また明日
その場に落ちた沈黙は、不思議と気まずくはなかった。
ただ、ひどく落ち着かないだけだった。
僕が口を滑らせてしまった言葉の余韻が、まだ中庭の空気に残っている気がする。三毛猫はそんな人間同士の空気などどうでもいいらしく、花壇の縁で前足を揃え、眠たそうに目を細めていた。
保科――翼は、しばらく顔を逸らしたまま黙っていた。
夕方の光が頬の輪郭を淡く照らしていて、その横顔は綺麗なのに、今はそれ以上に無防備だった。いつもなら真っ直ぐ前を向いて、言葉に迷うことなんてないみたいな顔をしているのに、今は何を言うべきか本気で困っているのがわかる。
「……帰る」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
「え」
「これ以上ここにいたら、たぶん無理」
何が無理なのかは聞かなくてもわかった。聞いたらたぶん、もっとまずいことになる。
翼は小さく息を吐くと、制服の裾を整えてから歩き出した。僕も少し遅れてそのあとを追う。並んで歩くにはまだ微妙に気恥ずかしくて、けれど離れすぎるのも違う気がして、半歩ぶんだけ後ろを歩いた。
校舎へ戻る手前で、翼が足を止める。
「蓮」
「うん」
「さっきの」
僕は反射的に身構えた。やっぱり取り消してほしいと言われるだろうか。軽率だったと怒られるだろうか。そう思ったのに、翼は少しだけ視線を泳がせてから、言った。
「……忘れなくていいから」
胸の奥が熱くなる。
「でも、何回も言わないで」
「それはなんで」
「慣れてないの」
すごく小さい声だった。
あまりにも正直で、僕は一瞬、返す言葉を失う。翼はそんな僕の沈黙をどう受け取ったのか、少しだけ眉を寄せた。
「何」
「いや」
「いや、じゃなくて」
「可愛いなって思って」
また言ってしまった、と思った時には遅かった。
翼はぴたりと動きを止める。数秒前まで少しだけ戻りかけていた落ち着きが、一瞬で吹き飛んでいた。
「……ほんとに禁止」
「ごめん」
「全然ごめんって思ってないでしょう」
「少しは思ってる」
「少しじゃ足りない」
言葉はきついのに、声が少しもきつくないせいで迫力が足りない。しかも耳がまた赤い。自分でもそれをわかっているのか、翼はますます不機嫌そうな顔を作るのだが、残念ながら今は逆効果だった。
そのまま僕らは昇降口まで歩いた。
靴を履き替え、校門へ向かう頃には、空はかなり夕方の色になっていた。部活帰りの生徒たちがあちこちにいて、二人きりの中庭とは違って、ここでは自然と距離が開く。
それでも同じ方向へ歩いていること自体が、なんだか落ち着かなかった。
「蓮って、こっち方面なんだ」
「うん。駅とは反対」
「そう」
会話が途切れる。
けれど、その沈黙が前みたいに重くはない。話すことに困っているというより、互いに変に意識しすぎてうまく言葉が選べないだけだった。
校門を出て少し行ったところで、背後から聞き覚えのある声が飛んだ。
「ちょっと待って、二人ともー!」
振り返ると、加瀬陽菜がこちらへ走ってくるところだった。少し遅れて、その後ろに篠宮千歳もいる。加瀬は息を切らしながら僕らの前で止まると、まず翼を見て、それから僕を見て、最後ににやりと笑った。
「やっぱり一緒に帰ってる」
「陽菜、声が大きい」
翼が即座に言う。
「だって確認したかったんだもん」
「何を」
「いろいろ」
いろいろ、で済ませるあたりが加瀬さんらしい。篠宮さんはその隣で、僕と翼を一度ずつ見比べてから静かに言った。
「陽菜がどうしても気になるって言うから」
「千歳も気になってたでしょ?」
「否定はしない」
二人とも、あまりにも遠慮がない。
翼は明らかにため息を堪えていたが、完全に追い払うつもりもないらしい。たぶん、この二人に対しては最初から諦めているのだろう。
「で?」
加瀬さんがずい、と顔を寄せる。
「さっき中庭で、何話してたの?」
「話してない」
「嘘。絶対なんかあった」
「なかったわ」
「翼の“なかった”は信用度五割なんだよね」
「低すぎない?」
「今までの実績的に妥当」
加瀬さんは即答した。
その横で篠宮さんが小さく息をつく。
「陽菜、あまり詰めると本当に嫌われるよ」
「それは困る」
「なら黙って」
「千歳、今日ちょっと厳しくない?」
「平常運転」
二人の掛け合いが妙に完成されていて、僕は少しだけ気持ちが緩んだ。
すると、その瞬間を見逃さなかったらしい加瀬さんが、ぱっと僕のほうを向く。
「あ、今ちょっと笑った」
「え」
「前より顔やわらかくなったよね、篠原くん」
不意打ちだった。
どう返せばいいかわからずにいると、翼が一歩だけ前へ出る。
「陽菜」
「はいはい、わかってるって。変な意味じゃないから」
加瀬さんは両手を上げて降参の仕草をしたあと、少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ、翼」
「何」
「最近の翼、前より話しやすい」
その言葉に、翼がわずかに目を細める。
「急に何」
「ほんとだよ。前はもっとこう、全部一人で片づける感じだったじゃん。今もそういうとこあるけど、なんかちょっと違う」
篠宮さんも頷いた。
「前より表情が増えた」
「……そんなことないと思うけど」
「本人は大体わからないもの」
淡々とした口調なのに、妙に説得力があった。
翼は何か言い返そうとして、結局何も言わなかった。代わりに、ほんの少しだけ僕のほうを見る。
その視線は短かったけれど、加瀬さんも篠宮さんも、それに気づいたらしかった。
「なるほどねえ」
加瀬さんが意味深に笑う。
「何が」
「別に?」
「陽菜」
「いやいや、何でもないって。ただ、翼にもちゃんとそういう相手がいるんだなって思っただけ」
言い方は軽いのに、不思議と悪意はなかった。
翼は呆れたように息をつき、それから少しだけ肩の力を抜く。
「……そういう相手、とかじゃない」
「へえ」
「本当よ」
「へえー」
加瀬さんは明らかに信じていなかった。だが、それ以上追及すると今度こそ翼が本気で怒ると察したのか、すぐに話題をずらす。
「じゃあ、今日はここで解散にしよっか。千歳、寄り道する?」
「少しだけ本屋」
「じゃ、私も行く」
そう言ってから、加瀬さんは最後に僕へ向き直った。
「篠原くん」
「はい」
「翼、見た目より全然不器用だから」
「陽菜」
「はいはい。だから、変に怖がらなくていいよってこと」
その言葉は、からかいのようでいて、少しだけ本気が混じっている気がした。
篠宮さんも僕へ小さく会釈する。
「また明日」
「う、うん。また」
二人はそのまま手を振って去っていった。
残された僕と翼の間に、少しだけ静かな時間が落ちる。
「……好き勝手言っていったわね」
翼がぽつりと呟く。
「でも、たぶん心配してるんだと思う」
「わかってる」
短い返事。けれど、その声音には嫌そうな響きはなかった。
僕らの帰り道は、次の角で分かれる。そこへ着くまでの間、どちらからともなく歩調がゆっくりになった。
「蓮」
「うん」
「さっき、陽菜たちの前で」
「うん」
「何も言わなかったの、助かった」
僕は少しだけ笑った。
「何を言えばよかったの」
「言わなくていいの」
「じゃあ言わない」
「……そうして」
翼はそう言ってから、少しだけ迷うように指先を動かした。そして次の瞬間、僕の制服の袖をほんの少しだけ摘まむ。
中庭で一度だけ触れられた時よりも、今のほうがずっと破壊力があった。
人通りのある外で、誰かに見られてもおかしくない場所で、それでもほんの一瞬だけ触れてくる。その行為が、翼にとってどれだけ特別なことかくらい、もう僕にもわかる。
「……それと」
「うん」
「明日も、朝」
翼は俯きがちに続ける。
「あの子、いるかもしれないから」
猫のことを言っているのはわかる。
わかるのに、今この瞬間、袖を摘まんだままそんなことを言われたら、どうしたって猫だけの話には思えない。
「行くよ」
答えると、翼はようやく指先を離した。
「寝坊しないで」
「最近そればっかり」
「大事だから」
真面目に言い切られて、僕はまた笑ってしまう。すると翼は少しだけ唇を尖らせたが、それ以上何も言わなかった。
分かれ道の手前で、翼が足を止める。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日、翼」
名前を呼ぶと、翼はやっぱり少しだけ肩を揺らした。でも、もう前みたいにすぐ止めたりはしない。ただ、困ったように目を逸らしてから、小さく返してくる。
「……また明日、蓮」
その返事だけで、今日一日の終わりがひどく特別なものになった気がした。
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