episode6(underworld)Chapter1
――何もない。
上も下もない。
光も闇もない。
音すら存在しない、完全な無。
その世界を、クリスティアンは一人で彷徨っていた。
「……ここは……どこだ?」
足元を見ても何もない。
それなのに、自分が歩いていることだけは分かる。
「俺は……?」
胸に手を当てる。
心臓の鼓動は感じる。
しかし、身体の感覚はどこか曖昧だった。
「……俺は、死んだのか?」
その時遠くから、懐かしい声が響いた。
「クリスティアン!」
「……!」
クリスティアンが振り返る。
そこに立っていたのは。
「……父様!?」
間違えるはずがない。
何度も夢に見た背中。
幼い頃から追い続けてきた英雄。
「父様!」
クリスティアンの顔が一気に明るくなる。
「お会いとうございました!!」
堪えきれず、父のもとへ駆け寄ろうとする。
しかし…
「ダメだ小僧!」
突然、背後から怒鳴り声が響いた。
「テメェにはまだ早ぇぇ!!」
「……えっ?」
クリスティアンが振り返る。
そこにいたのは。
「ケイスケさん……??」
見慣れた男の姿。
「でも……父様が呼んでますから。」
そう言って、再びパオロへ向き直る。
パオロは優しい笑顔を浮かべていた。
「クリスティアン……。」
「父様?」
「母様を頼むぞ。」
「……え?」
パオロの姿が、少しずつ薄れていく。
「父様!?」
クリスティアンが手を伸ばす。
「待ってください!」
だがパオロは最後まで穏やかな笑顔を浮かべていた。
そして、その姿は光の中へ消えていった。
「えっ!?」
クリスティアンの顔から笑みが消える。
「父様!!」
必死に手を伸ばす。
「父様ぁぁぁぁぁ!!」
その叫び声だけが、何もない世界に虚しく響き渡った。
次にケイスケが、クリスティアンの前へ歩み出る。
「小僧。」
「……ケイスケさん……。」
ケイスケもまた、どこか寂しげな笑みを浮かべていた。
「俺からは……セリーナとにゃんこを頼むぞ。」
「……え?」
ケイスケの身体も、徐々に薄れていく。
「ケイスケさん!?」
クリスティアンが駆け寄る。
「待って……!」
しかし、ケイスケは振り返らない。
「待ってくれぇぇぇ!!」
伸ばした手は、何も掴めない。
「ケイスケさんまで!!」
そしてケイスケの姿もまた、無の世界から消えていった。
「待って……待ってくれぇぇぇ……!」
クリスティアンは一人、取り残された。
父の姿も。
ケイスケの姿も。
もうどこにもない。
「……俺は……。」
震える声で呟く。
「俺は……どうすればいいんだ……?」
無の世界に、少年の声だけが響き続けていた。
無の世界。
父も、ケイスケも消えてしまい、クリスティアンはただ一人、立ち尽くしていた。
「……俺は……どうすれば……。」
その時。
「おいクソガキ!!」
「……!」
聞き覚えのある声が、背後から響いた。
「アウローラ……?」
振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
すると今度は。
「クリスティアンくん!」
「……セリーナ……!」
優しく、自分を呼ぶ声。
さらに
「クリスティアン!」
「お前、いつまで寝てやがる!」
「新入り!起きな!」
「クリスティアン、聞こえてるか!」
「アンタならまだやれるよ!」
次々と声が重なっていく。
エンツォ。
ディメトリオ。
ヴァンサン。
ユルゲン。
シャキーラ。
共に戦い、笑い、そして命を預け合った仲間たち。
「みんな……。」
クリスティアンは耳を澄ませる。
すると、さらに声が聞こえてきた。
「クリスティアン!立て!」
「まだ鍛錬は終わっていないぞ!」
「魔力を無駄にするな!」
「剣を握れ!お前の剣は、まだこれからだ!」
マウロ。
セバスティアーノ。
アンドレア。
フランコ。
これまで自分を鍛え、導いてくれた上官や師たちの声だった。
「先生たちまで……。」
クリスティアンは胸元を強く握る。
声がどんどん近づいてくる。
その先に一筋の光が見えた。
眩しい。
しかし、不思議と怖くなかった。
そして、その光の向こうから。
「クリスティアン。」
聞き慣れた、優しい声。
クリスティアンの瞳が大きく開く。
「……母様?」
光の先。
そこに、アンジェリカの姿があった。
「ここよ。」
その声を聞いた瞬間、クリスティアンの胸に温かなものが込み上げてくる。
父が言い残した言葉。
「母様を頼むぞ。」
仲間たちの声。
師たちの声。
そして、自分を待っている母の声。
クリスティアンは涙を拭う。
そして…
「母様……。」
拳を強く握りしめる。
「みんな!」
顔を上げる。
「今行きます!!」
クリスティアンは走り出した。
何もない無の世界を。
ただ一つの光へ向かって。
一歩。
また一歩。
やがて、その身体は光に包まれていく。
「待っててくれ……!」
その瞳には、再び生きる意志が宿っていた。
「俺は――まだ死ねない!!」
そしてクリスティアンは、眩い光の中へ飛び込んでいった。
光の中へ飛び込んだ――その瞬間。
「……。」
クリスティアンの視界に、真っ白な天井が映った。
「……?」
ぼんやりと瞬きをする。
白い天井。
白い壁。
そして鼻を突く、消毒液の匂い。
「……ここは……?」
喉がひどく乾いている。
身体を動かそうとした、その時だった。
「……っ!」
脇腹に強烈な違和感が走った。
鋭い痛みというより、身体の奥に何かが残っているような重苦しい感覚。
クリスティアンは顔をしかめる。
「……脇腹……?」
そこで初めて、自分の手が誰かに握られていることに気づいた。
ゆっくり視線を横へ向ける。
「……セリーナ……?」
ベッドの横で、クリスティアンの手を両手で握っていたセリーナ。
その目から…
「あぁぁぁぁぁ……!」
大粒の涙が一気に溢れ出した。
「セ、セリーナ……?」
クリスティアンが戸惑っていると、セリーナは何度も涙を拭いながら、それでも泣き続ける。
「よかった……!」
声が震えていた。
「本当に……よかった……!」
クリスティアンの手を強く握りしめる。
「もう……目を覚まさないんじゃないかって……!」
「……。」
クリスティアンは言葉を失った。
自分がどれほど心配をかけたのか、その表情を見れば嫌でも分かった。
少し離れた場所では、セバスティアーノ、アンドレア、フランコの三人もクリスティアンを見つめていた。
険しい表情だった三人の顔が、徐々に安堵へと変わっていく。
フランコが大きく息を吐いた。
「全く……ビビらせやがって。」
腕を組みながら、いつものようにぶっきらぼうに言う。
「休暇中に殺されたとなりゃ、俺の進退問題になるだろうが。」
そう悪態をつきながらも、その表情には明らかな安堵が浮かんでいた。
セバスティアーノも小さく息を吐く。
「……よく戻ってきたな。」
アンドレアも静かに頷いた。
「本当に……よかった。」
クリスティアンは確かに元の世界に戻ってきた。




