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ビリンデッリの血〜東西大陸百年戦記〜  作者: エリカサファイア
episode1(Departure)

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episode1(Departure)Chapter5

大会初日。

サンシーロの朝は早かった。

まだ試合開始まで時間があるにもかかわらず、街全体が祭りのような熱気に包まれている。


西大陸剣術大会。

それは単なる学生大会ではない。


未来の騎士団長。

未来の将軍。

未来の英雄。


そうした若者たちの原石が集う一大イベントだった。

王都の住民たちはもちろん、近隣諸国からも観客が押し寄せる。

そしてその熱狂の中心となるのが――。

巨大円形闘技場。

コロセウムである。


「でっか……」

クリスティアンは思わず見上げた。


数万人を収容する巨大な石造建築。

外壁には歴代優勝者たちの名が刻まれている。

だが本当に圧倒されたのは、その中へ足を踏み入れた瞬間だった。


ゴォォォォォォォォォッ!!


耳の奥を殴りつけるような重低音が押し寄せる。

いや。

ただの歓声ではない。

熱を帯びた空気の塊が四方八方からぶつかってくるようだった。

石畳の床が微かに震え、胸骨の内側まで振動が響く。

鼻を突く火薬の匂い。

汗と酒が混じった人いきれ。

肌にまとわりつく熱気。


クリスティアンは思わず肩を震わせた。

「ひぃぃぃっ!!」

顔が引きつる。

「な、なんだこれはぁぁ!?」


剣術教師も引率教師も言葉を失う。

観客席は完全に埋め尽くされていた。

立ち見席まで満員。

通路にまで人が溢れている。

空には無数の発煙筒が焚かれ、赤、青、白、緑の煙が幾重にも重なり合って天井付近を覆っていた。

霞んだ光が差し込み、闘技場全体を異様な色彩に染め上げる。

まるで開戦前の戦場だ。


そして観客席を埋め尽くしているのは――。

ティフォージ。

熱狂的な応援団たちだった。

ティフォージとは単なる観客ではない。

彼らは選手や騎士団を心から愛し、人生の一部として応援する者たちである。

何メートルもある旗布が風を裂き。

巨大な太鼓が腹の底を揺らし。

角笛が鋭く鳴り響く。

選手の活躍に泣き、敗北に涙し、英雄を何十年も語り継ぐ。

彼らにとって応援とは娯楽ではなく信仰に近い。

観客席には巨大な横断幕が何十枚も掲げられていた。


《未来の英雄たちよ剣を示せ》

《王国の誇りを見せろ》

《我らは共に戦う》

《サンシーロの魂を継げ》


色鮮やかな旗列が波のようにうねり、布の擦れる音が連なって響く。

太鼓の連打が鼓動を支配し、角笛の音色が頭上を突き抜ける。

その光景は競技場というより巨大な祭典だった。


しかし。

次の瞬間。

観客席の空気が変わる。

誰かが気付いた。

そして一人が叫ぶ。


「ビリンデッリだ!!」


静寂。

わずか一秒。

その直後。

会場が爆発した。


『ビリンデッリ!!』

『ビリンデッリ!!』

『ビリンデッリ!!』

『ビリンデッリ!!』


数万人の叫びが一つの奔流となって押し寄せる。

鼓膜が震え、肺の空気まで揺さぶられる。

観客席のあちこちで巨大な旗が一斉に立ち上がった。


そこに描かれているのは。

剣を掲げる一人の騎士。

パオロ・ビリンデッリ。


クリスティアンは完全に固まった。

「えっ」

周囲を見回す。

「えっ?」

さらに大合唱が始まる。

それは古くからサンシーロで歌い継がれてきた応援歌だった。


♪王国が沈む時

 剣を掲げた男がいた

 炎の中でも退かず

 仲間のために立ち続けた

 パオロ!

 パオロ!

 我らの誇り!

 ビリンデッリの名は永遠なり――♪


数万人の歌声が石壁に反響し、幾重にも重なって天蓋のように降り注ぐ。

低い声も高い声も混ざり合い、一つの巨大な旋律となって闘技場を満たしていた。


まるで神話の英雄を讃える聖歌だった。

クリスティアンは呆然と立ち尽くす。


隣では引率教師が絶句していた。

「サンシーロでのパオロ様は……」

言葉が続かない。


剣術教師も同じだった。

「デッレ・アルピよりも英雄とは聞いていたが……」

唖然と観客席を見上げる。

「まさかこれほどとは」


二人とも想像していなかった。

辺境の村で語られる英雄と。

王都で語られる英雄。

その存在感の差を。


上級生も苦笑していた。

「ははは……」

肩を竦める。

「こりゃ辞退して正解だったな」


もし自分が出場していたとしても。

この熱狂の渦中で平静を保つ自信はない。

数万人が自分を見ている。

それだけで膝が震える。


だが。

クリスティアンだけは違う意味で震えていた。

彼は観客席を見上げる。


旗。

歌。

人々の叫び。

涙を流しながら父の名を呼ぶ老人。

顔を真っ赤にして拳を突き上げる若者。

パオロの肖像画を胸に抱く子供たち。


その全てが目に入った。

そして。

気付けば頬を涙が伝っていた。


「父様は……」

声が震える。

「こんなにも皆さんに愛されてたんですね……」

それは村では見たことのない光景だった。

父が英雄だったことは知っている。

皆から尊敬されていたことも知っている。

だが。


愛されていた。

これほどまでに。

十年以上経った今でも。

これほど多くの人々に。

それは初めて知る父の姿だった。


剣術教師はそんなクリスティアンの肩をそっと叩く。

「そうだ」

優しい声だった。

「この光景を君に見せただけでも」

教師は微笑む。

「連れてきた甲斐があった」


クリスティアンは涙を拭った。

だが観客席から響く声は途切れない。


『ビリンデッリ!!』

『ビリンデッリ!!』

『ビリンデッリ!!』


父の名を呼ぶ声。

その轟きの中で。

少年は初めて知る。

英雄パオロ・ビリンデッリという存在が、自分の想像を遥かに超える大きさで人々の心に生き続けていることを。


そして運命は。

もう既に動き始めていた。


『ビリンデッリ!!』

『ビリンデッリ!!』

『ビリンデッリ!!』


更に鳴り止まない歓声。

競技場全体を揺らすような大合唱。

その中心でクリスティアンはしみじみと、ありし日の父の姿を思い出す。

「父様って本当に凄かったんだな……」

ぽつりと漏らす。


その時だった。

「君がパオロ様の息子さんだね」

不意に背後から落ち着いた声が聞こえた。


クリスティアンが振り返る。

そこには一人の青年が立っていた。

年齢は二十歳前後。

鍛え抜かれた体躯。

日焼けした肌。

鋭い眼差し。

腰には使い込まれた剣が提げられている。

ただ立っているだけなのに只者ではない雰囲気が漂っていた。


剣術教師がその姿を見た瞬間、目を見開く。

「あなたは……!」

思わず背筋を伸ばした。

引率教師も息を呑む。

彼らはその青年を知っていた。


西大陸中に名を知られる若き英雄。

戦場でも武名を上げている天才剣士。

マウロ・ミッコリ。

大会優勝候補の筆頭格だった。


クリスティアンはそんなことを知らない。

首を傾げながら軽く会釈する。

「はじめまして」

そして素直に尋ねた。

「父をご存知で?」


その言葉に青年は柔らかく微笑んだ。

「もちろんです」

一歩前へ出る。

「私はマウロ・ミッコリ」

そう名乗ると右手を差し出した。

「パオロ様はサンシーロの英雄です」

その声には敬意が込められていた。

作り物ではない。

心からの敬愛。

「ご息族にお会い出来て嬉しいです」


クリスティアンは少し驚いた表情を浮かべる。

先ほどから何人もの観客が父の名を叫んでいた。

だがこうして直接敬意を向けられると、改めて実感が湧いてくる。

「あ、ありがとうございます」

少し戸惑いながらも差し出された手を握った。

がっしりとした握手。


マウロはその手の感触に僅かに目を細める。

鍛えられている。

それも並ではない。

ただの学生の手ではなかった。


一方のクリスティアンはというと、

(うわ……すげぇ握力だな……)

などと考えていた。


そんな様子にマウロは思わず笑う。

「大会、楽しみにしているよ」


「え?」

クリスティアンはきょとんとする。

「俺は代役なんですけど」


「代役だからこそだ」

マウロは意味深に微笑んだ。

そして一度だけクリスティアンの目を見る。

その瞬間。

戦場を知る剣士だけが持つ鋭い感覚が告げていた。


――強い。

とてつもなく。

まだ粗削りだが。

磨かれていない原石だが。

間違いなく本物だ。


マウロは口元に笑みを浮かべたまま背を向ける。

「会えることを願っている」

そう言い残し、人混みの中へ消えていった。


クリスティアンはしばらくその背中を見送る。

「変な人だったな……」

呟く。


すると剣術教師が頭を抱えた。

「変な人ではない」

「え?」

「西大陸剣術大会優勝候補筆頭だ」

「へ?」

クリスティアンが固まる。


引率教師も苦笑した。

「前線でも武功を上げている有名人だぞ」

「えぇぇぇっ!?」

今さら叫ぶクリスティアン。


教師たちは揃ってため息を吐いた。

どうやらこの少年だけが、自分を取り巻く状況の大きさをまだ理解していないらしかった。

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