episode0(Prologue)Chapter10
--東大陸・カンプノウ宮殿。
夜。
宮殿の廊下には静寂が漂っていた。
その中を一人の男が歩く。
カンプノウ騎士団長。
エミリアーノ・ラウール。
右頬に走る古傷が月明かりに照らされていた。
重厚な扉の前で立ち止まる。
衛兵が恭しく頭を下げた。
「セルゲイ将軍がお待ちです。」
エミリアーノは無言で扉を開いた。
執務室の奥では、セルゲイ・カマーチョ将軍が書類に目を通している。
しばらく沈黙が続く。
やがてセルゲイが顔を上げた。
「帰還したか。」
「はっ。」
エミリアーノは片膝をつく。
「作戦を終了し帰還いたしました。」
セルゲイは鋭い目で見下ろした。
「かなり不覚を取ったようだな。」
その一言にエミリアーノの表情が僅かに歪む。
「……申し開きのしようもございません。」
拳を握り締める。
「五十名以上の部下を失いました。」
脳裏に浮かぶのは一人の男。
白銀の騎士。
パオロ・ビリンデッリ。
「魔力の素質は感じぬというのに……。」
歯を食いしばる。
「あれほどの強さとは。」
セルゲイは鼻を鳴らした。
「言い訳はいい。」
冷たい声だった。
「即座に対策しろ。」
机を軽く叩く。
「二度と同じ失態を繰り返すな。」
さらに視線が鋭くなる。
「次に失敗したら騎士団長の座を降りてもらう。」
有無を言わせない口調だった。
エミリアーノは頭を下げる。
「……承知しております。」
セルゲイはそれ以上何も言わない。
書類を抱えると部屋を後にした。
扉が閉まる。
途端に室内の空気が変わった。
沈黙。
そして――
ドンッ!!
エミリアーノの拳が石壁に叩きつけられた。
壁にひびが走る。
「……っ!!」
怒り。
屈辱。
嫉妬。
様々な感情が胸の中で渦巻いていた。
側近たちが慌てて駆け寄る。
「だ、団長……!」
エミリアーノは振り返る。
その目には苛立ちが宿っていた。
「食事を用意しろ。」
低い声だった。
「それと酒と女もだ。」
側近たちは慌てて頷く。
「はっ!」
エミリアーノは舌打ちした。
「この劣等感はまず気を紛らわせねば収まらん。」
そう吐き捨てると部屋を後にした。
--
数時間後。
豪奢な私室。
エミリアーノは3人の娼婦に囲まれ寝台に腰掛けながら天井を見上げていた。
卓上には手付かずの酒。
豪華な料理。
だがその表情は晴れない。
脳裏に浮かぶのは同じ顔だった。
パオロ・ビリンデッリ。
あの男の剣。
あの男の強さ。
そして。
自分が受けた屈辱。
「……忌々しい。」
右頬の傷へ触れる。
若き日の敗北の証。
百戦錬磨の騎士団長となった今も消えない傷だった。
その時。
コンコン――
扉を叩く音が響いた。
エミリアーノが顔を上げる。
「誰だ?」
少し不機嫌そうな声。
扉の向こうから遠慮がちな声が返ってくる。
「私です……。」
若い男の声だった。
「ジョルディ・バケーロです。」
エミリアーノは僅かに眉を上げる。
弟子の名だった。
「少し待て。」
そう言って立ち上がる。
室内にいた娼婦たちへ目を向けた。
「今日はもういい。」
短く命じる。
「全員下がれ。」
娼婦たちは頭を下げると静かに退室していった。
しばらくして部屋が静かになる。
エミリアーノはようやく扉へ向かった。
ガチャリ――
扉が開く。
そこには若き騎士ジョルディ・バケーロが立っていた。
まだ二十歳にも届かない青年。
真面目そうな顔立ちだが、どこか緊張している。
「失礼します。」
ジョルディは深々と頭を下げながら部屋へ足を踏み入れた。
エミリアーノは椅子へ腰掛ける。
「こんな時間にどうした。」
低く問い掛ける。
ジョルディは一瞬だけ迷うような表情を浮かべた。
そして覚悟を決めるように顔を上げた。
「団長。」
その瞳には強い意志が宿っていた。
「パオロ・ビリンデッリについて、お話がございます。」
静かな私室。
卓上の酒瓶だけが淡い灯りを反射していた。
エミリアーノは椅子にもたれながらジョルディを見つめる。
しばらく沈黙が続いた。
やがてエミリアーノが鼻で笑う。
「どうした。」
その笑みはどこか自嘲的だった。
「貴様も俺を笑いに来たのか?」
ジョルディは一瞬目を丸くする。
そしてすぐに首を横へ振った。
「とんでもありません。」
真剣な声だった。
「むしろ逆です。」
エミリアーノの眉が僅かに動く。
ジョルディは背筋を伸ばした。
「次の戦闘には私も参加させてください。」
その言葉に部屋の空気が変わる。
エミリアーノはゆっくりと顔を上げた。
「……何?」
低い声だった。
ジョルディは臆することなく続ける。
「私は見てみたいのです。」
瞳が真っ直ぐ前を向く。
「魔術を使えないにも関わらず、剣だけで先生と互角以上に渡り合う男…パオロ・ビリンデッリの剣を。」
パオロ・ビリンデッリ。
その名を聞いた瞬間、エミリアーノの右頬の古傷が疼く気がした。
ジョルディはさらに言葉を重ねる。
「その剣をこの目で見たい。」
エミリアーノは深く息を吐く。
「勉強気分で戦場に出るつもりか。」
冷たい視線を向ける。
「死ぬぞ?」
だがジョルディは引かなかった。
「覚悟の上です。」
即答だった。
エミリアーノは目を細める。
ジョルディは続けた。
「私は先生の剣しか知りません。」
言葉を選ぶように一度区切る。
「もっと強くなるには、様々な剣を知らなければならないと思うのです。」
そして。少しだけ申し訳なさそうな顔をしながらも。
はっきりと言った。
「お言葉ですが。」
エミリアーノの側近たちなら顔色を変えていただろう。
しかしジョルディは構わず続ける。
「その価値は先生の部下たちからは感じません。」
沈黙。
数秒。
部屋の空気が張り詰める。
だが次の瞬間。
「……ふっ。」
エミリアーノが吹き出した。
そして肩を揺らしながら笑う。
「はっきり言うな。」
久しぶりの笑みだった。
「俺の前でそこまで言う奴は珍しい。」
ジョルディは少しだけ恐縮する。
しかし目は逸らさない。
エミリアーノはそんな弟子を見つめる。
かつての自分を見ているようだった。
強くなりたい。
ただそれだけを求めて剣を振っていた若き日を。
エミリアーノは静かに呟く。
「貴様ももうそんな歳か。」
ジョルディは頷いた。
腰に差した木刀を抜く。
訓練用とはいえ、毎日振り続けた相棒だった。
それを胸の前へ掲げる。
「必ず戦力になってみせます。」
決意に満ちた声。
「先生に骨の髄まで叩き込まれた、この魔法剣で。」
若者らしい真っ直ぐな言葉だった。
エミリアーノはしばらく見つめる。
そして。ゆっくりと頷いた。
「いいだろう。」
ジョルディの顔が明るくなる。
だが次の言葉は厳しかった。
「ただし。」
エミリアーノの眼光が鋭くなる。
「俺に遅れを取るなよ。」
「はい!」
力強い返事だった。
エミリアーノは満足そうに鼻を鳴らす。
そして卓上の酒瓶へ手を伸ばした。
コルクを抜く音が響く。
琥珀色の酒を二つの杯へ注ぐ。
「付き合え。」
ぶっきらぼうな言い方だった。
だが弟子を認めた証でもある。
ジョルディは思わず笑顔になる。
「喜んで!」
そう言って卓へ駆け寄った。
エミリアーノは杯を差し出す。
ジョルディも受け取る。
静かな夜。
師弟は向かい合って座る。
やがて来る次の戦いを思いながら――。
二人は静かに杯を合わせた。




