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才色兼備の多彩で最強のカッコイイ保科さんは、どうにも僕にだけは可愛い一面を見せてくれるらしい。  作者: 沢田美


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7/12

名前で呼び合う

 放課後、中庭へ向かうまでの数分が、やけに長く感じられた。


 廊下を歩きながらも、頭の中ではさっきの保科の横顔が何度も繰り返される。男子相手に一歩も引かず、必要な距離だけをきっぱりと言葉で示したあの姿は、やはり圧倒的にカッコよかった。


 ああいう場面で迷わない。相手が誰でも、自分の線を自分で守れる。


 保科翼は、やっぱりそういう人だ。


 だからこそ、その数秒後に僕へ向けられた、少しだけ拗ねたみたいな「……見てたの」が、どうしようもなく反則だった。


 中庭へ出ると、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。西日に照らされた花壇の縁は赤みを帯びていて、風が吹くたび、植え込みの影が揺れる。あの三毛猫は今日もいた。塀の上で丸くなっていて、こちらに気づくと片目だけ開ける。


 その少し手前に、保科が立っていた。


 僕の足音に気づくと、彼女は振り返る。もう周囲に人がいないからか、教室や廊下で見せる完璧な表情より、ほんの少しだけ力が抜けていた。


「来たのね」


「呼ばれたから」


「そう」


 短く頷いてから、保科は猫のほうを見る。


「今日は機嫌がいいみたい」


「保科さんのこと、だいぶ覚えたのかも」


「……そうだといいけど」


 言いながら、彼女は慎重にしゃがみ込む。昨日までより自然だった。それでも、期待を隠しきれていないのは丸わかりで、膝の上に置かれた指先がわずかに落ち着かない。


 僕も少し離れて腰を下ろした。


 三毛猫はしばらく塀の上からこちらを見下ろしていたが、やがて身軽に飛び降り、まっすぐ保科のほうへ歩いていく。


 その瞬間、保科の肩がぴくりと震えた。


「来た」


 声が小さい。小さいくせに、驚くほど嬉しそうだった。


「うん」


「今日も来た」


「報告しなくても見えてるよ」


「うるさい」


 そう言い返す声に鋭さはなく、むしろ弾んでいた。


 三毛猫は保科の足元を一度だけくるりと回り、それから当然みたいに彼女の膝へ前足をかけた。保科が息を呑む。触れていいのか、抱き上げていいのか、そのどちらも選べず固まっているのがひどくわかりやすい。


「……どうすればいいの」


「今、僕に聞く?」


「だって」


「撫でればいいんじゃないかな」


「雑」


「でもたぶん合ってる」


 保科は僕を一度だけ睨んだ。睨んだ、はずなのに全然怖くない。むしろ、あまりにも余裕がなさすぎて可愛いほうが勝っている。


 やがて彼女は観念したように指先を伸ばし、猫の頭をそっと撫でた。三毛猫は嫌がるどころか、喉を鳴らしながら体重を預けてくる。


 その途端、保科の顔がふわりと崩れた。


「……重い」


 言葉とは裏腹に、声は甘いくらい柔らかい。


「でも、かわいい」


 知ってる、と言いかけてやめた。


 今の保科を前にそんなことを言ったら、たぶんまた耳まで真っ赤にさせてしまう。いや、少し見てみたい気もするけれど、それを口に出したら本当に怒られそうだった。


 猫はそのまま保科の膝に半分乗るような姿勢になり、落ち着ききった様子で目を細める。


 保科はもう完全に限界だった。


「……蓮」


 不意に呼ばれて、僕は固まった。


「え」


 保科自身も、言ってから気づいたみたいに瞬きをした。


 今、確かに名前で呼ばれた。しかも、篠原でもなく、君づけでもなく、ただ、蓮、と。


 心臓が一拍遅れて暴れ出す。


「い、今」


「……聞こえてるでしょう」


 保科は猫を撫でたまま、視線だけ逸らした。夕方の光のせいだけではない赤みが、頬から耳までじわじわ広がっていく。


「加瀬さんたちが、そう呼んでいたから」


「それで、名前で?」


「嫌だった?」


 訊ねる声だけが少し不安そうで、僕は慌てて首を振った。


「嫌じゃない。全然」


「そう」


 保科は短く返したあと、猫の背をゆっくり撫でる。その指先は相変わらず優しくて、でもさっきより少しだけ落ち着かない。


「なら、いい」


 その「いい」が、やけに胸に残った。


 沈黙が落ちる。


 気まずさはない。ただ、僕だけが落ち着かない。保科は名前を呼んだあとも平静を装っているつもりらしいけれど、膝の上の猫に意識を逃がしているのがわかりやすすぎた。


 僕はなんとか呼吸を整えてから口を開く。


「保科さんも、名前で呼んでいい?」


 今度は保科が止まる番だった。


 猫を撫でる手がぴたりと止まり、数秒遅れて三毛猫が不思議そうに尻尾を揺らす。


「……翼って?」


「うん」


「他の人の前では、だめ」


 即答だった。


「でも」


 そこで言葉が切れる。


 保科は少しだけ俯いて、猫の頭を撫でるふりをしながら、小さく続けた。


「……二人きりの時なら、別にいい」


 もう駄目だった。


 こんなの、どう受け止めればいいのかわからない。昼間、誰に対しても隙を見せない保科翼が、二人きりの時だけなら名前で呼んでいいと言う。その特別さを意識するなというほうが無理だ。


「翼」


 試すみたいに、小さく呼んでみる。


 保科の肩が跳ねた。


 それだけで十分すぎる答えだった。彼女はすぐに顔を逸らしたものの、耳まできれいに赤い。猫を撫でる手つきまで少し雑になって、三毛猫が不満そうに鳴く。


「……急に呼ばないで」


「自分でいいって言ったのに」


「心の準備があるでしょう」


「そこ必要なんだ」


「必要」


 あまりにも本気の返しで、僕は思わず笑った。


 すると保科はむっとしたように僕を見る。けれどその目にはいつもの鋭さはない。むしろ、照れて困っているのを誤魔化すための視線にしか見えなかった。


「笑わないで」


「ごめん。でも、ちょっと嬉しくて」


「……何が」


「名前で呼んでもいいって言われたの」


 保科はまた黙る。


 そして、少しだけ猫へ視線を落としたまま、消え入りそうな声で言った。


「私だって、呼びたかったから呼んだの」


 その一言に、胸の奥がきつく締めつけられた。


 何も言えなくなる僕の隣で、保科は完全に自爆したと気づいたのか、今度こそ本気で顔を覆いたそうな気配を見せる。けれど膝の上には猫がいるから、それもできない。結果、逃げ場を失ったまま、ただ耳まで赤くして俯くしかなくなっていた。


 そんなところまで可愛いのは、ずるい。


 その時だった。


「わあ、やっぱりここだった」


 明るい声がして、僕と保科は同時に顔を上げた。


 中庭の入口に立っていたのは、加瀬陽菜と篠宮千歳だった。加瀬は両手を腰に当てたまま、いかにも「見つけた」と言いたげな笑みを浮かべている。篠宮はその少し後ろで、いつもの落ち着いた顔のままこちらを見ていた。


 保科の膝の上では、三毛猫がのんびりと尻尾を揺らしている。


 状況としては最悪だった。


「翼、言い訳ある?」


 加瀬がにやにやしながら言う。


「猫じゃん。完全に猫じゃん。朝の袖の毛、やっぱりこれだったんじゃん」


「陽菜、声が大きい」


 篠宮が静かにたしなめるが、その目元はほんの少し笑っていた。


 保科は一拍だけ固まったあと、すっと背筋を伸ばした。膝の上に猫を乗せたままでも、その動作ひとつで空気が変わる。


「……見ればわかるでしょう」


 言い逃れを諦めたらしい。


 加瀬は目を丸くしたあと、次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。


「認めた! 翼が認めた! すご、今日記念日じゃない?」


「陽菜」


「だってさあ、あの翼が猫にこんな顔するなんて思わないじゃん」


 その瞬間、保科がぴたりと止まった。


「……こんな顔?」


 低い声だった。


 加瀬の笑みが引きつる。さっきまでの勢いはどこへやら、明らかに一歩引いた。


「いや、えっと……その、すごく、優しい顔?」


「最初からそう言えばいいのに」


 言葉は冷静だったが、耳が赤いせいで全然迫力が足りていなかった。たぶんそれをわかっているのは僕だけだ。


 篠宮はそんな保科を見て、静かに息をついた。


「翼」


「何」


「その猫の前では、今のほうがいい」


 保科がわずかに目を見開く。


「昼間の、何も寄せつけない顔より、ずっと」


 篠宮はそこまで言ってから、僕のほうを一瞬だけ見た。


「……この人が見てる時のほうが、自然だし」


 加瀬が「それ!」と勢いよく頷く。


「そうなんだよね。翼、篠原くんの前だと変に頑張ってない感じ。ていうか、かわ――」


「陽菜」


「はい、やめます」


 保科に低く遮られて、加瀬はすぐに両手を上げた。


 けれどもう遅い。言いかけた言葉の続きを、保科も僕も、たぶん篠宮も理解してしまっている。


 保科はしばらく黙っていたが、やがて膝の上の猫を見下ろし、小さく息を吐いた。


「……あなたたちには、見せるつもりなかったのに」


「でも見ちゃったし」


「最初に見たのは篠原くんだけどね」


 加瀬のその一言に、保科の視線がすっと僕へ向く。


 胸が跳ねる。


 少しだけ間があってから、保科は観念したように口を開いた。


「……蓮には、もう見られてるから」


 加瀬が「うわ」と声を漏らし、篠宮が珍しくはっきり目を見開いた。


 しまった、という顔をしたのは、たぶん保科本人が一番遅かった。


 今の一言は、どう考えても情報量が多すぎる。


「えっ、なにそれ、ちょっと待って。今、翼、篠原くんのこと」


「陽菜」


「いやでも今のは止まれないって!」


 加瀬が興奮気味に詰め寄ろうとした瞬間、保科がすっと立ち上がる。猫は慣れた様子で花壇のほうへ降りた。


 次の瞬間には、保科の空気が完全に変わっていた。


「これ以上騒ぐなら、二人とも今ここで黙らせるけど」


 声は低く、静かだった。怒鳴らないのに、きっぱりと迫力がある。


 加瀬がぴたりと止まる。篠宮でさえ、わずかに肩を竦めた。


 やっぱり、カッコいい。


 誰かを黙らせる時に、保科は決して感情で圧をかけない。ただ、必要な線を引いて、それ以上を許さないだけだ。その姿は、見ているだけで息を呑むくらい鮮やかだった。


「……わかった」


 加瀬が珍しく素直に頷く。


「ごめん、ちょっと面白くなっちゃっただけ」


「面白がらないで」


「善処します」


「信用できない」


 即答するあたりは、いつもの保科だ。


 けれどそのあと、保科はほんの少しだけ視線を緩める。


「でも」


「うん?」


「二人とも、誰にも言わないで」


 その声音は、さっきまでの鋭さよりずっと静かで、少しだけ頼るような響きがあった。


 加瀬と篠宮は顔を見合わせる。


 そして、加瀬が先に笑った。


「言わないよ。翼がそんな顔で頼むの、珍しいし」


「私も話さない」


 篠宮が頷く。


「それに、翼が大事にしてるものを、勝手に広める趣味はないから」


 その言い方に、保科は一瞬だけ言葉を失ったようだった。けれど、次には小さく「そう」とだけ返す。


 加瀬はにやにやしながら僕を見る。


「篠原くん、だっけ」


「う、うん」


「翼のこと、ちゃんと見ててあげてね。強いしカッコいいけど、たぶん思ってるより不器用だから」


「陽菜」


「はいはい、これ以上は言いませーん」


 そう言って、加瀬はくるりと踵を返した。篠宮も軽く会釈だけして、そのあとに続く。


 二人が中庭から去っていくと、ようやく静けさが戻った。


 保科はしばらくその背中を見送っていたが、やがてゆっくりと僕のほうを見る。


「……恥ずかしい」


 たぶん、今日一番小さい声だった。


「今さら?」


「今さらよ」


 言いながら、保科はほんの少しだけ唇を尖らせる。


 その表情がもう、さっきまで加瀬たちを黙らせていた人と同じとは思えない。


「翼」


 そっと呼ぶと、保科はまた肩を揺らした。


「……何」


「大丈夫だよ」


「何が」


「今の保科さん――じゃなくて、翼も」


 そこまで言うと、保科は観念したみたいに目を伏せた。


「……続けて」


「カッコいいところも、今みたいなところも、どっちも好きだから」


 言った瞬間、自分で何を口走ったのか理解して、頭が真っ白になった。


 違う。いや、違わないけど、今言うつもりじゃなかった。もっとこう、別の言い方があったはずだ。なのに思考より先に本音が滑り落ちた。


 保科は完全に固まっていた。


 数秒後、ようやく動いたかと思えば、すっと顔を逸らす。耳だけじゃない。首筋まできれいに赤い。


「……蓮」


「ごめん、今のは」


「次から」


 保科が小さく言う。


「そういうの、急に言うの禁止」


「禁止?」


「心臓に悪いから」


 その返しがあまりにも正直で、僕は何も言えなくなった。


 風が吹いて、花壇の葉が揺れる。三毛猫は少し離れた場所で丸くなり、眠たそうに目を細めていた。


 その静かな中で、保科はまだ顔を逸らしたまま、小さく続ける。


「……でも」


「うん」


「今の、嫌じゃなかった」


 それだけ言うのが限界だったのだろう。保科はそれ以上こちらを見なかった。


 けれど、見なくてもわかる。


 校内最強で、誰よりもカッコいい保科翼は、たぶん今、史上最弱なくらい可愛くなっていた。

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