ!!』

『ミッコリ!!』

『マウロォォォ!!』

『勝てぇぇぇ!!』


歓声の波が競技場全体を飲み込んだ。

発煙筒が焚かれる。

巨大な旗が振られる。

若い女性たちの黄色い声まで響いてくる。


「きゃあああああ!!」

「マウロ様ぁぁぁ!!」

「こっち向いてぇぇぇ!!」

「素敵ぃぃぃ!!」


クリスティアンは思わず耳を塞いだ。

「うわっ」

そして苦笑する。

「凄い人気だな」


壇上へ向かう青年を見る。

堂々とした歩き方。

無駄のない所作。

観客たちの期待を一身に背負っている。

クリスティアンは両手を口に当てて叫んだ。

「頑張ってくださいよー!」

その声は歓声にかき消されたが。

マウロはちらりとこちらを見た気がした。


その様子を見ていた剣術教師が肩を叩く。

「クリスティアン」

「はい?」

「よく見てなさい」

教師の声は真剣だった。


「え?」

クリスティアンも自然と表情を引き締める。


壇上では既に両者が向かい合っている。

対戦相手も決して弱くない。

地方大会を勝ち抜いてきた実力者だ。

観客たちも好試合を期待していた。

審判が手を振り上げる。

「始め!」


次の瞬間だった。

クリスティアンは何が起きたのかわからなかった。

いや。

観客の大半も理解できなかった。


マウロが踏み込む。

ただそれだけ。

そう見えた。

だが。

視界がぶれた。

残像。

いや違う。

分身。

マウロが三人に見えた。


右。

左。

正面。


同時に存在しているような錯覚。

観客席がざわつく。


「えっ?」

「今……」

「見えたか?」


そして。


カァン!!


乾いた音が響く。

試合開始から僅か一秒。

対戦相手の木刀が空高く舞い上がった。

くるくると回転しながら飛び。

地面へ突き刺さる。


静寂。


完全な静寂だった。

誰も理解できていない。

マウロは既に相手の背後に立っていた。

そして振り返る。

穏やかな笑顔。

「良き戦いでした」

まるで友人へ語りかけるような口調。

そして右手を差し出した。

「騎士団でお待ちしています」


対戦相手は呆然としていた。

口をぱくぱくさせる。

そしてようやく声を絞り出す。

「い……」

顔色が青い。

「今、分身しましたよね??」


会場が笑いに包まれる。

しかし本人は本気だった。

本当にそう見えたのだ。


マウロはくすりと笑う。

「ふふっ」

差し出した手はそのまま。

「この程度は騎士団で学べばすぐ出来ますよ」

さらりと言う。

観客席から歓声が爆発した。


『ミッコリ!!』

『ミッコリ!!』

『ミッコリ!!』


若い女性たちの悲鳴のような歓声まで混じる。

まさしく英雄候補。

誰もが憧れる存在だった。


だが。

クリスティアンには歓声が聞こえていなかった。

ただ壇上を見つめる。

目を見開いたまま。

手すりを握る。

気付けば力が入っていた。

木製の手すりが軋む。


(なんだ今の……)


速い。

そんな言葉では足りない。

見えなかった。

父以外に。

いや。

父の訓練ですらあんな動きを見た記憶はない。


胸が高鳴る。

恐怖ではない。

悔しさでもない。

もっと別の感情。

知らない世界を見た時の高揚感。

剣士としての本能が叫んでいた。


――強い。

戦ってみたい。

そう思ってしまった。


その横で。

剣術教師が静かに微笑む。

そしてクリスティアンの肩を叩いた。

「どうだ」


クリスティアンは答えない。

視線は壇上のまま。


教師は続ける。

「クリスティアン」

少しだけ嬉しそうに。

「世界は広いだろ」


その言葉に。

クリスティアンはゆっくりと頷いた。

今まで自分は強いと思っていた。

デッレ・アルピ村では敵がいなかった。

学校でも負けたことがない。


だが。

サンシーロには。

西大陸には。

こんな剣士がいる。

知らなかった世界。

見たこともない高み。

クリスティアンは無意識に拳を握った。

その瞳には。

初めて。

純粋な向上心の炎が宿り始めていた。


そして観客席の歓声の中で。

剣術教師は確信する。

連れて来て正解だったと。


マウロ・ミッコリの試合が終わっても、クリスティアンはしばらく動けなかった。

頭の中では先ほどの光景が何度も再生されている。


あの踏み込み。

あの残像。

あの一撃。


同じ剣なのに、自分とはまるで違う世界の技だった。

その時だった。


背後から鼻で笑うような声が聞こえた。

「あの程度でビビってるようじゃ、まだまだだな。二世」


クリスティアンが振り返る。

そこには腕を組んだ青年が立っていた。


鋭い目つき。

獲物を狙う獣のような雰囲気。

先ほどマウロと話していた男。

「あなたは確か……」

クリスティアンが言いかける。


青年は口元を吊り上げた。

「エンツォ・コッツァだ」

そして壇上を顎で示す。

「あんな初歩的な動きでも見たことがなかったか?」

挑発的な笑み。

「パオロ様なら十人に錯覚させるように動けてたぜ」


クリスティアンの眉が僅かに動く。

「俺は父様から剣は教わってない」

短く答える。

「自己流だ」


その言葉を聞いたエンツォは一瞬だけ目を丸くした。

「……マジかよ」

だがすぐに呆れたように頭を掻く。

「勿体なさすぎるぜ」

ため息を吐く。

「俺なんざガキの頃、騎士団の訓練場の柵の外から見よう見まねで振ってたってのに」

苦笑混じりに吐き捨てる。

「どうりで振りが素人に毛が生えた程度だったわけだ」


クリスティアンの表情が険しくなる。


エンツォは構わず続けた。

「マウロは褒めてたがな」

肩を竦める。

「俺から言わせりゃ騎士団じゃ通用しねえ」


周囲の空気が張り詰める。

引率教師ですら顔を強張らせた。


だが剣術教師だけは冷静だった。

彼は軽く頭を下げる。

「エンツォ様」

穏やかな声。

「おっしゃる通りです」

クリスティアンが驚いて教師を見る。

教師は続けた。

「この子はまだ田舎の腕自慢に過ぎません」

事実だった。

だからこそ否定しない。

「どうか怪我のないようお手柔らかに」


エンツォは鼻で笑う。

「安心してください先生」

そう言うと肩に担いでいた木刀を持ち上げた。

そして。

まっすぐクリスティアンへ向ける。

「怪我する前に片付けますから」

その一言で周囲がざわつく。

完全な宣戦布告だった。


クリスティアンのこめかみに青筋が浮かぶ。

本来なら騎士団だの何だのには興味がない。

だが。

この男だけは別だった。

気に入らない。

心底。


クリスティアンも木刀を持ち上げる。

そして同じようにエンツォへ向けた。

「騎士団なんかどうでもいい」

声は低い。

「だがアンタは気に入らねえ」

エンツォの目が細くなる。

クリスティアンはさらに続けた。

「アンタこそ怪我して戦場に出られなくなって恥かかないようにな」


周囲の教師たちが青ざめた。

なんという言い返しだ。

しかしエンツォは怒らなかった。

むしろ――。

少しだけ笑った。

獰猛に。

「血統だけで何でも出来ると思うなよ」

静かな声だった。

だが重い。

「血統も才能もな」

木刀を肩へ戻す。

「伸ばさなきゃ何の意味もねえんだ」


その瞳には怒りではなく。

強烈な自負が宿っていた。

雨の日も夜明け前も関係なく木剣を振った。

訓練場に入れなかった頃は荷運びの仕事を終えたあと、石畳を相手に足運びだけを何千回も繰り返した。

騎士見習いになってからも、才能がないと言われ続けた。

それでも誰より早く起き、誰より遅くまで残った。

自分は下から這い上がった。

誰の息子でもない。

誰の後継者でもない。

己の腕だけでここまで来た。

だからこそ。

英雄の息子という肩書きが先に語られる人間を見ると苛立つのだ。


エンツォは踵を返した。

「教えてやるよ」

最後に振り返る。

「俺は泥だらけの訓練場で何百回もぶっ倒れて覚えた。本物の剣ってやつをな」

そしてそのまま去っていった。


しばらく沈黙。

そして。

「なんだアイツ!」

クリスティアンが爆発した。

「初対面だぞ!?」

「なんであんな喧嘩腰なんだよ!」


引率教師が苦笑する。

だが剣術教師は静かだった。

「エンツォ様はな」

クリスティアンが振り返る。

教師は観客席を見つめながら語り始めた。

「元々は下級市民の出身じゃ」

「え?」

「血統もない」

「……」

「コネもない」

教師は続ける。

「それでも己の腕一つで騎士団に入り込んだ叩き上げなんじゃ」

「若い頃は訓練用の木剣すら買えず、割れた木材を削って振っていたと聞く」


クリスティアンは黙る。

そんな出自だとは思わなかった。


教師は苦笑した。

「そりゃあな」

遠くを歩くエンツォの背中を見る。

「パオロ様の息子というだけで注目されるクリスティアンは気に入らんじゃろうな」


クリスティアンもその背中を見る。

確かに。

今日一日で何人もの人間が自分を見た。

クリスティアンとしてではなく。

パオロ・ビリンデッリの息子として。

それは事実だった。

だが。

だからといって。

「だからってあんな言い方あるかよ……」

不満そうに呟く。


しかし。

心のどこかでは引っ掛かっていた。

――騎士団じゃ通用しねえ。

――振りが素人に毛が生えた程度。

腹が立つ。

だが。

マウロの剣を見た今となっては。

完全に否定もできなかった。


クリスティアンは無意識に拳を握る。

初めてだった。

自分より強い相手に。

負けたくないと思ったのは。

そして西大陸剣術大会二回戦。

クリスティアン・ビリンデッリ。

対。

エンツォ・コッツァ。

運命の一戦が、静かに近づいていた。

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