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才色兼備の多彩で最強のカッコイイ保科さんは、どうにも僕にだけは可愛い一面を見せてくれるらしい。  作者: 沢田美


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4/12

見てもいいから

 午後の授業は、ほとんど何も頭に入ってこなかった。


 原因は明白だった。


 昼休みの中庭。三毛猫。保科の「あなたが思うのは……別に、構わないから」という、あまりにも破壊力の高すぎる一言。


 あれを平然と受け流せるほど、僕の精神は鍛えられていない。数学教師が黒板に数式を書き連ねるたび、チョークの音に紛れてあの声が蘇る。英語の長文を読まされても、単語の意味より先に、耳まで赤くなっていた保科の横顔が頭に浮かぶ。


 しかも困ったことに、当の本人は前の席でいつも通り涼しい顔をしていた。


 ノートを取る指先にも無駄がなく、教師に当てられても即座に正答を返し、休み時間にはクラスメイトからの質問に淡々と答える。誰が見ても、そこにいるのは校内最強の才女・保科翼だ。


 ――ただし、僕にだけは、もうそう見えない。


 いや、正確には違う。


 最強であることに変わりはない。むしろその印象はますます強まっている。ただ、その強さの奥に、猫一匹で簡単に崩れるくらい可愛い一面があることを知ってしまったせいで、今までの「遠くから眺めるだけの憧れ」では済まなくなったのだ。


 授業の合間、何度か前の席の保科に目が行った。


 すると、四時間目の終わり際だったか。教師が板書を写すよう指示したほんの短い時間に、保科がふいにわずかだけ顔を横に向けた。そして、誰にも気づかれないくらい微細な動きで、こちらを一度だけ見た。


 目が合う。


 次の瞬間、彼女は何事もなかったみたいに前を向いた。


 それだけだった。たったそれだけだったのに、僕の心拍数は一気に跳ね上がった。


 気のせいかもしれない。

 たまたま視線がぶつかっただけかもしれない。

 けれど、もしそうじゃなかったら、と考えた途端、もう駄目だった。


 そんな僕の惨状など知る由もないらしいクラスメイトたちは、放課後が近づくにつれて別の意味でそわそわし始めていた。部活の予定を確認する声、帰りにどこへ寄るかという相談、テスト範囲の愚痴。いつもの教室のざわめきの中に混じって、ときおり昨日の工藤の件や、今日の昼休みの中庭で見かけたという誰かの噂話まで聞こえてくる。


 嫌な予感がした。


 そして、その予感は六時間目終了後、わりと早い段階で的中した。


「なあ」


 帰り支度をしていた僕の席の横に、同じクラスの男子が寄ってくる。特別仲がいいわけでも悪いわけでもない、ごく普通のクラスメイトだ。


「昼、保科さんと一緒にいたよな?」


 やっぱり、と思った。


 しかも、その一言で近くにいた数人までこちらを見た。人の気配が集まるのがわかる。僕はできるだけ平静を装って鞄に教科書をしまいながら答えた。


「たまたまだよ」


「たまたまで保科さんと中庭行くか?」


「行かないと思うけど、行った」


「なんだそれ」


 自分でも苦しい返しだと思ったが、事実それ以上でも以下でもない。事情を説明できるはずもないのだから、曖昧に濁すしかなかった。


「ていうか、お前いつの間に保科さんと話す仲になったんだ?」


「仲ってほどじゃない」


「でも保科さん、お前のこと連れてったじゃん」


「……たまたま」


「お前それしか言わないな」


 言えるか。


 昼休みに猫を撫でるための補助要員として召集されました、なんて説明したところで、誰が信じる。いや、信じられたとしても、それはそれで困る。困るどころではない。


 クラスメイトたちは面白がっているだけらしく、それ以上深追いはしてこなかった。とはいえ、ちらちらと視線を向けられる状況はしばらく続き、僕は居心地の悪さに耐えながら荷物をまとめることになった。


 ふと前を見ると、保科はもう席を立っていた。


 帰ったのかと思ったが、机の横にはまだ鞄がある。どうやらすぐ近くで誰かに呼び止められているらしい。数人の女子に囲まれ、何か質問に答えている。表情はいつも通り落ち着いているのに、なぜか今日は、その視線が一度だけこちらのほうへ流れた気がした。


 たぶん、自意識過剰だ。


 そう自分に言い聞かせながら、僕は教室を出た。


 部活のない日は寄り道もせず帰ることが多い。今日もそうするつもりだった。靴箱へ向かう渡り廊下を歩いていた、その時だった。


「……ちょっと」


 背後から、低く抑えた声がした。


 振り向くと、少し離れた柱の影に保科が立っていた。


 銀色の髪が夕方の光を受けて、薄く透けるように輝いている。昼間なら人目を集めるだけのその立ち姿が、今はどこか秘密めいて見えた。


 僕が立ち止まると、保科は周囲を一度だけ確認してから、顎で廊下の先を示した。


「ついてきて」


 今日二度目だ、と思った。


 ただし今回は教室のような衆目の中ではない。それでも、保科翼に呼び止められたという事実だけで、心臓には十分すぎる負荷だった。


 連れていかれたのは、昨日と同じ東階段――ではなく、そのさらに先にある資料倉庫の前だった。放課後のこの時間、ここまで来る生徒はほとんどいない。窓の外では部活の掛け声が飛んでいるのに、ここだけ時間が少し遅れているみたいに静かだった。


 保科は僕が来たのを確認すると、手に持っていた小さな紙袋を差し出してきた。


「これ」


「……何?」


「見ればわかるでしょう」


 言われて紙袋の口を見ると、中には小さな缶が二つと、個包装のお菓子のようなものが入っていた。猫のイラストが描かれている。ペットショップか何かで買ったものらしい。


「猫用のおやつ?」


「たぶん」


「たぶん?」


「店員さんに聞いて、一番評判がいいと言われたものを買ったの」


 その言い方は相変わらず落ち着いていたが、どこか言い訳がましい響きも含んでいた。よく見ると、紙袋の持ち手を摘んでいる指先に、ほんの少しだけ力が入っている。


「……で、それを僕に見せる理由は?」


 訊ねると、保科は一瞬だけ視線を逸らした。


「食べさせても大丈夫そうか、確認したかったから」


「僕に?」


「あなた、あの子に懐かれているでしょう」


「だからって、僕が猫に詳しいとは限らないけど」


「でも私よりは詳しそう」


 その評価基準はどうなのだろう。


 とはいえ、紙袋を持ったまま真剣にそんなことを相談してくる保科を前に、突き放す気にはなれなかった。中をもう少し見てみると、少なくとも人間用のツナ缶などではなかったので、その点は安心だ。


「一応、猫用なら大丈夫だと思うけど……でも、野良猫に勝手にあげていいかは微妙かも」


「……そうなの?」


 保科の表情がほんの少し曇る。


「体調の問題とかもあるし、学校で継続的に餌付けすると困る人もいるかもしれないし」


「…………」


 言うべきか迷ったが、言わないほうが後でまずい気がしたので、できるだけ柔らかく伝えた。すると保科は紙袋を見下ろし、明らかにしゅんとした。


 その反応があまりにも予想通りで、僕は少しだけ苦笑する。


「まあ、絶対駄目ってわけじゃないと思うけど」


「でも、よくない可能性があるなら、やめたほうがいいわね」


 そう言って紙袋を引っ込める声は、驚くほど素直だった。残念そうではあるが、意地を張る気配はない。正しいと判断したらちゃんと引けるのは、たぶん彼女の強さの一部なんだろう。


 ただし、その落ち込み方まで律儀なのはどうかと思う。


「そんなに落ち込まなくても」


「落ち込んでない」


「落ち込んでるように見える」


「……そう見えるだけ」


 ほとんど反射で返したような否定だった。しかも目が泳いでいる。


 僕は笑いを堪えながら紙袋を見た。


「せっかく買ったなら、家で飼ってる猫がいる人にあげるとか」


「うち、猫は飼っていないわ」


「知ってる」


「知ってるの?」


「いや、なんとなく」


 保科翼の家に猫がいたら、それはそれで学校中の噂になっていそうな気がしただけだ。


 保科は小さく息を吐いたあと、少しだけ低い声で言った。


「……昨日から思っていたけど」


「何?」


「あなた、私に対して意外と遠慮がないわね」


 心臓が一瞬だけ止まりかけた。


 やはり失礼だったのだろうか。そう思って身構えると、保科は続けた。


「他の人はもっとこう……変に緊張するか、持ち上げるか、距離を取るかのどれかだから」


 その言い方には、わずかに疲れのようなものが滲んでいた。


 なるほど、と僕は思う。保科が校内で特別視されていることは誰の目にも明らかだ。美人で、成績優秀で、運動もできて、そのうえ昨日みたいな一件まであれば、周囲が勝手に壁を作るのも無理はない。


 僕だって、本来ならその一人だった。


 ただ、もう見てしまったのだ。最強の保科が猫相手にしょんぼりして、耳まで赤くして、どう見ても可愛い反応をするところを。


 それを知ったあとで、以前みたいに遠巻きの憧れに戻るのは難しい。


「……保科さんが思ってるほど、遠慮しないつもりはないよ」


「思ってるほど、って何」


「そのままの意味」


 答えると、保科はわずかに目を細めた。怒っているわけではなく、どちらかというと観察している目だった。


「変な人」


「昨日とで二回目だ」


「じゃあ、かなり変」


 言い切ってから、保科はようやくほんの少しだけ口元を緩めた。


 その微笑みは一瞬だった。けれど、昼間の周囲に向ける社交用のものとは違う。もっと小さくて、もっと無防備で、だからこそ目を奪われる。


 僕が見惚れたのに気づいたのか、保科はすぐに顔を逸らした。


「……それで」


 仕切り直すように声を整える。


「おやつはやめるとして、他にあの子と仲良くなる方法はないの?」


「本気で言ってる?」


「本気よ」


 即答だった。


 しかもその真剣さに一切の迷いがない。昨日の工藤相手にもこれくらい迷いなく言葉を返していた気がする。向ける対象が不良か猫かの違いだけで、根本の真っ直ぐさはたぶん同じなのだろう。


「……じゃあ、とりあえず無理に距離を詰めないことかな」


「前も似たようなことを言っていたわね」


「急ぎすぎると逃げるから。あと、毎回同じ場所にいるとも限らないし、見つけても絶対に触ろうとしないで、まずは慣れてもらう感じで」


 自分でも、なぜこんなにそれっぽいことを言えているのかわからない。多分、猫というより保科の反応を見ながら、それっぽい理屈を並べているだけだ。


 けれど彼女は、まるで重要な攻略会議でもしているみたいに真面目な顔で聞いていた。


「慣れてもらう……」


「うん」


「難しいわね」


「相手、猫だから」


「人間より難しいかもしれない」


「そうかも」


 僕が頷くと、保科は紙袋を胸の前で抱え直した。そして、少しだけ視線を下げたまま言う。


「……でも、あなたがいると、少しだけ上手くいく気がする」


 まただ。


 この人は、どうしてこう不意打ちみたいなことを平然と言うのだろう。


 もちろん、本人にそんなつもりはないのだろう。猫の話だ。猫の話に決まっている。わかっている。わかっているのに、言われた側の心臓がどうなるかまで考慮してほしい。


 僕が答えに詰まっていると、保科は僕の沈黙を別の意味に受け取ったらしい。


「……迷惑?」


「そうじゃない」


 慌てて否定すると、保科は少しだけ安心したように息をついた。


「なら、よかった」


 その声が思った以上に柔らかくて、僕はまたどうしようもなくなる。


 このままでは会話にならないと思い、僕は無理やり話題をずらした。


「今日、中庭は見に行かないの?」


「行くつもりだったけど」


 保科はちらりと窓の外を見る。すでに運動部の活動が本格的に始まり、中庭にも人の気配が増えてきていた。


「この時間だと人が多いから、あの子も警戒しそう」


「たしかに」


「だから今日はやめておく」


 そう言いながらも、残念そうなのが丸わかりだった。


 昨日と今日で、僕は何度この人のそういう顔を見ることになったのだろう。校内最強の看板はどこへ行ったのかと思う一方で、僕の前でだけ少しずつ隙を見せてくれることが、どうしようもなく嬉しい。


 保科はそんな僕の心中など知らず、紙袋を持ち直すと一歩、壁際に寄った。


「……じゃあ、今日はこれで」


「うん」


「また見かけたら教えて」


「了解」


「あと」


 保科が言い淀む。


 最近、この「あと」の先にろくでもなく心臓に悪い言葉が続くことを僕は学び始めていた。


「教室で、あまり私を見ないで」


「……見てた?」


「見てた」


 きっぱり言われた。


 否定できなかった。


 授業中も、休み時間も、たしかに前よりずっと目が行っていた自覚はある。あるけれど、それを本人に指摘されるのは想像以上にきつい。


「ごめん」


「責めてるわけじゃないの」


 保科はそう言ってから、一瞬だけ言葉を探すみたいに黙った。


「ただ……気づくから」


 小さな声だった。


 それだけ残して、彼女は踵を返す。僕の返事を待つことなく歩き出したが、数歩先でぴたりと止まり、振り返らないまま付け加えた。


「……だから、見るなら、もう少し上手に見て」


 耳まで赤かった。


 僕はその場で完全に思考を止めた。


 何だそれ。

 どう解釈すればいい。

 見ないでと言われたのか、見ること自体は許されたのか。

 というか、今の言い方は反則ではないのか。


 結局、保科が去ったあともしばらくその場から動けなかった。


 資料倉庫前の静かな廊下に、部活の掛け声だけが遠く響いている。手元には、さっき彼女に見せられた猫用おやつの袋の感触がまだ残っているような気がした。


 靴を履き替えて校門を出る頃には、空はすっかり夕方の色に変わっていた。


 帰り道、住宅街の隅で丸くなっていた別の猫を見つけて、僕はふと足を止めた。昨日までなら、きっとそのまま通り過ぎていたと思う。けれど今日は、猫を見るだけで銀色の髪と、耳を赤くした横顔を思い出してしまう。


 相当まずい。


 自覚したくはなかったが、もうかなり深いところまで来ている気がした。


 保科翼は、誰の前でも完璧な顔をしていられる人だ。

 校内で最強と呼ばれるだけの理由が、たしかにある。

 けれど、その完璧さの裏で、僕にだけ見せる弱さや照れや不器用さは、どれもひどく無防備で、反則なくらい魅力的だった。


 しかも厄介なことに、彼女自身はその破壊力をほとんど自覚していない。


 そんな相手を、これ以上意識しないでいられるわけがなかった。


 そして翌朝。


 教室に入った僕の目に、真っ先に飛び込んできたのは、僕の机の上に置かれた小さな白い封筒だった。


 名前は書かれていない。

 けれど、丁寧すぎるくらい綺麗に折られた便箋が一枚だけ入っている。


 嫌な予感と、期待と、緊張が一度に胸を締めつける。


 周囲を見回しても、まだ登校している生徒は少ない。前の席も空いていた。


 僕はそっと便箋を開く。


 そこに並んでいたのは、癖のない整った文字だった。


『昼休み、中庭には来ないで。今日は別の場所にいて』


 一行だけ。


 それだけなのに、僕の心臓は昨日までとは比較にならない速さで鳴り始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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