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ビリンデッリの血〜東西大陸百年戦記〜  作者: エリカサファイア
episode0(Prologue)

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episode0(Prologue)Chapter15

夕暮れ。

火葬場には静かな風が吹いていた。

パオロ・ビリンデッリの棺は荘厳な祭壇の上に安置されている。

村人たちは最後の祈りを捧げ、静かに頭を垂れていた。

その中央に立つのはダミアーノ・スキラッチ。

老神官は杖を握り、深く目を閉じる。

そして迷いなく詠唱を始めた。


「大いなる創世の神よ――」

穏やかな声が辺りに響く。

「旅立つ魂に安らぎを。」

「苦難を越えし者に祝福を。」

「その魂が迷うことなく異界へ至り、再び光へ還らんことを。」


杖の先端から柔らかな光が溢れ出す。

淡い黄金色の光は炎へと溶け込み、まるでパオロを包み込むように揺らめいた。


村人たちは息を呑む。

老神官が扱うにはあまりにも高度な魔術。

本来ならば王都サンシーロに住まう宮廷魔術師が数人がかりで執り行う儀式だった。


詠唱を終えたスキラッチは大きく息を吐いた。

額には汗が滲んでいる。

「アンジェリカ婦人……クリスティアンくん。」

老神官は申し訳なさそうに頭を下げた。

「申し訳ございません。老耄の魔力では……ここまでが精一杯です。」


アンジェリカは静かに微笑む。

「ありがとうございます。」

その笑顔は優しかった。

「本来、異界送りは都会で選ばれし宮廷魔術師の方々からしか受けられません。」

燃えゆく炎へ視線を向ける。

「それを故郷の村で送っていただけるのです。主人は幸せ者です。」


スキラッチは何も言えなかった。

ただ静かに頭を下げる。


その横で。

ディメトリオが顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。

「クリスティアン……。」

声が震える。

「俺がもっと勉強する。」

拳を握り締める。

「もっともっと神官として強くなって……必ずパオロ様をちゃんと送ってやるから。」

そう言うなりクリスティアンを抱きしめた。


クリスティアンも涙を流す。

「ありがとう……ディメトリオ。」

その一言を言うだけで精一杯だった。


アンジェリカは二人を見つめる。

そして静かに声を掛けた。

「さぁ、クリスティアン。皆様のお見送りをして帰りますよ。」


クリスティアンは目を擦る。

アンジェリカは続ける。

「あなたも帰ったらすぐに寝なさい。生きている者には明日が来るのです。」

その言葉は自分自身に言い聞かせるようでもあった。

「遅刻は許しませんよ。」


クリスティアンは力なく頷く。

「はい……。」

そして母と共に参列者の見送りへ向かった。



--



深夜。

ビリンデッリ家。

家中が静まり返っていた。


クリスティアンの部屋からは規則正しい寝息が聞こえる。

泣き疲れたのだろう。

枕にはまだ涙の跡が残っていた。


アンジェリカは静かに扉を閉める。

「おやすみなさい。」

誰にも聞こえないほど小さな声だった。


そして一人。

ダイニングへ戻る。

昼間と変わらぬ部屋。

いつもと同じ椅子。

いつもと同じ食卓。


だが。

そこにはもうパオロはいない。


アンジェリカは椅子を引こうとした。

その時だった。


力が抜ける。

膝が崩れる。


そのまま床へ跪いた。


「うっ……。」

喉が震える。

「うぅっ……。」

昼間ずっと堪えていたものが溢れ出す。

「ぁ……。」

唇が震える。そして。


「ああああああぁぁぁ……!」


張り裂けるような嗚咽だった。

誰もいない家に響く。

アンジェリカは机の上に飾られたパオロの写真を抱き寄せる。


震える指で。

壊れ物を扱うように。

胸へ抱き締める。


「あなた……。」

涙が止まらない。

「ごめんなさい……。」

肩が震える。

「ごめんなさい……。」


何度も。

何度も。


「夜が明けたらちゃんとします……。」

しゃくり上げながら言葉を紡ぐ。

「ビリンデッリ家の婦人として……ちゃんと毅然と振る舞います……。」

昼間の強いアンジェリカはそこにはいない。

ただ夫を失った一人の妻だった。

「でも……。」

写真を強く抱き締める。

「今だけは……。」

声が崩れる。

「今だけは許してください……。」


そして。

アンジェリカ・ビリンデッリは声を押し殺すこともできず、ただひたすら泣き続けた。

愛する夫の名を呼びながら。

誰よりも強く振る舞い続けた妻は。

誰も見ていない夜の中で。

ようやく未亡人として泣くことを許されたのだった。



--



翌朝。

ビリンデッリ家の台所には、いつも通りの朝の香りが漂っていた。


薪の燃える音。

湯気の立つ鍋。

煎りたてのコーヒー豆の香ばしい匂い。


アンジェリカは静かに朝食の準備を進めていた。

昨日と同じように。

いや。

昨日まで以上に丁寧に。

まるで日常を守ることが今の自分の使命であるかのように。

その時だった。


バタンッ――!


勢いよく寝室の扉が開く。

アンジェリカが振り返る。

そこには既に着替えを済ませたクリスティアンが立っていた。

目元には泣き腫らした跡が残っている。

それでも昨日より遥かに強い眼差しをしていた。


「あら。」

アンジェリカは少しだけ目を丸くする。

「今日は早いわね。どうしたの?」


クリスティアンは真っ直ぐ母を見た。

そして拳を握る。

「母様。」

その声には迷いがない。

「私はもう大丈夫です。」


アンジェリカの手が僅かに止まる。


クリスティアンは続けた。

「父様の教えを胸に、今日からもっと強く生きていきます。泣いてばかりでは父様に顔向けできません…だから――」


一度息を吸う。


「私は前を向きます。」

静かな決意だった。


アンジェリカは息子を見つめる。

数秒の沈黙。

やがて小さく頷いた。

「そう。」

ただそれだけだった。

だがその一言には様々な感情が込められていた。


誇らしさ。

安心。

そして少しの寂しさ。


アンジェリカは食卓へ朝食を並べる。

木の皿に乗せられたのはフェッテ・ビスコッターテ。

薄く切ったパンを二度焼きして作る保存食で、表面は香ばしく、中は軽い食感が特徴だ。

そのまま食べることもできるが、朝食ではバターやジャムを塗るのが定番である。


アンジェリカは焼き立てのフェッテ・ビスコッターテに新鮮なバターを塗る。

熱で少しずつ溶けた黄金色のバターが表面に艶を与える。

さらに昨年収穫した柑橘から作った手作りのマーマレードジャムを添えた。

爽やかな香りが広がる。


続いて温めたミルクを注ぎ、香り高いコーヒーと合わせてカフェラテを作る。

白い泡がふわりと揺れた。

「どうぞ。」

アンジェリカが微笑む。


クリスティアンは席に着き、両手を合わせた。

「いただきます。」


一口。

サクッという軽い音。

バターのコク。

マーマレードの優しい甘酸っぱさ。

空っぽだった胃袋に温かさが染み渡る。


クリスティアンは夢中で食べた。

昨日はほとんど何も口にできなかった。

だからこそ余計に美味しく感じる。

カフェラテで喉を潤し、最後の一口まで綺麗に平らげた。


そして立ち上がる。

鞄を肩に掛ける。

玄関へ向かう。

振り返った。


「行ってきます!」


昨日までと変わらぬ元気な声だった。


アンジェリカは穏やかに微笑む。

「行ってらっしゃい。」 


扉が閉まる。

足音が遠ざかる。

やがて静寂が訪れた。


アンジェリカはしばらく玄関を見つめていた。

そして静かに棚へ歩み寄る。

そこに置かれている一枚の写真。

パオロの遺影だった。


アンジェリカはそれを胸に抱く。

昨夜のように泣き崩れたりはしない。

ただ静かに目を閉じる。


「あなた。」

優しい声だった。

「残されたあの子だけは、しっかり最後まで育てます。」

窓から差し込む朝日が遺影を照らす。

「だから――」

遺影をそっと抱き締める。

「見守っていてください。」


しばらくの間。

アンジェリカはそのまま目を閉じていた。

まるで今もそこにパオロがいるかのように。

夫の温もりを思い出しながら。

そして再び目を開く。


ビリンデッリ家の新しい一日が始まろうとしていた。




episode0(Prologue)   fin

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