名前で呼び合う
放課後、中庭へ向かうまでの数分が、やけに長く感じられた。
廊下を歩きながらも、頭の中ではさっきの保科の横顔が何度も繰り返される。男子相手に一歩も引かず、必要な距離だけをきっぱりと言葉で示したあの姿は、やはり圧倒的にカッコよかった。
ああいう場面で迷わない。相手が誰でも、自分の線を自分で守れる。
保科翼は、やっぱりそういう人だ。
だからこそ、その数秒後に僕へ向けられた、少しだけ拗ねたみたいな「……見てたの」が、どうしようもなく反則だった。
中庭へ出ると、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。西日に照らされた花壇の縁は赤みを帯びていて、風が吹くたび、植え込みの影が揺れる。あの三毛猫は今日もいた。塀の上で丸くなっていて、こちらに気づくと片目だけ開ける。
その少し手前に、保科が立っていた。
僕の足音に気づくと、彼女は振り返る。もう周囲に人がいないからか、教室や廊下で見せる完璧な表情より、ほんの少しだけ力が抜けていた。
「来たのね」
「呼ばれたから」
「そう」
短く頷いてから、保科は猫のほうを見る。
「今日は機嫌がいいみたい」
「保科さんのこと、だいぶ覚えたのかも」
「……そうだといいけど」
言いながら、彼女は慎重にしゃがみ込む。昨日までより自然だった。それでも、期待を隠しきれていないのは丸わかりで、膝の上に置かれた指先がわずかに落ち着かない。
僕も少し離れて腰を下ろした。
三毛猫はしばらく塀の上からこちらを見下ろしていたが、やがて身軽に飛び降り、まっすぐ保科のほうへ歩いていく。
その瞬間、保科の肩がぴくりと震えた。
「来た」
声が小さい。小さいくせに、驚くほど嬉しそうだった。
「うん」
「今日も来た」
「報告しなくても見えてるよ」
「うるさい」
そう言い返す声に鋭さはなく、むしろ弾んでいた。
三毛猫は保科の足元を一度だけくるりと回り、それから当然みたいに彼女の膝へ前足をかけた。保科が息を呑む。触れていいのか、抱き上げていいのか、そのどちらも選べず固まっているのがひどくわかりやすい。
「……どうすればいいの」
「今、僕に聞く?」
「だって」
「撫でればいいんじゃないかな」
「雑」
「でもたぶん合ってる」
保科は僕を一度だけ睨んだ。睨んだ、はずなのに全然怖くない。むしろ、あまりにも余裕がなさすぎて可愛いほうが勝っている。
やがて彼女は観念したように指先を伸ばし、猫の頭をそっと撫でた。三毛猫は嫌がるどころか、喉を鳴らしながら体重を預けてくる。
その途端、保科の顔がふわりと崩れた。
「……重い」
言葉とは裏腹に、声は甘いくらい柔らかい。
「でも、かわいい」
知ってる、と言いかけてやめた。
今の保科を前にそんなことを言ったら、たぶんまた耳まで真っ赤にさせてしまう。いや、少し見てみたい気もするけれど、それを口に出したら本当に怒られそうだった。
猫はそのまま保科の膝に半分乗るような姿勢になり、落ち着ききった様子で目を細める。
保科はもう完全に限界だった。
「……蓮」
不意に呼ばれて、僕は固まった。
「え」
保科自身も、言ってから気づいたみたいに瞬きをした。
今、確かに名前で呼ばれた。しかも、篠原でもなく、君づけでもなく、ただ、蓮、と。
心臓が一拍遅れて暴れ出す。
「い、今」
「……聞こえてるでしょう」
保科は猫を撫でたまま、視線だけ逸らした。夕方の光のせいだけではない赤みが、頬から耳までじわじわ広がっていく。
「加瀬さんたちが、そう呼んでいたから」
「それで、名前で?」
「嫌だった?」
訊ねる声だけが少し不安そうで、僕は慌てて首を振った。
「嫌じゃない。全然」
「そう」
保科は短く返したあと、猫の背をゆっくり撫でる。その指先は相変わらず優しくて、でもさっきより少しだけ落ち着かない。
「なら、いい」
その「いい」が、やけに胸に残った。
沈黙が落ちる。
気まずさはない。ただ、僕だけが落ち着かない。保科は名前を呼んだあとも平静を装っているつもりらしいけれど、膝の上の猫に意識を逃がしているのがわかりやすすぎた。
僕はなんとか呼吸を整えてから口を開く。
「保科さんも、名前で呼んでいい?」
今度は保科が止まる番だった。
猫を撫でる手がぴたりと止まり、数秒遅れて三毛猫が不思議そうに尻尾を揺らす。
「……翼って?」
「うん」
「他の人の前では、だめ」
即答だった。
「でも」
そこで言葉が切れる。
保科は少しだけ俯いて、猫の頭を撫でるふりをしながら、小さく続けた。
「……二人きりの時なら、別にいい」
もう駄目だった。
こんなの、どう受け止めればいいのかわからない。昼間、誰に対しても隙を見せない保科翼が、二人きりの時だけなら名前で呼んでいいと言う。その特別さを意識するなというほうが無理だ。
「翼」
試すみたいに、小さく呼んでみる。
保科の肩が跳ねた。
それだけで十分すぎる答えだった。彼女はすぐに顔を逸らしたものの、耳まできれいに赤い。猫を撫でる手つきまで少し雑になって、三毛猫が不満そうに鳴く。
「……急に呼ばないで」
「自分でいいって言ったのに」
「心の準備があるでしょう」
「そこ必要なんだ」
「必要」
あまりにも本気の返しで、僕は思わず笑った。
すると保科はむっとしたように僕を見る。けれどその目にはいつもの鋭さはない。むしろ、照れて困っているのを誤魔化すための視線にしか見えなかった。
「笑わないで」
「ごめん。でも、ちょっと嬉しくて」
「……何が」
「名前で呼んでもいいって言われたの」
保科はまた黙る。
そして、少しだけ猫へ視線を落としたまま、消え入りそうな声で言った。
「私だって、呼びたかったから呼んだの」
その一言に、胸の奥がきつく締めつけられた。
何も言えなくなる僕の隣で、保科は完全に自爆したと気づいたのか、今度こそ本気で顔を覆いたそうな気配を見せる。けれど膝の上には猫がいるから、それもできない。結果、逃げ場を失ったまま、ただ耳まで赤くして俯くしかなくなっていた。
そんなところまで可愛いのは、ずるい。
その時だった。
「わあ、やっぱりここだった」
明るい声がして、僕と保科は同時に顔を上げた。
中庭の入口に立っていたのは、加瀬陽菜と篠宮千歳だった。加瀬は両手を腰に当てたまま、いかにも「見つけた」と言いたげな笑みを浮かべている。篠宮はその少し後ろで、いつもの落ち着いた顔のままこちらを見ていた。
保科の膝の上では、三毛猫がのんびりと尻尾を揺らしている。
状況としては最悪だった。
「翼、言い訳ある?」
加瀬がにやにやしながら言う。
「猫じゃん。完全に猫じゃん。朝の袖の毛、やっぱりこれだったんじゃん」
「陽菜、声が大きい」
篠宮が静かにたしなめるが、その目元はほんの少し笑っていた。
保科は一拍だけ固まったあと、すっと背筋を伸ばした。膝の上に猫を乗せたままでも、その動作ひとつで空気が変わる。
「……見ればわかるでしょう」
言い逃れを諦めたらしい。
加瀬は目を丸くしたあと、次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。
「認めた! 翼が認めた! すご、今日記念日じゃない?」
「陽菜」
「だってさあ、あの翼が猫にこんな顔するなんて思わないじゃん」
その瞬間、保科がぴたりと止まった。
「……こんな顔?」
低い声だった。
加瀬の笑みが引きつる。さっきまでの勢いはどこへやら、明らかに一歩引いた。
「いや、えっと……その、すごく、優しい顔?」
「最初からそう言えばいいのに」
言葉は冷静だったが、耳が赤いせいで全然迫力が足りていなかった。たぶんそれをわかっているのは僕だけだ。
篠宮はそんな保科を見て、静かに息をついた。
「翼」
「何」
「その猫の前では、今のほうがいい」
保科がわずかに目を見開く。
「昼間の、何も寄せつけない顔より、ずっと」
篠宮はそこまで言ってから、僕のほうを一瞬だけ見た。
「……この人が見てる時のほうが、自然だし」
加瀬が「それ!」と勢いよく頷く。
「そうなんだよね。翼、篠原くんの前だと変に頑張ってない感じ。ていうか、かわ――」
「陽菜」
「はい、やめます」
保科に低く遮られて、加瀬はすぐに両手を上げた。
けれどもう遅い。言いかけた言葉の続きを、保科も僕も、たぶん篠宮も理解してしまっている。
保科はしばらく黙っていたが、やがて膝の上の猫を見下ろし、小さく息を吐いた。
「……あなたたちには、見せるつもりなかったのに」
「でも見ちゃったし」
「最初に見たのは篠原くんだけどね」
加瀬のその一言に、保科の視線がすっと僕へ向く。
胸が跳ねる。
少しだけ間があってから、保科は観念したように口を開いた。
「……蓮には、もう見られてるから」
加瀬が「うわ」と声を漏らし、篠宮が珍しくはっきり目を見開いた。
しまった、という顔をしたのは、たぶん保科本人が一番遅かった。
今の一言は、どう考えても情報量が多すぎる。
「えっ、なにそれ、ちょっと待って。今、翼、篠原くんのこと」
「陽菜」
「いやでも今のは止まれないって!」
加瀬が興奮気味に詰め寄ろうとした瞬間、保科がすっと立ち上がる。猫は慣れた様子で花壇のほうへ降りた。
次の瞬間には、保科の空気が完全に変わっていた。
「これ以上騒ぐなら、二人とも今ここで黙らせるけど」
声は低く、静かだった。怒鳴らないのに、きっぱりと迫力がある。
加瀬がぴたりと止まる。篠宮でさえ、わずかに肩を竦めた。
やっぱり、カッコいい。
誰かを黙らせる時に、保科は決して感情で圧をかけない。ただ、必要な線を引いて、それ以上を許さないだけだ。その姿は、見ているだけで息を呑むくらい鮮やかだった。
「……わかった」
加瀬が珍しく素直に頷く。
「ごめん、ちょっと面白くなっちゃっただけ」
「面白がらないで」
「善処します」
「信用できない」
即答するあたりは、いつもの保科だ。
けれどそのあと、保科はほんの少しだけ視線を緩める。
「でも」
「うん?」
「二人とも、誰にも言わないで」
その声音は、さっきまでの鋭さよりずっと静かで、少しだけ頼るような響きがあった。
加瀬と篠宮は顔を見合わせる。
そして、加瀬が先に笑った。
「言わないよ。翼がそんな顔で頼むの、珍しいし」
「私も話さない」
篠宮が頷く。
「それに、翼が大事にしてるものを、勝手に広める趣味はないから」
その言い方に、保科は一瞬だけ言葉を失ったようだった。けれど、次には小さく「そう」とだけ返す。
加瀬はにやにやしながら僕を見る。
「篠原くん、だっけ」
「う、うん」
「翼のこと、ちゃんと見ててあげてね。強いしカッコいいけど、たぶん思ってるより不器用だから」
「陽菜」
「はいはい、これ以上は言いませーん」
そう言って、加瀬はくるりと踵を返した。篠宮も軽く会釈だけして、そのあとに続く。
二人が中庭から去っていくと、ようやく静けさが戻った。
保科はしばらくその背中を見送っていたが、やがてゆっくりと僕のほうを見る。
「……恥ずかしい」
たぶん、今日一番小さい声だった。
「今さら?」
「今さらよ」
言いながら、保科はほんの少しだけ唇を尖らせる。
その表情がもう、さっきまで加瀬たちを黙らせていた人と同じとは思えない。
「翼」
そっと呼ぶと、保科はまた肩を揺らした。
「……何」
「大丈夫だよ」
「何が」
「今の保科さん――じゃなくて、翼も」
そこまで言うと、保科は観念したみたいに目を伏せた。
「……続けて」
「カッコいいところも、今みたいなところも、どっちも好きだから」
言った瞬間、自分で何を口走ったのか理解して、頭が真っ白になった。
違う。いや、違わないけど、今言うつもりじゃなかった。もっとこう、別の言い方があったはずだ。なのに思考より先に本音が滑り落ちた。
保科は完全に固まっていた。
数秒後、ようやく動いたかと思えば、すっと顔を逸らす。耳だけじゃない。首筋まできれいに赤い。
「……蓮」
「ごめん、今のは」
「次から」
保科が小さく言う。
「そういうの、急に言うの禁止」
「禁止?」
「心臓に悪いから」
その返しがあまりにも正直で、僕は何も言えなくなった。
風が吹いて、花壇の葉が揺れる。三毛猫は少し離れた場所で丸くなり、眠たそうに目を細めていた。
その静かな中で、保科はまだ顔を逸らしたまま、小さく続ける。
「……でも」
「うん」
「今の、嫌じゃなかった」
それだけ言うのが限界だったのだろう。保科はそれ以上こちらを見なかった。
けれど、見なくてもわかる。
校内最強で、誰よりもカッコいい保科翼は、たぶん今、史上最弱なくらい可愛くなっていた。




