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才色兼備の多彩で最強のカッコイイ保科さんは、どうにも僕にだけは可愛い一面を見せてくれるらしい。  作者: 沢田美


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6/12

二人の女の子

 翌朝、僕は目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。


 寝坊しないで、と言われたせいもある。けれど実際は、それ以前の問題だった。昨日の放課後に交わしたやりとりが頭の中で何度も反芻されていて、いつもの時間まで眠っていられるほど鈍くはなれなかったのだ。


 制服に袖を通し、家を出る。朝の空気はまだ冷たく、通学路も普段より静かだった。けれど僕の胸の内側だけが、やけに落ち着かない。


 七時四十分。


 指定された時間より少しだけ早く、中庭手前の渡り廊下に着く。


 すると、そこにはもう保科がいた。


 窓際に立ち、朝の光を浴びながら中庭を見ている。銀色の髪がやわらかな陽射しを受けて透けるように光っていて、制服姿でただ立っているだけなのに、やっぱり絵になった。


 僕の足音に気づいたのか、保科が振り向く。


「……早い」


「保科さんも」


「待たせるの、好きじゃないから」


 それだけ言う声音はいつも通り落ち着いている。けれど、朝の人の少ない校舎で二人きりという状況のせいか、昨日までより少しだけ近く感じた。


「来てくれてありがとう」


 不意にそんなことを言われて、僕は一瞬言葉を失う。


 保科はまっすぐこちらを見ていた。取り繕うような顔ではない。ただ、本心から言ったのだとわかる目だった。


「……うん」


 情けないくらい短い返事しかできなかったが、保科はそれ以上何も言わなかった。代わりに、視線を中庭へ戻す。


「あの子、いるかしら」


 その一言で、少しだけ空気が和らぐ。


 やっぱり猫のことになると、保科は保科だ。昨日までの強くて近寄りがたい印象のままではいられないらしい。


 二人で中庭へ出ると、朝露の残る花壇のそばに、見覚えのある三毛猫が丸くなっていた。朝の光の中で見ると、昼間よりも少しだけ毛並みが柔らかく見える。


 保科の歩調が、露骨に慎重になる。


「……いた」


 小さく呟く声が、昨日の放課後よりさらに弱かった。


「ほんとだ」


「今日はいける気がする」


「その自信、毎回少し怪しいよね」


「今のは聞かなかったことにする」


 言いながらも、保科の口元はほんの少しだけ緩んでいた。


 僕らは昨日と同じように、猫を刺激しないよう距離を取ってしゃがみ込む。保科は僕の助言を思い出しているのか、今日は最初から無理に手を伸ばそうとしなかった。目も合わせすぎず、ただ静かにその場にいる。


 その横顔は、朝の光の中で驚くほど柔らかく見えた。


 猫はしばらくこちらの様子を窺っていたが、やがてのそりと立ち上がり、僕のほうを一瞥したあと、そのまま保科のほうへ歩いていった。


 保科の肩がぴくりと揺れる。


 けれど彼女は動かない。動きたいのを必死で堪えているのが、隣から見ていて痛いほど伝わってきた。


 三毛猫はそのまま保科の膝先で止まり、くん、と匂いを嗅いでから、するりとスカートの裾に体を寄せた。


「……っ」


 保科が息を呑む。


 その顔があまりにもわかりやすく感動していて、僕は思わず笑いそうになった。だが今ここで笑えば、間違いなく睨まれる未来が見えるので、必死に堪える。


「今」


 僕が小さく促すと、保科はこくりと頷いた。


 白い指先が、昨日までよりずっと自然に三毛猫の背へ伸びる。そっと毛並みに触れると、猫は逃げるどころか、気持ちよさそうに目を細めた。


 その瞬間だった。


 保科が、ふわっと笑った。


 昨日まで見たどの表情よりも無防備で、綺麗というより先に可愛いが勝つ笑い方だった。目元が柔らかくなって、唇の端が素直に上がって、猫を撫でる手つきまでひどく優しくなる。


「……見た?」


 ぼそっと、でも隠しきれない嬉しさを滲ませながら言う。


「見た」


「今日は私のほうに来た」


「うん」


「ちゃんと来た」


「うん」


 その報告口調があまりにも子どもっぽくて、今度は本当に耐えきれなかった。僕が肩を震わせると、保科は猫を撫でたまま、じろりとこちらを見る。


「何」


「いや、嬉しそうだなって」


「嬉しいものは嬉しいの」


 拗ねたように言い返しながらも、目は全然怒っていなかった。むしろ、そんなふうに言葉にされても止まらないくらい、機嫌がいいのだろう。


 しばらくして、猫は満足したように保科の手に頬を擦りつけた。


 その瞬間、保科は完全に限界だった。


「……かわいい」


 消え入りそうな声。けれど、その一言に詰まった熱量はものすごかった。


 僕はもう何も言えなかった。


 昼間、誰にも隙を見せず、告白の場でも堂々としていた保科翼が、今はたった一匹の猫に頬を緩めて、声まで甘くしている。そしてその表情を、僕に見せることをもう隠そうともしない。


 これで意識するなというほうが無理だった。


 やがて始業の時間が近づき、僕らは中庭を後にした。渡り廊下へ戻る途中、保科はふいに歩調を緩める。


「昨日のこと」


「告白のこと?」


「……うん」


 保科は前を向いたまま、小さく息を吐いた。


「ちゃんと断れていたって言ってくれて、嬉しかった」


 朝の静かな空気の中、その言葉は昨日よりもっと真っ直ぐに胸へ落ちた。


「本当にカッコよかったよ」


 僕がそう返すと、保科は一瞬だけこちらを見た。


 そして、ほんの少しだけ困ったように、でも嫌ではなさそうに目を細める。


「あなた、そういうの、急に言うわね」


「本当のことだから」


「……そういうところが、困るのよ」


 言い方は呆れたみたいなのに、耳はしっかり赤かった。


 その時だった。


「えっ、翼?」


 明るい女子の声が渡り廊下に響いた。


 僕と保科が同時に顔を上げると、向こう側から女子が二人、こちらへ歩いてきていた。


 一人は肩のあたりで跳ねる茶色がかった髪をした、華やかな印象の女子。ぱっと見で人懐っこいとわかる顔立ちで、目が大きく、朝から元気そうな空気を纏っている。


 もう一人は対照的に、黒髪を綺麗にまとめた落ち着いた雰囲気の女子だった。派手さはないが、整った顔立ちと冷静そうな目元が印象に残る。どこか大人びていて、立ち姿にも無駄がない。


 彼女たちは、教室でもよく保科の近くにいる女子たちだった。


 茶髪のほうが加瀬陽菜(かせ・ひな)。明るくてよく喋り、誰とでもすぐ打ち解けるタイプ。

 黒髪のほうが篠宮千歳(しのみや・ちとせ)。口数は多くないが観察眼が鋭く、加瀬の勢いをさりげなく制御しているようなところがある。


 どちらもクラスでは目立つ側の女子で、いつも保科の周りにいるせいか、自然と「保科グループ」みたいな扱いをされていた。


 加瀬は僕と保科を交互に見て、ぱちぱちと瞬きをする。


「え、待って。翼がこんな朝早く中庭のほうから来るのも珍しいけど、その隣に男子がいるのもっと珍しいんだけど?」


「朝から騒がないで、陽菜」


 篠宮が静かにたしなめる。だが、その視線も僕のほうへしっかり向いていた。落ち着いている分、加瀬よりよほど逃げ場がない。


 保科は一拍の間も置かず、いつもの顔に戻った。


「別に。少し空気を吸っていただけ」


 声も、表情も、完璧だった。


 さっきまで猫を撫でて頬を緩めていた人と同じとは思えない切り替えで、僕は内心で唖然とする。加瀬はそんな保科をじとっと見たあと、今度は僕へ視線を寄越した。


「へえ? で、その“少し空気を吸ってただけ”に、なんで君がついてるの?」


 ぐい、と距離を詰められて、僕は反射的に身を引いた。


 すると保科が、すっと一歩だけ前に出る。


「陽菜」


 たったそれだけの呼び方なのに、空気が少しだけ張った。


 加瀬はすぐに両手を上げて笑う。


「はいはい、そんな怖い顔しないでって。別にいじめるつもりじゃないし」


「見ればわかるわ」


「いやそれ、全然安心できない返しなんだけど?」


 加瀬が肩を竦める横で、篠宮はふっと小さく息を漏らした。笑ったのかもしれない。


「でも珍しいのは本当」


 篠宮が言う。


「翼が男子と一緒にいるところ、初めて見たかも」


 その言い方には棘がなかった。純粋な観察としての言葉だったのだろう。だからこそ、余計に逃げ道がない。


 保科は平然としていた。


「それがどうかした?」


「どうもしてない。ただ、少し意外だっただけ」


 篠宮は僕を一瞥してから、今度は保科の袖口を見た。


 そこにまだ、さっきの三毛猫の毛が一筋だけついていた。


 まずい、と思った時には遅かった。


「翼」


「何」


「袖」


 保科が自分の袖口を見る。


 一瞬、ほんの一瞬だけ、彼女の表情が固まった。


 加瀬もそれに気づいたらしい。身を乗り出すようにして覗き込み、目を見開く。


「え、なにそれ。毛? えっ、まさか……翼、猫?」


「違う」


 食い気味だった。


 速すぎる否定に、加瀬の目が輝く。


「いや絶対怪しいでしょ今の!」


「怪しくないわ」


「翼がそんな速さで否定する時、大体ほんとなんだよね」


 加瀬は妙に鋭かった。


 保科は無言で袖を払う。その横顔は落ち着いているように見えるのに、耳がうっすら赤い。僕だけが知っているその変化を、加瀬たちはまだ気づいていないらしい。


 いや、篠宮のほうは気づいているかもしれなかった。彼女はほんの少しだけ目を細め、僕と保科の間に流れる空気を見ているようだった。


「行きましょう、翼」


 篠宮が助け舟みたいに言う。


「これ以上ここにいると、陽菜がうるさいから」


「千歳、それ遠回しに見えて全然遠回しじゃないからね?」


「事実でしょ」


 淡々と返され、加瀬は不満そうに口を尖らせる。


 保科は小さく息をつき、それから僕のほうを一瞬だけ見た。


 ほんの一瞬だった。けれど、その目が「今は何も言わないで」と訴えているのがわかる。僕は黙って頷いた。


 すると保科は何事もなかったように踵を返し、加瀬と篠宮を連れて教室へ向かった。去り際、加瀬だけが振り返って、興味津々といった顔で僕を見ていた。


 その日の教室は、朝から妙な落ち着かなさに包まれていた。


 保科はいつも通りだった。授業中は真面目にノートを取り、教師の質問には的確に答え、女子たちと話す時も過不足のない距離感を保つ。加瀬はそんな彼女の隣でくるくる表情を変えながらよく喋り、篠宮は必要なところだけ口を挟んで、あとは静かに眺めている。


 三人でいると、やはり目立った。


 保科が中心で、加瀬が明るさを足し、篠宮が輪郭を整える。近寄りがたいのに華やかで、誰の目にも映る女子グループだ。


 そんな中で、僕だけが朝の中庭を知っている。


 猫に頬を緩めた保科も、袖に毛をつけたまま取り繕っていた保科も、僕だけが知っている。


 その秘密が、授業中ずっと胸の奥で熱を持っていた。


 二時間目と三時間目の間の休み時間、前の席の保科の周りには、やはり加瀬と篠宮がいた。


「で、翼は結局、朝何してたの?」


 加瀬が机に肘をつきながら訊く。


「散歩」


「校内で?」


「ええ」


「しかも男子つきで?」


「たまたま同じ方向だっただけ」


 すらすらと答える保科の横顔は涼しい。だが、加瀬は明らかに納得していなかった。


「ふーん……」


 わざとらしく唸ったあと、加瀬はちらりと僕のほうを見る。


 嫌な予感しかしない。


「ねえ、君」


「え、僕?」


「うん。朝、翼と一緒にいたよね?」


 ついに来た。


 教室の何人かが、さりげなくこちらへ意識を向けるのがわかる。やめてほしい。僕はこういう注目に耐えられるタイプではない。


「その……たまたまだよ」


「みんなそれ言うけど、たまたまにしては二人とも隠すの下手なんだよね」


「陽菜」


 保科が低く名前を呼ぶ。


 加瀬はにやにやしながら両手を上げた。


「はいはい、そこまでにしときますよー。でも気になるじゃん。翼ってほんと、男子に興味ない感じだったし」


「興味がないわけじゃない」


 保科が淡々と言う。


 その一言で、周囲の空気がわずかに止まった。


 僕も、加瀬も、一瞬だけ言葉を失う。


 けれど保科は気にした様子もなく、ノートを閉じると続けた。


「誰にでも同じ態度を取るのが面倒なだけ」


 まるで刃物みたいにすっきりした言い方だった。


 加瀬は「うわ、翼だ」と半ば感心したように笑い、篠宮はそんな保科の横顔を静かに見ている。


 強いな、と思った。


 やっぱり保科は、こういう場面でぶれない。人にどう見られるかで言葉を曲げない。その強さが、どうしようもなくカッコいい。


 でも次の瞬間、保科はふいにペンを落とした。


 からん、と軽い音がして、机の横へ転がる。


 僕が反射的に拾おうと手を伸ばすと、同じタイミングで保科も屈み込んだ。指先が触れそうになって、僕が慌てて止まる。


 すると保科もぴたりと動きを止めた。


 ほんの一瞬だけ、机の陰で目が合う。


 その顔は、さっきまで教室の空気を切っていた人と同じとは思えないくらい、露骨に動揺していた。


「……ありがと」


 机の陰で、保科が小さく呟く。


 たったそれだけ。周りには聞こえないくらい小さな声なのに、妙に甘く響いた。


 僕がペンを渡すと、保科は受け取る指先まで少し落ち着かない。加瀬たちが見ている前では完璧に振る舞えるのに、こういう不意打ちには弱いらしい。


 その様子を、篠宮だけが見逃さなかった。


 彼女は目を細めたまま何も言わず、ただ小さく息を吐く。まるで、何かを一つ納得したみたいな顔だった。


 昼休み。


 僕が弁当を持って席を立とうとすると、加瀬がすっと前に回り込んできた。


「ちょっといい?」


 逃げられない。


 篠宮も少し後ろに立っている。二人に囲まれる形になって、僕は無意識に背筋を伸ばした。


「えっと……何?」


「そんな警戒しなくても取って食べないよ」


「陽菜のその言い方、信用できない」


 篠宮の淡々とした突っ込みに、加瀬は「ひどっ」と笑ってから、改めて僕を見る。


「単刀直入に聞くね。君、翼に何したの?」


「何もしてないよ」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 嘘ではない。何もしていないはずだ。むしろ振り回されているのはこっちだ。


 だが加瀬はじっと僕の顔を見て、やがてふっと口元を緩めた。


「ま、そういう顔するなら、たぶん悪いことはしてないか」


「顔で判断しないでほしいんだけど」


「でも翼、明らかに君の前だと少し変だから」


 どくり、と心臓が鳴った。


 篠宮が横から静かに続ける。


「陽菜ほど言い方は雑じゃないけど、私もそう思う」


 その一言は加瀬よりずっと重かった。


「翼って、基本的に人前で取り乱さないでしょ。でも、今朝から何回かあった」


「……何回か?」


「ペンを落とした時とか」


 見られていたらしい。


 僕が言葉を失っていると、加瀬は腕を組んだままふんふんと頷く。


「だから、もし君が翼を困らせるタイプだったら、先に牽制しとこうと思って」


「陽菜、保護者みたい」


「いいの。翼、放っておくと何でも一人で抱えるから」


 その言い方に、保科と二人の関係が少しだけ見えた気がした。ただの取り巻きではない。きっと近くで見ているからこそわかるものがあるのだろう。


 篠宮は僕をまっすぐ見た。


「でも、今のところは違うみたい」


「……どうしてそう思うの」


「翼が、君のことを鬱陶しそうにしてないから」


 あまりにも明快な基準だった。


 加瀬も「それそれ」と頷く。


「翼、嫌な相手にはほんとわかりやすいからね。なのに君には、なんか……隠してるくせに隠しきれてない感じ」


 やめてほしい。第三者の口からそんなことを言われると、いろいろと直視せざるを得なくなる。


 その時だった。


「陽菜、千歳」


 低く澄んだ声が飛ぶ。


 振り向くと、少し離れた席のそばに保科が立っていた。昼休み前と同じ、涼しい顔。けれど、こちらを見る目だけがほんのわずかに鋭い。


「そこで何をしているの」


「別にー?」


「別に、ちょっと話してただけ」


「私に聞かせられない話?」


 その一言で、加瀬が「うっ」と詰まり、篠宮が小さく肩を竦めた。


 保科はそれ以上追及しなかった。ただ、こちらへ歩いてきて、僕の机の横で立ち止まる。


「行くわよ、二人とも」


「どこに?」


「購買」


 加瀬は目を丸くした。


「え、翼が購買? 珍しっ」


「今日はそういう気分なの」


「ふーん……」


 加瀬は明らかに怪しんでいたが、それでも保科には逆らわないらしい。篠宮も静かに頷く。


 二人が動き出す前、保科はほんの一瞬だけ僕へ視線を向けた。


 それだけだった。けれど、その目はさっきまで加瀬たちに向けていたものより、少しだけ柔らかかった。


 そして三人が教室を出ていく直前、加瀬が振り返る。


「君」


「え?」


「翼のこと、泣かせたらだめだからね」


 明るい笑顔なのに、妙に圧があった。


 その横で篠宮が静かに付け足す。


「あと、翼が困ってたら助けてあげて。たぶん、私たちの前では意地張るから」


 それだけ言って、二人は保科のあとを追った。


 取り残された僕は、しばらく席に立ったまま動けなかった。


 保科翼を取り巻く女子二人。


 華やかで目立って、隙がなくて、やっぱり僕とは違う世界の人たちだ。けれど、その二人ですら知らない保科を、僕だけが知っている。


 猫を前に笑う顔も。

 小さなことで耳を赤くするところも。

 そして人前ではカッコいいままなのに、僕の前でだけ、困ったように可愛く崩れるところも。


 それを改めて突きつけられた気がして、胸の奥が妙に熱くなった。


 その日の放課後、帰り支度を終えた僕が教室を出ようとした時だった。


 前方の廊下で、男子数人が保科に話しかけているのが見えた。内容までは聞こえない。だが、そのうちの一人が軽い調子で距離を詰めた瞬間、保科の空気が変わる。


「近い」


 低く、短い一言。


 男子たちがぴたりと止まる。


 保科はまっすぐ相手を見ていた。怒鳴りもしないし、表情も大きく崩さない。ただ、踏み込ませない線を一瞬で引いてしまう、その強さだけがそこにあった。


「用件だけ言って」


 その声音には無駄がなく、相手もそれ以上軽口を叩けない。結局、男子たちは何か曖昧に笑ってごまかし、そのまま去っていった。


 やっぱり、カッコいい。


 誰に対しても媚びず、自分の距離を自分で守る。その姿は、ただ綺麗なだけじゃなく、憧れたくなるくらい強かった。


 ――なのに。


 その数秒後、廊下の角を曲がって僕の姿を見つけた保科は、わずかに目を見開いたあと、すぐに視線を逸らした。


 そして、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟く。


「……見てたの」


 さっきまでの鋭さが嘘みたいに薄れている。


「たまたま」


「最近、その“たまたま”多くない?」


「保科さんも人のこと言えないと思う」


「私はいいの」


 その返しが妙に弱くて、僕は思わず笑いそうになった。


 すると保科は少しだけ頬を赤くしながら、僕のほうへ半歩だけ寄る。廊下にはまだ人がいるからか、それ以上は近づかない。でも、その距離の詰め方自体がすでに特別に思えた。


「……放課後、少しだけ」


「うん」


「中庭」


 短くそれだけ告げると、保科はまたいつもの顔へ戻り、何事もなかったように歩き出す。


 その背中を見送りながら、僕はもう認めるしかなかった。


 校内で最強に見える保科翼は、確かに誰よりもカッコいい。

 でも、僕の前でだけ見せるあの可愛い一面は、そのカッコよさを簡単に上書きしてしまうくらい破壊力がある。


 そして、その秘密を知る人間は、今のところたぶん――僕だけだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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