episode1(Departure)Chapter1
窓の隙間から差し込む朝日が、木造の小さな家を優しく照らしていた。
七年という歳月は、少年を青年へと変えるには十分な時間だった。
かつて十歳だったクリスティアンは、今や十七歳。
父譲りの整った顔立ちに、母譲りの金色の髪。肩幅も広くなり、その体つきはすでに一人前の騎士を思わせるほどに成長していた。
まだ朝靄の残る時間。
クリスティアンは寝台から起き上がると、手早く身支度を整え、居間へと向かった。
そこではすでにアンジェリカが朝食の準備を進めていた。
七年前と比べれば、彼女にも確かに歳月の跡は刻まれている。
目尻には細かな皺が浮かび、かつての少女のような瑞々しさは少しずつ落ち着いたものへと変わっていた。
それでもなお、その美貌は健在だった。
朝日に照らされる横顔は凛として美しく、誰もが振り返るほどの気品を今も失っていない。
そんな母の姿を見るなり、クリスティアンは慌てて駆け寄った。
「ほらほら! 母様はもうゆっくりしてください。残りの準備くらい私がやりますから」
アンジェリカは振り返ると、わざと頬を膨らませた。
「まぁ、年寄り扱いして!」
木匙を軽く振りながら続ける。
「まだまだ朝食くらい一人で準備できますよ」
「そういう問題じゃありませんって」
苦笑しながらクリスティアンは食卓へ皿を並べ始めた。
アンジェリカもそれ以上は何も言わず、どこか嬉しそうに息子の働く姿を眺めていた。
やがて朝食が食卓に並ぶ。
今日の主食はブリオッシュ。
卵とバターをたっぷり練り込んで焼き上げた、柔らかく甘みのあるパンだ。
表面はほんのり黄金色に焼け、中はふわりと軽い。
本来であれば貴族の食卓にも並ぶ贅沢な焼き菓子のようなパンである。
その横には小さなカップに注がれたエスプレッソ。
濃厚な香りを漂わせる黒い飲み物からは、わずかに湯気が立ち昇っていた。
さらに食卓の中央には、アンジェリカ特製のミックスフルーツジャム。
森で採れた木苺や野苺、保存していた果実を煮詰めて作られたもので、鮮やかな赤色が朝日に輝いている。
そして小瓶に入った黄金色のはちみつ。
数少ない貴重な甘味料だった。
だが、かつての豊かな食卓を知るアンジェリカには、やはり物足りなく映るのだろう。
彼女は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんね……どんどん食べ物も手に入らなくなってきて」
戦乱が続く王国では流通が滞り、年々物資は減っていた。
以前なら市場に並んでいた品々も、今では滅多に見かけない。
アンジェリカはなんとか工夫を重ねて食卓を支えていたが、それでも限界はあった。
しかしクリスティアンは首を横に振る。
ブリオッシュを一口ちぎりながら、静かに言った。
「それでも食べられるだけ恵まれてますから」
そして窓の外へ視線を向ける。
遠くの丘の向こうには、かつて父が守ろうとした王国が広がっている。
「父様の功績のおかげです」
その言葉には誇りと感謝が込められていた。
アンジェリカは少しだけ目を伏せる。
愛する夫を失ってから七年。
それでも彼の残したものは確かに生き続けている。
息子の中に。
そして、このささやかな日常の中に。
アンジェリカは微笑み、静かに頷いた。
「ええ……本当にそうね」
朝日が食卓を照らす。
穏やかな時間は長くは続かない。
だがこの時だけは、母と子は確かに幸せだった。
クリスティアンは最後の一口を飲み込み、席を立った。
肩に鞄を掛けると、慣れた動作で剣帯の位置を確かめる。
「では行って参ります」
アンジェリカは優しく微笑んだ。
「ええ、気をつけて」
「はい」
クリスティアンは軽く手を振り、家を後にする。
扉が閉まる音が響き、その足音が少しずつ遠ざかっていく。
アンジェリカはしばらく玄関先に立ったまま、その背中を見送っていた。
やがて姿が見えなくなると、静かに視線を落とす。
そして誰もいなくなった家の中で、小さく呟いた。
「あなた……」
目の前にいるはずのない夫へ語りかけるように。
「どんどん若い頃のあなたに似てくるわ……」
クリスティアンの横顔。
誰かを守ろうとする優しさ。
困っている人を放っておけない性格。
その全てがパオロによく似ていた。
アンジェリカの目に涙が滲む。
「あの子までサンシーロに行くと言い出したら……」
声が震える。
七年前の別れが脳裏によみがえる。
愛する人を戦場へ送り出したあの日。
そして帰らぬ人となった日。
「あの子まで失ったら……私、もう耐えられないかもしれない」
涙が頬を伝った。
「ごめんなさい……」
それは亡き夫への謝罪だったのか。
それとも息子の未来を恐れる自分への言葉だったのか。
アンジェリカ自身にも分からなかった。
ただ静かな家の中で、一人涙を流し続けた。
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その頃。
クリスティアンは村の高等部へ向かう道を歩いていた。
朝の空気は涼しく、畑では農民たちが仕事を始めている。
すると背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「おーい!クリス!」
振り返ると、幼馴染のディメトリオが駆け寄ってくる。
「遅刻するぞ」
「お前が早すぎるんだよ」
二人は並んで歩き始めた。
しばらく他愛のない話をしていたが、不意にディメトリオが真面目な顔になる。
「なあ」
「ん?」
「どうするんだ進路は?やっぱりサンシーロに行くのか?」
クリスティアンは少し考えるように空を見上げた。
そして首を横に振る。
「いや、村に残るよ」
「へえ?」
「母様を一人には出来ないしな」
そう言って苦笑する。
「それに魔獣が村に出てきたら、このままじゃ俺しか戦えないだろ」
ディメトリオは吹き出した。
「それもそうだな」
デッレ・アルピ村に駐留兵はいない。
若者の多くは徴兵されたり戦力として心許なかったり。
もし魔獣が現れれば、確かにクリスティアンが最前線に立つことになるだろう。
「お前は?」
今度はクリスティアンが尋ねる。
ディメトリオは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「俺は先生が推薦してくれるみたいだからサンシーロに行くよ」
「おお、本当か」
「必ずパオロ様をちゃんと送れるように勉強してくる」
サンシーロには王国有数の学術機関と神殿が存在する。
死者を正しく弔い、その魂を導く知識を学ぶためには最適の場所だった。
ディメトリオらしい夢だとクリスティアンは思う。
だが次の瞬間、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「とか言って、魔術師部隊とかになって帰ってこないパターンだろ?」
「勘弁してくれよ」
ディメトリオは大袈裟に肩をすくめた。
「戦争はごめんだ」
二人は顔を見合わせて笑う。
しかしその笑いの奥には、どこか重い現実があった。
百年戦争。
もはや誰が何のために始めたのかさえ分からなくなりつつある長い戦い。
王が代わり、将軍が代わり、貴族が代わり。
掲げられる大義名分も幾度となく変わった。
それでも戦争だけは終わらない。
戦場から届くのは勝利の知らせよりも戦死者の報せばかりだった。
王都から遠く離れた辺境のデッレ・アルピ村でさえ、その影響から逃れることはできない。
若者は徴兵される。
商人は来なくなる。
作物は軍へ優先的に回される。
物価は上がり、生活は苦しくなる。
そして毎年のように誰かが帰ってこない。
村人たちはもう英雄譚を語らない。
敵国への憎しみを口にすることも少なくなった。
ただ願うのは一つだけ。
早く終わってほしい。
それだけだった。
誰のための戦争なのか。
何のための戦争なのか。
そんな問いに答えられる者は、もうどこにもいなかった。
それでも世界は何事もないように回り続ける。
クリスティアンとディメトリオは校舎へ向かって歩いていく。
まだ知らない。
この平穏な日々が終わりを迎えようとしていることを。




