雨の日
翌朝、中庭には猫がいなかった。
僕が渡り廊下に着いた時、翼はすでに窓際に立っていて、花壇のあたりをじっと見ていた。朝の光が銀色の髪をやわらかく透かしている。その横顔はいつも通り涼しく整っているのに、視線だけが少し落ち着かなかった。
「おはよう」
声をかけると、翼がこちらを振り向く。
「……おはよう、蓮」
名前を呼ばれるたびに、まだ少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。けれど今朝は、その余韻に浸る前に、彼女の視線がすぐ中庭へ戻った。
「いないね」
「ええ」
短い返事だった。
それきり、翼は黙ったまま花壇の縁や塀の上を目で追う。昨日までなら、見つけた瞬間に肩が揺れるくらいわかりやすく喜んでいたのに、今日は反対に、その落差を抑え込もうとしているのがよくわかった。
僕は少しだけ窓の近くへ寄る。
「朝は別の場所にいるのかも」
「……そうかもしれない」
「そんなに落ち込まなくても、また昼とか放課後に来るかもしれないし」
そう言うと、翼は一拍だけ黙ったあと、わずかに目を細めた。
「落ち込んでないわ」
「それ、昨日も聞いた」
「今日は昨日より落ち込んでない」
「つまり落ち込んではいるんだ」
翼は僕を見た。睨むつもりらしいのに、目元にほんの少し元気がないせいで迫力が足りない。本人もそれを自覚しているのか、すぐに視線を逸らす。
「……朝から口が回るのね」
「翼のほうがわかりやすいだけだと思う」
「そういうことを平然と言うの、ずるい」
その言い方が妙に小さくて、少しだけ可笑しかった。
結局、始業時間ぎりぎりまで猫は現れなかった。教室へ戻る途中も、翼は表面上は普段通りだったが、階段を上がる足取りがほんのわずかに重い。僕にしかわからないくらいの差だった。
教室に入れば、いつもの学校の空気が待っていた。
加瀬陽菜は朝から元気に誰かと喋っていて、篠宮千歳は自分の席で静かに本を閉じる。翼が席に着くと、加瀬はすぐに身を乗り出した。
「翼、おはよ。今日ちょっと静かじゃない?」
「いつも通りよ」
「いや、いつも通りのふりしてる時の翼って、ちょっとだけ目が死ぬんだよね」
「陽菜、それ本人の前で言う?」
篠宮が淡々と突っ込む。
加瀬は「だってほんとだし」と笑い、翼は面倒そうに息をついた。けれど、そこに混じるごく微かな疲れまで僕には見えてしまう。
その理由を知っているのが自分だけだと思うと、妙な優越感より先に、どうしようもなく目が離せなくなる。
一時間目の授業が始まっても、翼は結局いつも通り完璧だった。教師に当てられれば迷いなく答え、板書を写す手元にも乱れはない。朝の中庭でほんの少しだけしょんぼりしていた人間と、今目の前にいる人間が同じだとは、たぶん誰も思わないだろう。
休み時間、廊下で一年生の女子たちが翼を見て、ひそひそと何か話しているのが聞こえた。
「やっぱり保科先輩ってすごいよね」
「昨日も先生にすごいって言われてたし」
「なんか近寄れない感じするよね」
その言葉はたぶん、今の学校で翼に向けられる評価として、ひどく正しい。
綺麗で、優秀で、強くて、隙がない。誰かの憧れの中心にいるのに、簡単には触れられない。
けれど、その少し前に中庭で猫を探していた翼を知っている僕には、その評判がどこか遠いものに聞こえた。
二時間目が終わったあと、廊下で体育会系の男子二人が翼に声をかけているのが見えた。
「保科、来週の球技大会、女子のリーダーやってくんね?」
「お前いたら絶対まとまるし」
相手は悪意のない頼み方だった。むしろ、翼の能力をそのまま信頼している感じだった。
翼は少しも慌てない。
「嫌よ」
きっぱりした返答。
けれど、それで終わらせず、すぐに続ける。
「まとめ役が必要なら、私より適任がいるでしょう。陽菜とか」
「え、そこで私!?」
後ろで加瀬が声を上げる。
翼は振り返りもしないまま言った。
「人をまとめるのは得意でしょう」
「いや、嬉しいけど雑じゃない!?」
「雑じゃないわ。評価してるの」
そのやり取りに、男子たちが苦笑する。断っているのに角が立たない。しかも自然に別の人材まで提示している。
上手いな、と素直に思った。
ただ拒絶するだけではなく、相手に不満を残さず、自分の線は守る。その身のこなしは、やっぱり綺麗だった。
翼はそのまま教室へ戻る。僕の席の前を通り過ぎる瞬間、ほんのわずかに歩調が緩んだ。
「見てたの?」
前を向いたままの、小さな声。
「たまたま」
「……最近、その言い訳ばかり聞く気がする」
言い方は呆れていたが、耳が少し赤い。どうやら僕に見られていたこと自体は、やはり気づいていたらしい。
昼休みになっても、猫の姿は見えなかった。
翼はいつも通り静かに昼食を取っていたが、ときどき無意識に窓の外へ視線を流している。そのたびに加瀬がにやにやしそうになり、篠宮が肘で軽く止めていた。
午後に入って、天気が崩れた。
六時間目の途中から窓の外が急に暗くなり、やがて校舎のガラスを細かな雨粒が叩き始める。春の雨にしては勢いが強く、部活に向かう生徒たちの声もどこか慌ただしかった。
終礼が終わる頃には、本降りになっていた。
教室のあちこちで、傘を忘れただの駅まで走るだのという声が上がる。その中で、翼は席に着いたまま、珍しくすぐには立ち上がらなかった。
窓の外を見ている。
雨脚は強い。花壇も塀も、朝見ていた中庭の景色はすっかり濡れていた。
僕は荷物をまとめながら、その横顔を盗み見る。
表情は落ち着いている。けれど、あの目は明らかに別のことを考えていた。
「翼、帰らないの?」
加瀬が尋ねる。
「……少ししたら」
「猫のこと考えてる?」
ずいぶん直球だった。
翼が加瀬を見る。ほんの一瞬、教室の空気がぴりっとしたが、結局、翼は否定しなかった。
「考えてないと言えば嘘になるわ」
加瀬は目を丸くする。篠宮は静かに翼の横顔を見ていた。
「この雨だもんね」
加瀬の声が少しだけやわらかくなる。
「どこかで雨宿りしてるといいけど」
「たぶんしてる」
翼はそう返した。
「でも、あの子、いつも花壇の近くにいるでしょう」
それだけで十分だった。
窓の外を見ていた理由も、すぐに帰らない理由も、たぶん全部そこにある。
加瀬は何か言いかけ、やめた。篠宮が代わりに静かに口を開く。
「見に行くの?」
翼は少しだけ黙る。
「……行こうとは思ってる」
「この雨で?」
「だから、少し弱くなるまで待つの」
理性的な判断だ。翼らしいと言えばらしい。けれど、本当は今すぐでも行きたいのだろうことが、声の端に滲んでいた。
加瀬は窓の外を見て、小さく肩を竦める。
「今日は私たち、先に帰るね。千歳、本屋寄るんでしょ?」
「うん」
加瀬は立ち上がる前、翼の机に肘をつくようにして、少しだけ身を寄せた。
「無理しないでよ」
「わかってる」
「あと、一人で変なとこまで行かないこと」
「子ども扱いしないで」
「だって心配だし」
加瀬がそう笑うと、翼は何も返さなかった。ただ、いつものように鬱陶しそうにもしない。その様子を見て、加瀬は少しだけ安心したように立ち上がる。
篠宮は僕の席の横を通り過ぎる時、ほんの一瞬だけ足を止めた。
「篠原くん」
「え」
「たぶん、今日は一人にしないほうがいい」
それだけ言って、篠宮は教室を出ていった。
言葉は短いのに、妙に重かった。
僕が顔を上げると、翼はまだ窓の外を見ている。雨音が強く、教室の中が少しだけ静かに感じられた。生徒が減っていくにつれて、その静けさは余計に際立つ。
しばらくして、翼が立ち上がった。
鞄を持ち、椅子を静かに戻す。そして何でもないような顔で僕の席の前まで来ると、誰にも聞こえないくらい小さな声で言った。
「蓮」
「うん」
「傘、持ってる?」
「持ってるけど」
「……なら、一緒に来て」
胸が一度大きく鳴った。
僕は無言で頷き、鞄を肩にかける。翼はそれを確認すると、すぐに踵を返した。教室にはもうほとんど人がいなかったが、それでもこういうところであからさまに待ったりはしないらしい。
昇降口で靴を履き替え、傘を開く。
雨はまだ強かった。地面を打つ音が絶えず響き、校舎の軒先からも雫が落ち続けている。
「どこを探すの?」
「花壇の近くにはいないと思う」
翼は中庭の奥を見ながら答えた。
「この雨なら、もっと屋根のある場所にいるはず」
「たとえば?」
「体育倉庫の裏か、自転車置き場の端か……そのあたり」
考えながら答える声音は落ち着いている。でも、それは落ち着いていようとしているだけだ。早く見つけたい気持ちを抑えているのがわかる。
「行こう」
僕がそう言うと、翼は少しだけこちらを見た。
「……蓮は、濡れるわよ」
「傘あるから大丈夫」
「そういう意味じゃなくて」
「でも、一人で行くよりいいでしょ」
翼は何か言い返しかけて、結局やめた。代わりに小さく息を吐き、傘の下へ半歩だけ入ってくる。
「……ありがとう」
その距離が近くて、僕は別の意味で落ち着かなかった。
並んで歩く。傘は一人用に近い大きさだから、自然と肩が触れそうになる。翼はたぶんそれを気にしていないふりをしていたが、歩幅がほんの少しだけぎこちない。濡れないように寄れば寄るほど、今度は近すぎる。そんな状態で校舎の脇を進むのだから、心臓に悪くないわけがなかった。
体育倉庫の裏にはいなかった。
雨に濡れた土の匂いだけが濃く、人気はない。次に自転車置き場へ向かう。屋根のあるスペースの端、普段はあまり人の来ない場所だ。
そこまで来た時、翼の手が僕の袖を軽く引いた。
「……あそこ」
視線の先を見ると、自転車置き場の隅、段ボールの陰に三毛色が見えた。
いた。
翼の歩調が一気に早くなる。けれど、途中で自分を抑えるようにぴたりと止まり、慎重に歩き直す。その変化があまりにもわかりやすくて、こんな時なのに少しだけ笑いそうになった。
三毛猫は最初、警戒するように耳を動かしたが、翼を見てすぐに力を抜いた。段ボールの陰から前足を伸ばし、小さく鳴く。
それだけで、翼の表情がふっとほどけた。
「……よかった」
その声には、朝から一日分の心配が全部混じっていた。
翼はしゃがみ込み、濡れないように少し傘から外れた位置へ体を寄せる。僕は反射的に傘を彼女のほうへ傾けた。
「蓮、いいから」
「よくない。翼のほうが濡れる」
「でも」
「猫より先に翼が風邪ひいたら意味ないでしょ」
そう言うと、翼はほんの少しだけ目を見開いた。
それから、珍しく何も言い返さなかった。
三毛猫は翼の足元へ寄ってきて、濡れた地面を避けるみたいに彼女のローファーの横で丸くなる。翼がそっと背を撫でると、猫は目を細めて喉を鳴らした。
「朝からいなかったから、少し心配したの」
翼が小さく言う。
「雨の前は別の場所にいるのかもね」
「ええ……でも、無事でよかった」
その声音がやわらかすぎて、僕は思わず視線を逸らした。こういう時の翼は、本当に無防備だ。
「蓮」
「うん」
「傘、もう少しこっち」
「こう?」
「……違う、あなたも入って」
気づけば、僕の肩がかなり濡れていた。翼はそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
「そういうところ、平気な顔でやるの、ずるい」
「ずるいって何」
「私が言い返せなくなるから」
小さく呟いてから、翼はまた猫を撫でる。その頬は雨のせいではない赤みを帯びていた。
しばらくそのまま二人で猫を見ていた。
雨音はまだ強い。でも、自転車置き場の端だけは不思議と静かで、外の世界と少し切り離されたみたいだった。
やがて三毛猫が満足したのか、段ボールの陰へ戻っていく。翼はその姿を目で追いながら、ほっとしたように息を吐いた。
「これで安心して帰れるわ」
「うん」
「……一人だったら、もっと焦ってたかもしれない」
そう言ってから、翼はゆっくり立ち上がる。
傘の下で視線が合った。
「蓮がいてくれて、よかった」
その一言は、今日の雨音のどれよりも強く胸に響いた。
僕は返事に少し時間がかかった。
「僕も、一緒でよかった」
翼は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ目を伏せて、それから傘の柄を持つ僕の手元を見た。
「……帰り、途中までそのままでいい?」
「え?」
「傘」
翼は前を向いたまま続ける。
「この雨で、今さら別々に歩くのも面倒だし」
言い方はいつも通りなのに、声の最後だけが少し小さい。
断る理由なんてあるはずもなかった。
帰り道、僕らは一本の傘に入って歩いた。
人通りの少ない住宅街へ入ると、さっきまでの緊張が少しだけ薄れる。その代わり、近さだけが妙にはっきり意識された。肩が触れそうで、歩くたびに制服の袖が擦れる。翼はまっすぐ前を見ているけれど、僕がちょっとでも歩幅を速めると、すぐに小さく袖を引いた。
「濡れる」
「ごめん」
「急がなくていいから」
それだけ言って、翼はまた少しだけ袖を摘まんだまま歩く。
心臓がもつ気がしなかった。
やがて分かれ道が近づく。昨日と同じ場所。けれど今日は雨のせいで景色が違うし、僕の中の何かも少し違っていた。
翼が足を止める。
「ここでいい」
「送るよ」
「いい。これ以上一緒にいたら、たぶん明日、陽菜に何か言われる」
それはまあ、そうかもしれない。
僕が傘を差し出そうとすると、翼は首を横に振った。
「蓮が持って帰って。私は走れば着くから」
「いや、それは」
「大丈夫。近いし」
言いながらも、そのまま傘から出ようとはしない。代わりに、少しだけ迷うような間があってから、翼は僕の袖を摘まんでいた指先をゆっくり離した。
「……明日」
「うん」
「朝、少し早く来て」
「また猫?」
「猫も、だけど」
そこで翼は視線を逸らす。
「今日のお礼、ちゃんと言いたいから」
その言い方が、あまりにも彼女らしかった。言葉にするのは苦手なくせに、逃げるのはもっと苦手なのだろう。
「わかった」
「寝坊しないで」
「最近、それしか言わないね」
「大事だから」
前にも聞いた言葉なのに、今日は前より少しだけやわらかく聞こえた。
翼はようやく傘から半歩外へ出る。雨粒が髪の先に落ちる直前、僕は思わず名前を呼んでいた。
「翼」
彼女が振り向く。
「また明日」
翼は少しだけ目を見開いたあと、ふっと息を漏らすように笑った。
「……うん。また明日、蓮」
その笑みが見えたせいで、家へ帰るまでの道のりが、妙に長く感じた。
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