表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
才色兼備の多彩で最強のカッコイイ保科さんは、どうにも僕にだけは可愛い一面を見せてくれるらしい。  作者: 沢田美


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/12

雨の日

 翌朝、中庭には猫がいなかった。


 僕が渡り廊下に着いた時、翼はすでに窓際に立っていて、花壇のあたりをじっと見ていた。朝の光が銀色の髪をやわらかく透かしている。その横顔はいつも通り涼しく整っているのに、視線だけが少し落ち着かなかった。


「おはよう」


 声をかけると、翼がこちらを振り向く。


「……おはよう、蓮」


 名前を呼ばれるたびに、まだ少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。けれど今朝は、その余韻に浸る前に、彼女の視線がすぐ中庭へ戻った。


「いないね」


「ええ」


 短い返事だった。


 それきり、翼は黙ったまま花壇の縁や塀の上を目で追う。昨日までなら、見つけた瞬間に肩が揺れるくらいわかりやすく喜んでいたのに、今日は反対に、その落差を抑え込もうとしているのがよくわかった。


 僕は少しだけ窓の近くへ寄る。


「朝は別の場所にいるのかも」


「……そうかもしれない」


「そんなに落ち込まなくても、また昼とか放課後に来るかもしれないし」


 そう言うと、翼は一拍だけ黙ったあと、わずかに目を細めた。


「落ち込んでないわ」


「それ、昨日も聞いた」


「今日は昨日より落ち込んでない」


「つまり落ち込んではいるんだ」


 翼は僕を見た。睨むつもりらしいのに、目元にほんの少し元気がないせいで迫力が足りない。本人もそれを自覚しているのか、すぐに視線を逸らす。


「……朝から口が回るのね」


「翼のほうがわかりやすいだけだと思う」


「そういうことを平然と言うの、ずるい」


 その言い方が妙に小さくて、少しだけ可笑しかった。


 結局、始業時間ぎりぎりまで猫は現れなかった。教室へ戻る途中も、翼は表面上は普段通りだったが、階段を上がる足取りがほんのわずかに重い。僕にしかわからないくらいの差だった。


 教室に入れば、いつもの学校の空気が待っていた。


 加瀬陽菜は朝から元気に誰かと喋っていて、篠宮千歳は自分の席で静かに本を閉じる。翼が席に着くと、加瀬はすぐに身を乗り出した。


「翼、おはよ。今日ちょっと静かじゃない?」


「いつも通りよ」


「いや、いつも通りのふりしてる時の翼って、ちょっとだけ目が死ぬんだよね」


「陽菜、それ本人の前で言う?」


 篠宮が淡々と突っ込む。


 加瀬は「だってほんとだし」と笑い、翼は面倒そうに息をついた。けれど、そこに混じるごく微かな疲れまで僕には見えてしまう。


 その理由を知っているのが自分だけだと思うと、妙な優越感より先に、どうしようもなく目が離せなくなる。


 一時間目の授業が始まっても、翼は結局いつも通り完璧だった。教師に当てられれば迷いなく答え、板書を写す手元にも乱れはない。朝の中庭でほんの少しだけしょんぼりしていた人間と、今目の前にいる人間が同じだとは、たぶん誰も思わないだろう。


 休み時間、廊下で一年生の女子たちが翼を見て、ひそひそと何か話しているのが聞こえた。


「やっぱり保科先輩ってすごいよね」

「昨日も先生にすごいって言われてたし」

「なんか近寄れない感じするよね」


 その言葉はたぶん、今の学校で翼に向けられる評価として、ひどく正しい。


 綺麗で、優秀で、強くて、隙がない。誰かの憧れの中心にいるのに、簡単には触れられない。


 けれど、その少し前に中庭で猫を探していた翼を知っている僕には、その評判がどこか遠いものに聞こえた。


 二時間目が終わったあと、廊下で体育会系の男子二人が翼に声をかけているのが見えた。


「保科、来週の球技大会、女子のリーダーやってくんね?」

「お前いたら絶対まとまるし」


 相手は悪意のない頼み方だった。むしろ、翼の能力をそのまま信頼している感じだった。


 翼は少しも慌てない。


「嫌よ」


 きっぱりした返答。


 けれど、それで終わらせず、すぐに続ける。


「まとめ役が必要なら、私より適任がいるでしょう。陽菜とか」


「え、そこで私!?」


 後ろで加瀬が声を上げる。


 翼は振り返りもしないまま言った。


「人をまとめるのは得意でしょう」


「いや、嬉しいけど雑じゃない!?」


「雑じゃないわ。評価してるの」


 そのやり取りに、男子たちが苦笑する。断っているのに角が立たない。しかも自然に別の人材まで提示している。


 上手いな、と素直に思った。


 ただ拒絶するだけではなく、相手に不満を残さず、自分の線は守る。その身のこなしは、やっぱり綺麗だった。


 翼はそのまま教室へ戻る。僕の席の前を通り過ぎる瞬間、ほんのわずかに歩調が緩んだ。


「見てたの?」


 前を向いたままの、小さな声。


「たまたま」


「……最近、その言い訳ばかり聞く気がする」


 言い方は呆れていたが、耳が少し赤い。どうやら僕に見られていたこと自体は、やはり気づいていたらしい。


 昼休みになっても、猫の姿は見えなかった。


 翼はいつも通り静かに昼食を取っていたが、ときどき無意識に窓の外へ視線を流している。そのたびに加瀬がにやにやしそうになり、篠宮が肘で軽く止めていた。


 午後に入って、天気が崩れた。


 六時間目の途中から窓の外が急に暗くなり、やがて校舎のガラスを細かな雨粒が叩き始める。春の雨にしては勢いが強く、部活に向かう生徒たちの声もどこか慌ただしかった。


 終礼が終わる頃には、本降りになっていた。


 教室のあちこちで、傘を忘れただの駅まで走るだのという声が上がる。その中で、翼は席に着いたまま、珍しくすぐには立ち上がらなかった。


 窓の外を見ている。


 雨脚は強い。花壇も塀も、朝見ていた中庭の景色はすっかり濡れていた。


 僕は荷物をまとめながら、その横顔を盗み見る。


 表情は落ち着いている。けれど、あの目は明らかに別のことを考えていた。


「翼、帰らないの?」


 加瀬が尋ねる。


「……少ししたら」


「猫のこと考えてる?」


 ずいぶん直球だった。


 翼が加瀬を見る。ほんの一瞬、教室の空気がぴりっとしたが、結局、翼は否定しなかった。


「考えてないと言えば嘘になるわ」


 加瀬は目を丸くする。篠宮は静かに翼の横顔を見ていた。


「この雨だもんね」


 加瀬の声が少しだけやわらかくなる。


「どこかで雨宿りしてるといいけど」


「たぶんしてる」


 翼はそう返した。


「でも、あの子、いつも花壇の近くにいるでしょう」


 それだけで十分だった。


 窓の外を見ていた理由も、すぐに帰らない理由も、たぶん全部そこにある。


 加瀬は何か言いかけ、やめた。篠宮が代わりに静かに口を開く。


「見に行くの?」


 翼は少しだけ黙る。


「……行こうとは思ってる」


「この雨で?」


「だから、少し弱くなるまで待つの」


 理性的な判断だ。翼らしいと言えばらしい。けれど、本当は今すぐでも行きたいのだろうことが、声の端に滲んでいた。


 加瀬は窓の外を見て、小さく肩を竦める。


「今日は私たち、先に帰るね。千歳、本屋寄るんでしょ?」


「うん」


 加瀬は立ち上がる前、翼の机に肘をつくようにして、少しだけ身を寄せた。


「無理しないでよ」


「わかってる」


「あと、一人で変なとこまで行かないこと」


「子ども扱いしないで」


「だって心配だし」


 加瀬がそう笑うと、翼は何も返さなかった。ただ、いつものように鬱陶しそうにもしない。その様子を見て、加瀬は少しだけ安心したように立ち上がる。


 篠宮は僕の席の横を通り過ぎる時、ほんの一瞬だけ足を止めた。


「篠原くん」


「え」


「たぶん、今日は一人にしないほうがいい」


 それだけ言って、篠宮は教室を出ていった。


 言葉は短いのに、妙に重かった。


 僕が顔を上げると、翼はまだ窓の外を見ている。雨音が強く、教室の中が少しだけ静かに感じられた。生徒が減っていくにつれて、その静けさは余計に際立つ。


 しばらくして、翼が立ち上がった。


 鞄を持ち、椅子を静かに戻す。そして何でもないような顔で僕の席の前まで来ると、誰にも聞こえないくらい小さな声で言った。


「蓮」


「うん」


「傘、持ってる?」


「持ってるけど」


「……なら、一緒に来て」


 胸が一度大きく鳴った。


 僕は無言で頷き、鞄を肩にかける。翼はそれを確認すると、すぐに踵を返した。教室にはもうほとんど人がいなかったが、それでもこういうところであからさまに待ったりはしないらしい。


 昇降口で靴を履き替え、傘を開く。


 雨はまだ強かった。地面を打つ音が絶えず響き、校舎の軒先からも雫が落ち続けている。


「どこを探すの?」


「花壇の近くにはいないと思う」


 翼は中庭の奥を見ながら答えた。


「この雨なら、もっと屋根のある場所にいるはず」


「たとえば?」


「体育倉庫の裏か、自転車置き場の端か……そのあたり」


 考えながら答える声音は落ち着いている。でも、それは落ち着いていようとしているだけだ。早く見つけたい気持ちを抑えているのがわかる。


「行こう」


 僕がそう言うと、翼は少しだけこちらを見た。


「……蓮は、濡れるわよ」


「傘あるから大丈夫」


「そういう意味じゃなくて」


「でも、一人で行くよりいいでしょ」


 翼は何か言い返しかけて、結局やめた。代わりに小さく息を吐き、傘の下へ半歩だけ入ってくる。


「……ありがとう」


 その距離が近くて、僕は別の意味で落ち着かなかった。


 並んで歩く。傘は一人用に近い大きさだから、自然と肩が触れそうになる。翼はたぶんそれを気にしていないふりをしていたが、歩幅がほんの少しだけぎこちない。濡れないように寄れば寄るほど、今度は近すぎる。そんな状態で校舎の脇を進むのだから、心臓に悪くないわけがなかった。


 体育倉庫の裏にはいなかった。


 雨に濡れた土の匂いだけが濃く、人気はない。次に自転車置き場へ向かう。屋根のあるスペースの端、普段はあまり人の来ない場所だ。


 そこまで来た時、翼の手が僕の袖を軽く引いた。


「……あそこ」


 視線の先を見ると、自転車置き場の隅、段ボールの陰に三毛色が見えた。


 いた。


 翼の歩調が一気に早くなる。けれど、途中で自分を抑えるようにぴたりと止まり、慎重に歩き直す。その変化があまりにもわかりやすくて、こんな時なのに少しだけ笑いそうになった。


 三毛猫は最初、警戒するように耳を動かしたが、翼を見てすぐに力を抜いた。段ボールの陰から前足を伸ばし、小さく鳴く。


 それだけで、翼の表情がふっとほどけた。


「……よかった」


 その声には、朝から一日分の心配が全部混じっていた。


 翼はしゃがみ込み、濡れないように少し傘から外れた位置へ体を寄せる。僕は反射的に傘を彼女のほうへ傾けた。


「蓮、いいから」


「よくない。翼のほうが濡れる」


「でも」


「猫より先に翼が風邪ひいたら意味ないでしょ」


 そう言うと、翼はほんの少しだけ目を見開いた。


 それから、珍しく何も言い返さなかった。


 三毛猫は翼の足元へ寄ってきて、濡れた地面を避けるみたいに彼女のローファーの横で丸くなる。翼がそっと背を撫でると、猫は目を細めて喉を鳴らした。


「朝からいなかったから、少し心配したの」


 翼が小さく言う。


「雨の前は別の場所にいるのかもね」


「ええ……でも、無事でよかった」


 その声音がやわらかすぎて、僕は思わず視線を逸らした。こういう時の翼は、本当に無防備だ。


「蓮」


「うん」


「傘、もう少しこっち」


「こう?」


「……違う、あなたも入って」


 気づけば、僕の肩がかなり濡れていた。翼はそれを見て、少しだけ眉を寄せる。


「そういうところ、平気な顔でやるの、ずるい」


「ずるいって何」


「私が言い返せなくなるから」


 小さく呟いてから、翼はまた猫を撫でる。その頬は雨のせいではない赤みを帯びていた。


 しばらくそのまま二人で猫を見ていた。


 雨音はまだ強い。でも、自転車置き場の端だけは不思議と静かで、外の世界と少し切り離されたみたいだった。


 やがて三毛猫が満足したのか、段ボールの陰へ戻っていく。翼はその姿を目で追いながら、ほっとしたように息を吐いた。


「これで安心して帰れるわ」


「うん」


「……一人だったら、もっと焦ってたかもしれない」


 そう言ってから、翼はゆっくり立ち上がる。


 傘の下で視線が合った。


「蓮がいてくれて、よかった」


 その一言は、今日の雨音のどれよりも強く胸に響いた。


 僕は返事に少し時間がかかった。


「僕も、一緒でよかった」


 翼は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ目を伏せて、それから傘の柄を持つ僕の手元を見た。


「……帰り、途中までそのままでいい?」


「え?」


「傘」


 翼は前を向いたまま続ける。


「この雨で、今さら別々に歩くのも面倒だし」


 言い方はいつも通りなのに、声の最後だけが少し小さい。


 断る理由なんてあるはずもなかった。


 帰り道、僕らは一本の傘に入って歩いた。


 人通りの少ない住宅街へ入ると、さっきまでの緊張が少しだけ薄れる。その代わり、近さだけが妙にはっきり意識された。肩が触れそうで、歩くたびに制服の袖が擦れる。翼はまっすぐ前を見ているけれど、僕がちょっとでも歩幅を速めると、すぐに小さく袖を引いた。


「濡れる」


「ごめん」


「急がなくていいから」


 それだけ言って、翼はまた少しだけ袖を摘まんだまま歩く。


 心臓がもつ気がしなかった。


 やがて分かれ道が近づく。昨日と同じ場所。けれど今日は雨のせいで景色が違うし、僕の中の何かも少し違っていた。


 翼が足を止める。


「ここでいい」


「送るよ」


「いい。これ以上一緒にいたら、たぶん明日、陽菜に何か言われる」


 それはまあ、そうかもしれない。


 僕が傘を差し出そうとすると、翼は首を横に振った。


「蓮が持って帰って。私は走れば着くから」


「いや、それは」


「大丈夫。近いし」


 言いながらも、そのまま傘から出ようとはしない。代わりに、少しだけ迷うような間があってから、翼は僕の袖を摘まんでいた指先をゆっくり離した。


「……明日」


「うん」


「朝、少し早く来て」


「また猫?」


「猫も、だけど」


 そこで翼は視線を逸らす。


「今日のお礼、ちゃんと言いたいから」


 その言い方が、あまりにも彼女らしかった。言葉にするのは苦手なくせに、逃げるのはもっと苦手なのだろう。


「わかった」


「寝坊しないで」


「最近、それしか言わないね」


「大事だから」


 前にも聞いた言葉なのに、今日は前より少しだけやわらかく聞こえた。


 翼はようやく傘から半歩外へ出る。雨粒が髪の先に落ちる直前、僕は思わず名前を呼んでいた。


「翼」


 彼女が振り向く。


「また明日」


 翼は少しだけ目を見開いたあと、ふっと息を漏らすように笑った。


「……うん。また明日、蓮」


 その笑みが見えたせいで、家へ帰るまでの道のりが、妙に長く感じた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

応援が次回更新の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ