episode0(Prologue)Chapter14
村の入口から走ってきたクリスティアンは、息を切らしながら立ち止まった。
村人たちが集まっている。
婦人たちが泣いている。
そして。
家の前に置かれた棺。
嫌な予感が胸を締め付ける。
「母様……。」
声が震える。
「それは……?」
帰宅の挨拶すら忘れていた。
アンジェリカは何も答えない。
ただ息子を真っ直ぐ見つめる。
隣ではディメトリオも青ざめていた。
棺を見て。
周囲の様子を見て。
そしてアンジェリカの表情を見て。
全てを察しかけていた。
「ま……まさか……。」
膝から力が抜ける。
その場に崩れ落ちた。
アンジェリカは静かに言う。
「クリスティアン。」
その声に迷いはない。
「あなたが自分自身で確かめなさい。」
クリスティアンの喉が鳴る。
嫌だった。
見たくなかった。
だが足は勝手に前へ進んでいた。
棺の前に立つ。
手が震える。
呼吸が苦しい。
それでも。
ゆっくりと棺の窓へ手を伸ばした。
カチリ。
小さな音。
そして――そこにいた。
パオロ・ビリンデッリ。
白銀の騎士。
村の英雄。
自分が憧れ続けた父。
穏やかな顔で眠っている。
だが。
二度と目を覚ますことはない。
理解した瞬間。
世界が崩れた。
「あぁ……。」
声にならない。
喉が震える。
「あぁ……。」
視界が滲む。
そして。
「嘘だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫だった。
村中に響くほどの。
幼い少年の悲鳴だった。
アンジェリカは目を閉じる。
その声を受け止めるように。
クリスティアンは棺へ縋り付いた。
「父様!!」
肩を揺する。
「父様!!」
何度も。
何度も。
「目を開けてください!!」
涙が溢れる。
「父様!!父様ぁぁぁ!!」
返事はない。
いつもなら笑ってくれる。
頭を撫でてくれる。
だが。
何も返ってこない。
その現実だけが残酷だった。
ディメトリオが拳を握り締める。
震えるほど強く。
そして。
「チキショウッ!!」
地面を叩きつけた。
乾いた音が響く。
悔しかった。
悲しかった。
何もできない自分が許せなかった。
周囲の婦人たちも涙を流している。
顔を覆う者。
嗚咽を漏らす者。
村中が悲しみに包まれていた。
その中で。ただ一人。
アンジェリカだけが立っていた。
ゆっくりと目を開く。
そして息子を見る。
「クリスティアン。」
静かな声だった。
「葬儀の準備をしますよ。」
クリスティアンが振り向く。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら。
アンジェリカは続ける。
「あなたも手伝いなさい。」
「で……でも……。」
クリスティアンの声は震えていた。
まだ受け入れられない。
受け入れたくない。
だが。
アンジェリカは首を横に振った。
「でもではありません。」
その声は厳しかった。
母としてではない。
ビリンデッリ家を守る者としての声だった。
「ビリンデッリ家の跡取りとして勤めを果たしなさい。」
クリスティアンは唇を噛む。
涙が止まらない。
そして。
感情のまま叫んだ。
「母様は……!」
周囲が息を呑む。
「父様が亡くなったのに!!」
悲痛な声だった。
「どうしてそんなに冷静なのですか!?」
次の瞬間。
パァンッ――!!
乾いた音が響いた。
アンジェリカの平手がクリスティアンの頬を打ったのだ。
村人たちが驚く。
ディメトリオも目を見開く。
クリスティアンは頬を押さえたまま固まった。
アンジェリカの肩は震えていた。
拳も震えていた。
だが。その瞳だけは強かった。
涙が今にも溢れそうなほど潤んでいる。
それでも彼女は泣かない。
「偉大な父様を。」
声が震える。それでも続ける。
「皆様に弔っていただかなければならないでしょう!!」
とうとう涙が一筋こぼれた。
だが彼女は拭わない。
「早くしなさい!!」
その言葉は。
誰よりも悲しい者が。
誰よりも自分に言い聞かせるような叫びだった。
クリスティアンは言葉を失う。
初めて見た。
父の死を前にしても立ち続ける母の姿を。
そしてその時ようやく。
アンジェリカもまた。
自分と同じくらい。
いや、自分以上に苦しんでいるのだと理解した。
村を包む悲しみの中。
ビリンデッリ家の長い夜が始まろうとしていた。
--
翌日。
デッレ・アルピ村の教会には、多くの人々が集まっていた。
村人たちだけではない。
近隣の集落からも人々が訪れている。
サンシーロ騎士団の関係者。
かつてパオロに命を救われた旅人。
共に戦った元兵士。
誰もが同じ思いを抱いていた。
――白銀の騎士との別れ。
教会の中央には大きな棺が置かれている。
その中でパオロ・ビリンデッリは静かに眠っていた。
まるで今にも目を覚ましそうな穏やかな表情のまま。
参列者たちは順番に棺の前へ進み、祈りを捧げていく。
その傍らにはアンジェリカが立っていた。
黒い喪服に身を包み。
背筋を伸ばし。
訪れる一人一人へ丁寧に頭を下げている。
「本日はお越しいただきありがとうございます。」
「主人も喜んでいると思います。」
「遠方からお越しいただき感謝いたします。」
その声は穏やかだった。
取り乱すこともない。
泣き崩れることもない。
まるで家の客人を迎える時と変わらぬほど落ち着いていた。
その姿に参列者たちは胸を打たれる。
「本当に強い方だ……。」
「アンジェリカ婦人も辛いだろうに……。」
誰もがそう思っていた。
一方で。
棺の近くにはクリスティアンが立っていた。
いや――立っているだけだった。
実感がない。
頭では理解している。
棺の中にいるのが父だと。
もう帰ってこないのだと。
それでも心が受け入れない。
気付けば涙が溢れている。
拭っても。拭っても。止まらない。
視界は滲み続ける。
「父様……。」
小さく呟くだけで喉が詰まる。
その姿を見たアンジェリカが近付いてきた。
そして静かに言う。
「クリスティアン。」
少年は顔を上げる。
涙で真っ赤になった目で。
アンジェリカは厳しい口調で言った。
「いつまでメソメソと泣いているのですか。」
クリスティアンの肩が震える。
「男子たるもの毅然となさい。」
周囲の空気が張り詰めた。
クリスティアンは唇を噛む。
「ご……ごめんなさい。」
必死に涙を拭う。
だが次の瞬間にはまた溢れてくる。
「けど……。」
言葉にならない。嗚咽だけが漏れる。
アンジェリカは息子を見つめる。
その瞳は厳しい。
しかしどこか悲しげでもあった。
「父様も見られていますよ。」
静かな声。
「そのような情けない姿で見送るつもりですか?」
クリスティアンは拳を握る。
必死に堪える。
「くっ……。」
唇が震える。
「うぅっ……。」
それでも涙は止まらない。
父の顔を見るたびに。
父の声を思い出すたびに。
胸が張り裂けそうになる。
参列者たちからも小さな声が聞こえ始める。
「アンジェリカ婦人……。」
「流石に厳しすぎるのでは……。」
「まだ十歳の子供だぞ……。」
「クリスティアンくんが可哀想に……。」
同情の声だった。
無理もない。
誰が見ても少年は父を失ったばかりなのだから。
だが。
アンジェリカは振り返らない。
何も言い返さない。
ただ背筋を伸ばしたまま立っている。
涙一つ見せずに。
表情を崩さずに。
まるで誰よりも冷静な未亡人のように。
しかし。
彼女の両手は。
誰にも気付かれないほど小さく震えていた。
爪が掌に食い込むほど強く握り締められている。
それでも彼女は泣かない。
泣いてしまえば。
今にも崩れてしまいそうだったから。
だから立ち続ける。
妻として。母として。
そして白銀の騎士パオロ・ビリンデッリの伴侶として。
誰よりも毅然と。
誰よりも強く。
その姿は参列者たちの目には冷たく映ったかもしれない。
だが本当は違う。
アンジェリカは泣かないのではない。
泣けないのだ。
愛する夫を失った現実を受け止めるために。
残された息子を支えるために。
今だけは。
誰よりも強く在ろうとしていたのである。




