あなたには見られたくなかった
そして翌朝。
教室に入った僕の目に、真っ先に飛び込んできたのは、机の上に置かれた小さな白い封筒だった。
名前は書かれていない。けれど、折り目の揃い方が妙に几帳面で、封の仕方にまで無駄がない。その時点で、なんとなく誰のものか察しがついてしまうのが厄介だった。
まだ教室には人が少ない。
僕は席に着くなり、そっと封筒を開いた。中には便箋が一枚だけ入っている。整いすぎていて、かえって感情を隠しきれていないようにも見える文字が、短く並んでいた。
『昼休み、中庭には来ないで。今日はそこで、男子に告白される予定があるの』
一行目を読んだ時点で心臓は嫌な跳ね方をしていたのに、最後まで読み切った瞬間、それはもう比喩でも何でもなく、胸の内側を直接殴られたみたいな衝撃に変わった。
男子に告白される予定がある。
文字だけなら事務連絡みたいな内容なのに、どうしてこうも破壊力があるのだろう。いや、保科翼が告白されること自体は、何も不思議ではない。むしろ今までなかったほうがおかしい。顔立ちは言うまでもなく、成績も運動も優秀で、群れず媚びず、それでいて誰より目を引く。校内で彼女を意識していない男子を探すほうが難しいくらいだ。
問題は、それをわざわざ僕に伝えてきたことだった。
中庭には来ないで。
その言葉だけで、胸のどこかが妙にざわつく。来るなと言われれば、行きたくなるわけではない。ただ、その場面から僕だけを外そうとしている意図が、ひどく気になった。
朝のホームルームが始まる頃には、保科も教室に入ってきた。今日もいつも通り、無駄のない歩き方で、銀色の髪を揺らしながら自分の席へ向かう。視線ひとつ余計に配らず、騒がしい朝の教室の空気すら、その周囲だけ静かに整って見える。
完璧だった。
昨日までの僕なら、それだけで終わっていたと思う。けれど今は違う。あの完璧な横顔の裏に、猫一匹相手にものすごく真剣になってしまう姿や、耳まで赤くして言いよどむ姿を知ってしまっている。
だからこそ、今朝の彼女の静けさがいつも以上に気になった。
僕の席の前を通っても、保科は一度もこちらを見なかった。まるで、机の上の封筒のことなど最初からなかったみたいに。
それでも、四時間目の終わり際、教師が黒板へ向き直った一瞬だけ、前の席の保科の肩がわずかに動いた気がした。意識しているのは、たぶん僕だけじゃない。
そう思ったところで、何の慰めにもならなかった。
昼休みが近づくにつれて、教室のざわめきは妙に落ち着かなさを帯び始めた。誰かが中庭のほうを気にしているような、何かを知っている者同士の含みを持った空気が漂っている。どうやら、今日の呼び出しはそこそこ有名な話らしい。
「聞いた? 三組の瀬名先輩、今日保科さんに告るらしいよ」
「マジで? あのバスケ部の?」
「しかも中庭って。目立つなあ」
耳を塞ぐわけにもいかず、そんな声が勝手に入ってくる。
瀬名先輩。名前くらいは知っていた。二年の中でも目立つほうの先輩で、背が高く、運動部の中心にいるようなタイプだったはずだ。少なくとも、僕みたいな教室の隅にいる人間よりは、ずっと保科の隣にいても自然に見える側の人種だろう。
そう考えた時点で、自分でも嫌になる。
何を比べているんだと思う。比べる資格なんて最初からないのに。
昼休みのチャイムが鳴る。
僕は弁当を手にしたまま、少しだけ固まった。
行くなと書かれていた。理由もわかっている。なら従うべきだ。そう理性では理解しているのに、胸の内側のどこかがどうしようもなく落ち着かない。
結局、僕は中庭とは反対側の廊下へ向かった。
ただし、その途中、二年棟と中庭を繋ぐ渡り廊下の手前で足を止める。ここならまだ中庭に出たことにはならない、という我ながら情けない理屈で、自分をごまかした。
窓越しに見下ろした中庭には、すでに数人の野次馬がいた。目立たないよう離れた場所に散ってはいるが、明らかに様子を窺っている。視線の先では、瀬名先輩がひとり、花壇のそばに立っていた。背筋を伸ばし、けれど落ち着かないのか、何度か手を握り直している。
その前へ、保科が現れる。
ざわ、と空気が揺れた気がした。
銀色の髪が昼の光を受けて淡く光る。彼女はいつも通りの足取りで瀬名先輩の前まで歩いていき、一定の距離を置いて立ち止まった。その仕草にさえ、無駄がない。
窓越しで言葉までははっきり聞こえない。けれど、瀬名先輩の真剣な表情と、緊張でこわばった肩を見るだけで、何を言っているのかは十分すぎるほど伝わってきた。
たぶん、好きです、だとか。付き合ってください、だとか。そういう真っ直ぐな言葉だ。
保科は最後まで目を逸らさずに聞いていた。
茶化すでもなく、困ったように笑うでもなく、ただ相手の言葉を正面から受け止める。その立ち姿は、ただ綺麗なだけじゃない。むしろ近寄りがたいほど凛としていて、あの場の誰よりも強く見えた。
やがて瀬名先輩が言葉を終える。
その少しあと、保科が口を開いた。
声までは届かなくても、その表情だけで、返事はわかった。
きっぱりとしていた。
曖昧に濁して相手へ期待を残すような顔ではない。けれど、冷たく切り捨てるわけでもない。真剣に告げられた好意に対して、真剣に答えるための顔だった。
瀬名先輩が何か言い返す。たぶん、理由を聞いたのだろう。
その時、保科はほんの少しだけ顎を引き、まっすぐ相手を見た。
そして、はっきりと唇を動かす。
その言葉は読唇できるほど鮮明だった。
――ごめんなさい。
たったそれだけなのに、どうしてだろう。周囲のざわめきまで含めて、一瞬ですべてを支配したように見えた。
瀬名先輩はまだ何かを言っていた。熱意を伝えようとしているのかもしれないし、食い下がっているのかもしれない。けれど、保科は最後まで一歩も引かなかった。
やがて、瀬名先輩が片手を上げ、苦く笑ったように見えた。
負けを認めたのだろう。
そのまま彼は踵を返し、中庭を去っていく。残された保科は追わない。必要以上の言葉をかけることもなく、ただ静かに一礼だけして、その場に立っていた。
それが、ひどくカッコよかった。
誰かの好意を軽く扱わず、でも自分の意思は曲げない。相手を傷つけないように曖昧に誤魔化すのではなく、きちんと拒絶して、自分も相手も中途半端な場所に置かない。
美人とか、頭がいいとか、運動ができるとか、そういう表面的なすごさではなく、人としての芯が強いのだとわかる姿だった。
同時に、胸の奥がどうしようもなく苦しくなった。
あんなふうに真正面から想いを告げられる人間がいて、あんなふうに受け止めて返せる保科がいる。その世界の中心に、僕はたぶん立てない。
そう思い知らされるようで、情けなくなるくらい、胸が重かった。
結局、僕は昼休みの残りをほとんどまともに過ごせなかった。
教室へ戻っても、机に頬杖をついて窓の外を見ることしかできない。前の席の保科はいつも通りで、女子に話しかけられれば淡々と答え、昼食も静かに済ませていた。中庭であんなやりとりをした直後だというのに、まるで何事もなかったみたいな顔で。
その整いすぎた横顔に、僕はますます距離を感じてしまう。
放課後になっても、その重さは抜けなかった。
帰り支度をして教室を出たところで、廊下の柱の影から小さく名前を呼ばれる。振り向くと、保科が立っていた。人目を避けるみたいに、視線だけで廊下の先を示す。
「少しだけ」
それだけ言って歩き出す。
連れていかれたのは、前にも呼ばれたことのある資料倉庫の前だった。放課後のこの辺りは人気がない。窓から差し込む西日が壁に薄く伸び、遠くの部活の声だけが別世界みたいに響いている。
保科は立ち止まると、すぐにはこちらを見なかった。
「……来なかったのね」
先に口を開いたのは保科のほうだった。
「手紙にそう書いてあったから」
「そう」
短い返事。けれど、その声音にはほんの少しだけ安堵が滲んでいた。
僕は黙ったまま、彼女の横顔を見る。
昼間、中庭で見た時と変わらない。やはり綺麗で、やはり隙がなくて、やはり手の届かない場所にいるみたいだ。
なのに、二人きりになると、その完璧さの輪郭が少しだけ揺らぐことを僕はもう知っている。
「……でも」
言葉を選ぶみたいに、保科が少しだけ間を置く。
「渡り廊下から見ていたでしょう」
心臓が跳ねた。
「気づいてたの?」
「あなた、隠れるの下手だから」
少しだけ呆れたような口調だった。責める響きはない。むしろ、それを前提にしていたみたいな言い方だった。
「ごめん」
「別にいいわ。完全に来られるよりはマシだったから」
その基準はどうなんだと思ったが、口には出さない。
代わりに、昼からずっと胸につかえていたことを訊いてしまう。
「どうして、わざわざ僕に知らせたの」
保科はほんの少しだけ眉を動かした。
「知らないまま、あとから噂で聞くほうが嫌でしょう」
「……どうして、そう思うの」
「そう思ったから」
簡単すぎる答えだった。けれど、その短さの中に妙な確信がある。
僕が黙っていると、保科は一度だけ息を吐いた。それからようやく、こちらに視線を向ける。
「それに」
その一言のあとが、少し長かった。
「あなたに、ああいう場面を正面から見られるのは……なんとなく、嫌だったの」
鼓動が一拍、変なふうにずれる。
「嫌って」
「嫌」
保科はきっぱり言った。昼間、中庭で瀬名先輩に返事をした時と同じくらい、迷いのない口調だった。
「他の人に見られるのは、別にどうでもいいの。でも、あなたに見られるのは嫌だった」
意味がわからないようで、わかりすぎるくらいわかる気もして、僕は返事に詰まった。
保科はそんな僕の反応を見て、少しだけ目を逸らす。
「……変に意識されるのも嫌だったし」
「僕が?」
「そう」
「別に、そんな」
「するでしょう」
淡々と断言された。
僕は言葉を失う。否定できるほど器用じゃない。実際、今日一日ずっと振り回されていたのだから。
保科は壁際へ半歩寄り、腕を組みかけて、やめた。代わりにスカートの脇をそっと摘まむ。そういう、ほんの小さな落ち着かなさを見つけてしまうたび、二人きりの時の彼女は本当に別人みたいだと思う。
「……それで」
保科は少しだけ低くなった声で言った。
「ちゃんと断れていた?」
「え?」
「変じゃなかった?」
今度こそ、僕は本気で驚いた。
あの中庭で、誰よりも堂々として見えた彼女が。あんなにカッコよく、綺麗に相手の想いを受け止めて、きっぱりと自分の意思を示していた彼女が。
わざわざ放課後に僕を呼び出して、一番気にしていたのがそれなのか。
「……保科さん」
「何」
「気にしてたの、そこ?」
問うと、保科はすぐには答えなかった。
視線がわずかに揺れる。夕方の光が頬に差して、その白い肌に薄く赤みが浮かぶのがわかった。
「他の人にどう見えたかは、別にどうでもいいの」
ぽつり、と彼女は言った。
「でも、あなたには……」
そこで止まる。
長い睫毛が伏せられ、唇が少しだけ結ばれる。昼間の保科なら絶対に見せない迷い方だった。
「……あなたには、変なふうに思われたくなかったの」
その一言は、昼の中庭で見せたどんな凛々しさよりも、僕の胸を強く打った。
どうしてそんなことを、と思う。どうして僕なんかに、そんなふうに言うのか。
けれど、考えるより先に口が動いていた。
「変じゃなかったよ」
保科がゆっくり顔を上げる。
「すごく、カッコよかった」
それはもう、お世辞でも何でもなかった。
「相手のこと、ちゃんと正面から受け止めてたし、曖昧にしなかったし。ああいうの、簡単にできることじゃないと思う」
保科は黙って聞いていた。
その表情は昼間みたいに動かないのに、目だけがほんの少しずつ揺れている。
「……そっか」
やっと落ちた声は、思ったよりずっと小さかった。
「なら、よかった」
それだけ言って、彼女はほっとしたように肩の力を抜く。ほんの少しだけ、ほんの少しだけだが、本当に目に見えて緩んだ。
その変化があまりにも素直で、僕の胸はまた変な鳴り方をする。
保科はたぶん、自分で思っている以上にわかりやすい。
「でも」
ふいに、彼女が付け足す。
「疲れた」
あまりにも率直すぎる一言だった。
「え?」
「断るの、慣れてないから」
その言い方が、少しだけ拗ねたようにも聞こえる。
僕は思わず瞬いた。昼間の、あの完璧な立ち姿からは想像もつかない言葉だった。
「……そりゃ、そうだよね」
「そうよ」
保科は壁に軽く背を預け、視線を天井のほうへ逃がした。
「告白されるのは、別に珍しくないの。でも、ちゃんと返事をしないといけないって思うと、案外、消耗するものなのね」
その言い方はどこか淡々としているくせに、声音の奥だけが柔らかい。強がることをやめた人の声だった。
「朝、手紙を書いてる時も、少しだけ面倒だったし」
「少しだけ?」
「かなり」
そこは訂正するらしい。
僕が小さく笑うと、保科はじろりとこちらを見る。だが、その目に昼休みのような鋭さはない。むしろ、自分でも少し可笑しいと思っているのかもしれない。
「笑わないで」
「ごめん。でも」
「でも、何」
「その……保科さんでも、そういうのあるんだなって」
「私を何だと思ってるの」
「校内最強」
そう答えると、保科は一瞬だけぽかんとしたあと、珍しく、はっきりと困った顔をした。
「何それ」
「だって、本当にそう見えるし」
「そんなの、勝手なイメージでしょう」
「うん。でも今日も、やっぱりそう見えた」
保科はまた黙る。
そして、数秒後、ほんの少しだけ俯いた。
「……あなたの前では、あまりそうでいたくないのに」
今度は、僕のほうが固まる番だった。
たぶん本人は言ってから気づいたのだろう。はっとしたように唇を閉じる。そのくせ、もう遅い。きちんと聞こえてしまった。
「それ、どういう意味」
訊ねる声が、思ったより掠れた。
保科はしばらく答えなかった。夕陽の色が頬に移っているせいだけではない赤みが、耳のあたりまで広がっていく。
「……どういう意味だと思うの」
返ってきたのは、質問だった。
反則だと思う。
そんな顔で、そんな言い方をされて、まともに答えられるはずがない。昼間、誰よりもカッコよく立っていた人が、今は視線を合わせることさえできずにいる。その落差だけで、もう十分すぎるほど胸が苦しい。
僕が答えられずにいると、保科は小さく息を吐いた。
「……やっぱり、今のは忘れて」
「無理」
「無理じゃなくて」
「無理だよ」
きっぱり返すと、保科はますます困った顔をした。
その表情がまた、ひどく可愛い。
たぶんこの人は、自分がどれだけ破壊力のある顔をしているのか、本気でわかっていない。
「本当に、あなたって」
そこで保科は言葉を切り、少しだけためらったあと、僕の制服の袖を指先でつまんだ。
ほんの一瞬。軽く触れただけ。けれど、その接触は昼間の中庭で誰にも触れさせなかった彼女を見ていた僕には、あまりにも大きかった。
「……他の人の前では、こんなふうに困らないのに」
視線を逸らしたまま、彼女はそう呟く。
声は小さく、でもはっきり聞こえた。
僕は息をするのも忘れそうになる。
昼間、瀬名先輩に向けていた保科の姿は、間違いなくカッコよかった。憧れるしかないくらい、強くて綺麗だった。
でも今、僕の前でだけ袖を摘まんで、赤くなって、言葉を探している保科のほうが、ずっと危険だった。
心臓に悪いという意味で。
可愛すぎるという意味で。
「……保科さん」
「何」
「今の、反則だと思う」
「知らない」
即答だった。ただし声は全然強くない。
「それより」
話題を変えるみたいに、保科はようやく袖を離す。
「明日の朝、中庭に来て」
「猫?」
「猫も」
「も?」
「……少しだけ、話したいから」
最後のところだけ、また小さくなる。
それでも、その言葉がどれだけ嬉しいかを隠せるほど、僕は器用じゃなかったと思う。
「行く」
「寝坊しないで」
「しない」
「本当に?」
「今の流れで寝坊できるわけないでしょ」
そう言った瞬間、保科はぱちりと瞬きをしたあと、ふっと笑った。
小さく、柔らかく、けれど確かに僕へ向けて。
「……そうね」
その笑みは一瞬で消えた。それでも、昼間に見たどんな凛々しい横顔より、ずっと強く胸に残る。
保科は少しだけ顔を背けたまま、最後にぽつりと付け足した。
「今日は、来ないでくれてありがとう」
僕は返事をするまでに少し時間がかかった。
ただ命令に従っただけだと思っていた。けれど、その一言を聞いた途端、そうじゃなかったのだとわかる。保科はたぶん、本当に僕だけにはあの場面を正面から見せたくなかったのだ。
その理由を全部、今の僕が理解できているわけじゃない。
でも、少なくとも。
校内最強で、誰よりもカッコいい保科翼が、僕の前でだけは少しずつ可愛く崩れていく。その事実だけで、もう十分だった。
翌朝の約束の時間が、信じられないくらい待ち遠しかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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